髪の毛(完結済)

髪の毛 1

 こう言っては何だが、私の人生は順風満帆だと思う。安定した収入で気の合う旦那と結婚し、待望の娘にも恵まれ、30代で家も購入できた。

 外で働くのは旦那に任せて、今は専業主婦をしている。広いキッチンで夕飯を作っている時には、ついいつもこんなことを考えてしまう。


 かわいい我が子はすぐ目の前のリビングで遊んでいた。やっとつかまり立ちができるようになったばかりだ。

 少しずつ、自分の周りにはさまざまなものがあるという事が分かってきて、娘は特にそれらを口に入れてみたいという衝動に駆られやすいタイプのようだ。

 だから本当に片時も目を離せないが、旦那が帰ってくるまでに夕飯も作り終えなければいけない。でも困ったことに娘は自由を奪わられるのがかなり嫌いなようで、中々おんぶ紐を使わせてくれないのだった。

 仕方なく、対面キッチンから見守りながら素早く調理をしている。


 遊んでいる娘の姿は本当に愛らしい。

 ぷよぷよとした小さな手でおもちゃをつかんでは、キャッキャと嬉しそうに笑っている。

 産まれてきてくれた時の光景は昨日のことのように思い出せるので、あっという間に大きくなったなとつい感慨にふけってしまう。嬉しいような、寂しいような。

 これからどんどん成長していくのに、今からこんなで私はどうなるのだろうと頭を振る。そうして娘を見つめていると、また何かを口にしているのが目に入った。

 鍋の火を止めて、慌てて駆け寄る。娘は黒く太い紐のようなものをくわえて口をもぐもぐさせている。その先端をつかみ、ぐっと引っ張り出した。紐はするりと抜け出たが、つかんだ瞬間にそれが何であるかを悟り、私は思わず投げ捨てた。


 それは髪の毛の束だった。真っ黒で長い髪の毛が、つかめるくらいの太さに束ねられている。この感触は人工毛ではない。

 慌てて娘の口の中を確認する。携帯のライトを当てて隅々まで見たが、幸い髪が残っていることはなさそうだ。

 すぐに娘の口をゆすがせて、髪の毛はゴミ箱に入れた。しかし、何となく気持ち悪かったのでそのまま袋を縛り、ゴミ捨て場まで持って行った。娘を抱えながら、明日が燃えるゴミの日でよかったと思った。


 家に戻って水を飲むと、少し落ち着いてきた。あれは一体誰の髪の毛だろう。

 黒くて、少しゴワゴワした直毛は異様に長かった。私の髪は染めているし、ショートヘアだ。

 脳裏に浮気という言葉が過ぎるが、それは考えづらい。なんせ、私はほぼ一日中家にいるのだ。女を連れ込むタイミングなどない。

 仮に外で浮気していたとして。私がもしその浮気相手の立場なら、妻に旦那の浮気を示唆させるために鞄に忍ばせるとしても、せいぜいでアクセサリーや化粧品だ。大きく出ても下着までだろう。

 男の衣類に髪をくっつけるという手もあるが、それにしても1、2本程度が限界ではないか。

 髪の毛の束が入っているのは完全に異常だ。それを準備してこっそり持たせるような女がいたとしたら、それは狂った人間だ。


 しばらくして帰ってきた旦那は、いつも通りだった。私と娘の顔を見ながら心底嬉しそうにご飯を頬張る姿からは、浮気の可能性は微塵も感じ取れない。やはり浮気の線はないだろう。

 だとすれば、あの髪は一体……。

 背筋にぞくりと薄寒いものが走る。

 青い顔をして箸を持ったまま固まっている私を心配して、旦那が声をかけてきた。相談しようかとも思ったが、もう話題に出すのすら嫌だった。

 これ以上考えるのはやめよう。もう忘れてしまおう。

 そうしているうちに、娘が泣き出した。それをあやし、ご飯を食べさせ、旦那が娘をお風呂に入れている間に残った家事をして、娘を寝かしつけ、うとうとしている間に次の日が来て……。


 いつのまにか、わたしの日常が戻ってきていた。




 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る