紅い瞳のその奥に 下

 歳をとると、僕の絵も変化していった。

 以前はいかに現実を再現するかにこだわっていたのだが、今では感じたまま筆を動かすようになっていた。色調も暗いものから明るいものへと変わり、代表作である「ザクロ」シリーズも描かなくなっていた。


 それから、性格も少しずつ変わっていった。もともと自分は人見知りするタイプだと思っていたのだが、画家として自信がつくにつれ、いろんな人に自分から話しかけるようになっていった。そうして人付き合いが増えていくと、自分が案外話好きだということも分かってきた。

 広くなった自宅に友人知人を呼んで夜通し飲み明かしたり、さらには人並みに女性とも交際をするようになった。酔い潰れて寝ていることやそもそも家に居ないことも増えたため、当然ザクロと過ごす時間は減っていった。


 ある日も、僕は日課だったブラッシングをすっぽかし、酔い潰れて眠ってしまっていた。目が覚めた時にはもう夕暮れ時で、起き上がって辺りを見ると、パーティをして騒いだ残骸だけがリビングにごちゃごちゃと転がっていた。

 僕はガンガンする頭を押さえながら、とりあえずザクロに餌を与えに行った。多少餌の時間が前後しても大丈夫なように、干し草は常に多めに置いてある。よっぽどのことがなければ、水もボトルにたっぷりと入っている。ザクロの部屋のエアコンは24時間作動してあるようにしてあるし、飼っている環境はそれほど問題はないはずだ。


 ドアを開けると、ザクロはじっと片隅で固まっていた。人間で言えばもう80歳を超えている。最近では素早い動きをとることもなく、こうして座っていることが多くなった。

 餌箱にはペレットが少し残っていた。僕はそこにまたペレットを足して、干し草もひとつかみ入れた。ふと振り向くと、足元にザクロが居た。なんの物音もしなかったので、気づかずに踏み潰しそうになってしまった。ザクロはじっと僕を見ていた。

 僕は屈んで、その額を撫でた。こうするのは随分久しぶりな気がする。ザクロは押し黙ったままだった。

 瞬きもせず見開かれた瞳の赤は、さらに深みを増している。ザクロと目が合った。その瞬間、僕はその目に吸い込まれるような感覚に陥った。


 どれだけ時間が経過したか分からない。気がつけば、目の前にザクロは居なくなっていた。辺りは照明なしでは見えないほど、薄暗くなっていた。僕は慌てて立ち上がり、囲いをまたごうとした。その時、視線を感じて振替った。部屋の奥の方にいるザクロが僕を見ていた。その目は暗闇の中で怪しく光っているように見えて、僕はなんだか気味が悪くなってしまった。


 それ以来、僕は極力その部屋へ行くのを避けるようになった。それと同時期に、仕事の都合で長期間部屋を開けることが増えたため、ハウスキーパーを雇うことにした。そしてやってきたおばさんに、ザクロの世話もほぼ全般頼むようになっていった。

 仕事の方は以前ほどの勢いは無くなったものの、それなりの収入は得ていた。さらに、生涯添い遂げたいと思うようなパートナーにも出会った。僕と彼女は婚約し、同じ屋根の下で暮らし始めた。だが彼女はアレルギーがあるらしく、ザクロの部屋には入りたがらなかった。写真を見せたこともあるのだが、あの真っ赤な目が不気味だと言うので、あまり話題に出ることもなかった。


 そうして、ザクロにブラシをかけることも、額を撫でることも、名前を呼ぶこともない日々が続いて行った。


 それから数年が経ったある日の夜中、僕は仕事に行き詰まって悩んでいた。無事に結婚式を挙げ、妻となった彼女はすでに寝室で眠っている。カチカチという時計の音だけが僕の心をはやらせていた。

 最近、自分が何を描きたいのかが、もやがかかったように見えなくなることが何度かあった。発注がかかった絵の納期は迫っている。だが、明るい色の並んだパレットの中には、僕が求めている色はないように思えるのだった。

 いわゆるスランプの状態だった。色だけではない。僕は自分の題材も、構図も、描き方すらも疑問に思い始めていた。全盛期に比べて、仕事の量は減っている。堕ちた画家だと僕の前を去って行った人たちもたくさん居た。だからこそこの仕事で挽回しなければいけないのだが、そう思えば思うほど、蟻地獄にはまったように身動きが取れなくなるのだった。


 僕は久しぶりにあのザクロの絵を初めて描いた日のことを思い出した。うさぎの平均寿命を超えた今でも、ザクロは隣の部屋で生きていた。人間に換算したら一体何歳なのだろう。それがまた気味悪く思えて、僕の足はあの部屋から遠のいていた。

 あの時のように、ザクロに会えば何か変わるんじゃないか。僕は立ち上がり、廊下へ出た。真っ暗な廊下はしんと静まり返っている。

 ザクロの居る部屋のドアノブを握った。ゆっくりとそれを開ける。ここへ入るのは、いつぶりだろう。


 当然だが、部屋の中は真っ暗だった。今更だが、ザクロに対して後ろめたい気持ちが湧いてきた。世話も人に任せきりなら、顔を見に来ることも、話題に出すことすらもなくなっていたのだ。ザクロはもしかして僕を恨んでいやしないだろうか。

 僕は謝罪の意も込めて、機嫌をうかがうように小さな声で名前を呼んでみた。その声は闇の中に消え、他に物音は何もしなかった。

 電気をつける。囲いの中を見て、思わず固まった。


 ザクロは鮮血の中に佇んでいた。真っ白な体の周りに、赤色の液体がコップ一杯をひっくり返したかのように飛び散っていた。ザクロはその中心で真紅の目を見開いて、じっと僕を見つめていた。その目は、周りの血よりも生々しく、禍々しい光を携えていた。


 僕は部屋から飛び出ると、妻が寝ている寝室へと走った。寝息を立てている妻を叩き起こすと、驚く彼女にしどろもどろになりながら状況を説明した。1人ではとてもあそこへ近づく勇気が持てなかったからだ。


 熟睡していたのを邪魔された妻は不機嫌になりながらも、部屋の前までついてきてくれた。だが、アレルギーがあるからとそこから先へは一歩も入ろうとしなかった。

 それだけでも十分に心強かった。僕はごくりと唾を飲み、思い切って部屋の中に入った。

 しかし、そこには先ほど見たような光景は広がっていなかった。


 床には血溜まりなどできておらず、そこにザクロも居なかった。僕は何が起きたか分からず、パニックになりながら妻に捲し立てた。妻はちらりと部屋の中を見ると、何もないじゃないと呟き、あくびを一つ残して寝室へと帰って行った。僕は振り返って囲いの中を見た。やはりそこにはいつも通りのゲージと床があるだけだった。

 だが、そこで違和感を覚えた。そうだ、肝心のザクロがいないじゃないか。僕は名前を呼びながらザクロを探して回った。

 すると、ザクロはケージの後ろの陰になっているところでぐったりと横たわっていた。


「ザクロ……!」

 僕は囲いに足をもつれさせながら、ザクロに駆け寄った。ザクロはまだ意識があるようで、浅い呼吸を繰り返していた。僕はザクロに負担をかけないようにして、その体を観察した。先ほど見たものが現実なら、どこか怪我をしているんじゃないかと思ったからだ。そうだ、あの時怖がって寝室などに行かずに、すぐに駆け寄るべきじゃなかったのか。僕は今になって後悔し、ザクロに何度も謝った。

 だが、どこをみてもザクロが怪我をしているような様子はなかった。それどころかその体には血の一つもついていなかった。

 目の前の奇妙な出来事に困惑しつつも、まずはザクロをなんとか元気にしなければと、僕は携帯を取り出した。だが、どこへかければいいか、取り乱した頭では判断がつかなかった。そこでとりあえず、いつも来てくれているハウスキーパーのおばさんに電話をかけた。そのおばさんはザクロにすっかり愛着が湧いたらしく、暇さえあればこの部屋に入っていくのを見ていた。

 

 非常識な時間であるにもかかわらず、おばさんは数コールで電話に出た。先ほどの血溜まりのことは言わず、現在のザクロの状況を伝えると、おばさんは悲しそうなため息をついた。

「ザクロちゃん、最近めっきり動かなくなってきたし、ご飯も食べてくれなくて。残念ですが、おそらく天寿を全うするところなんだと思います」

 おばさんはとても申し訳なさそうな声で言った。


 寿命という言葉で幾分か落ち着きを取り戻し、僕は夜間に繋がる動物病院の番号を調べて電話をかけた。何度かかけてやっと医師につながり、ザクロの容体について細かく説明した。だが、医師から言われた診断も、おばさんと同じものだった。


 ぐったりと目を閉じたザクロはだんだん呼吸が小さくなっていった。僕はその様子を、ただじっと見つめることしかできなかった。今の自分には、その小さく丸まった背中を撫でる資格もないように思えた。

「ザクロ、本当に……なにもしてやらなくて、ごめんな」

 気づけば頬を涙が流れていた。


 その時、ザクロがゆっくりと目を開けた。僕はザクロと目が合ったような気がした。その瞳は、やさしい紅色をしていた。その瞬間、後悔の念がどっと押し寄せてきた。

 僕はどうしてこんな大事な相棒をずっとひとりにしていたのだろう。ごめん、ごめんと呟きながら、その頭を撫でた。ザクロはぷうぷうと鼻を鳴らし、目を閉じた。そしてその目は、二度と開くことはなかった。



 あれから僕は、一枚の絵を描いた。思い返してみれば、どうして今まで描いていなかったのか不思議でしょうがなかった。それだけ僕は自分よがりで、目の前のこともちゃんと見えていなかったのだろう。

 絵の中のザクロは真っ白で、真紅の瞳をしていた。僕の中にあるザクロの記憶をなるべく絵の中に再現した。最後に見たザクロの瞳は、どんな赤色より綺麗だった。


 「ザクロ」のシリーズは堕ちかけていた画家の新たな代表作になった。でも、最初に描いたこの一枚だけは絶対に誰にも譲るつもりはない。

 食卓から見えるザクロは、いつも僕を幸せな気持ちにするのだった。


 




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