紅い瞳のその奥に 上

 僕は絵を描いている。画家と名乗るにはまだ早いが、僕の絵を気に入ってくれた人も何人かはいる。そのおかげもあって、本当に小さなものだが、個展も開いたことがある。表参道から少し住宅街の方へ入って行ったところにある、小さなビルの一階だった。

 ほんの数点しか並べられない狭さだし、たったの3日だけの個展だが、コネで見に来てくれた人や物好きな人がちらほら見えていた。

 その中で僕の絵を気に入って購入までしてくれた人が、ザクロの絵をリクエストしてきた。なんでもその人はいくつかのレストランを経営しており、今度新しくオープンする予定の店舗に飾りたいらしい。

 もちろん僕はすぐにそれを受け、帰ると早速制作に取り掛かった。


 僕のモットーはなるべく現実をそのまま描くというものだ。見たものを何の違いもないように絵の中に描きこむことで、現実以上の、現実にはない何かをそこに立ち上がらせることが出来ると考えている。

 だから、始めは順調に進んでいたザクロの絵は、着色の段階で完全にストップしてしまった。

 あの独特の艶のある深い赤色が、どうしても気に入ったものにならなかったのだ。


 数日間、その色のためだけに費やした。赤と黒と、そこに様々な色を少しずつ混ぜ合わせて試行錯誤したが、やはりこれと思えるものには出会えない。僕はずっと悩んでいた。そうは言っても約束の日は決まっている。早く色を完成させなければせっかくのチャンスを不意にしてしまうかもしれないと、気持ちばかりがはやって空回りしていた。


 食事も忘れて、薄暗く汚れた部屋で引きこもる生活が続いていた。期日はもう目の前まで迫っていた。重苦しい空気と目の前の未完成のキャンバスに耐えきれず、僕は半ば投げやりな気持ちになって部屋を飛び出した。

 ふらふらと街の中を歩き回る。道ゆく人はみんな楽しそうで、悩みなんてないように見えた。どうして僕だけこんな辛い思いをしているんだと、憎悪に近い感情が芽生えてきた。嫉妬、絶望、様々などす黒い思いが胸のうちに渦巻いて、僕を今にも飲み込もうとしていた。


 その時、僕の目に赤い色が飛び込んできた。それはまさに僕が求めていた真紅だった。ぱっと顔をあげると、そこはペットショップだった。ガラス張りの店先のケースの中に、真っ赤な目をした白いうさぎがじっとこちらを見ていたのだ。


 その瞬間、僕はこれだと思った。考えるより早く店に入り、店員さんに話しかけていた。部屋着のままの男が飛び込んできて興奮気味にまくし立ててきたのだから、さぞ驚かせてしまったことだろう。話が進んだ後にようやく気付いたが、僕は財布すら持ってきていなかったのだ。

 あわてて財布を取りに戻り、中身が足りないことに気づいてATMにおろしに行ってから店に戻る。うさぎを飼うのは初めてだったので、ケージから何から一度に揃えなければならなかった。僕はどうしても今日中にそのうさぎを迎えたかったので、ケージや餌を持って一度家に運び、再び出向いてその真っ白な生き物を連れて帰ったのだった。


 うさぎの目を見ながら、僕は一目散に絵を仕上げた。教えてもらった通りにうさぎの世話をしつつ、自分のことは後回しで、あとは絵に没入した。

 期日ギリギリで絵は完成し、無事に依頼人に届けることができた。苦労の甲斐もあって、依頼人はその絵をひどく気に入ってくれた。そしてそれ以来、時々僕に絵を発注してくれるようになったのだった。


 達成感や開放感に包まれながら帰宅すると、そこには真っ白なかたまりがちょこんと座って僕の帰りを待っていた。その時になって僕はようやく同居人になるこいつのことを考え始めた。恐ろしいことに、記憶はあるもののうさぎを飼ったという自覚はその時になって初めて芽生えてきたのだった。

 正直に話せば、飼い始めた理由は今述べたような不純なものだった。僕はこいつを絵のための参考にするために購入したのだ。命あるものに対してひどく無礼だったと反省し、責任を持って最後まで添い遂げようと覚悟した。


 だが結局そんな覚悟をせずとも、すぐに僕はそいつにべったりになった。マンションで生まれ育った僕は今まで生き物を飼ったことがなく、それほどペットというものに興味がなかった。それが、こいつの居ない生活など考えられないというまでになったのだ。

 こいつと出会った理由でもあるその赤い目と、あの依頼にちなんでザクロという名前をつけた。


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