六 真実、最果て、青の群れ

 僕たちは今まで歩いてきた道を戻り、浜辺で波の音を聞いていた。花火が止んだ空はこの世で一番昏い闇に塗りつぶされていて、そのかわりに無数の星が瞬いていた。

「あなたに二つ、謝らなければいけないことがあります」

 悠乃は浴衣から元のセーラー服に着替えていて、髪も下ろしていた。砂浜にしゃがみこんで、彼女は尋ねてくる。

「一つは、嘘をついたことです。何のことかわかりますか?」

「……ここは死後の世界なんかじゃない、とか」

 本気でそう思っているわけではなかった。いわば、祈りにも似た確認だった。もしこれが当たっていたとしたら、すべてが笑い話で済む。僕と悠乃はこれからどうにかしてこの島から戻り、いつも通りの日常を送りながらもっと一緒にいることができる。

 でも、彼女はゆっくりと首を横に振った。

「そうだったら良かったんですけどね。残念ながら、そのお話は本当です。〈サイハテ〉は間違いなく、死んだ魂を慰めるための場所です」

 やはり、と僕はため息をついた。元から無理のある希望だとは思ったけれど、それにすがりつきたくなるくらい、真相は辛いものだった。


「じゃあ、きみなんだな。〈サイハテ〉の本当の主人公は。若くして命を落としたのは、僕じゃなくて、きみだった」


 悔しくてたまらなかった。拳を強く握っていなければ、今にも叫び出してしまいそうだった。だけどせめて毅然として彼女と向き合わなければならない、と思った。それが、ができる数少ないことなのだから。

「ええ。嘘をついていて、ごめんなさい」

 どうしてそんな表情ができるのかと思うほど、悠乃は穏やかに笑った。

「私、死んだんです。若年性のガンで。手の施しようがない状態になるまでは何年もかかりましたから、覚悟はできていました。手術も投薬もできる限りの治療はしてもらって、それでも治らないのなら、さっぱりと諦めようと思ったんです。でもやっぱり、一つだけ心残りがあった」

 あなたのことです、と彼女は言った。

 神様に願った、理想の夏。

 空の下に海が広がる世界も、ひまわり畑も、駄菓子屋も。縁側で昼寝をするのも、浴衣を着て夏祭りに行くのも、すべて悠乃が病床で憧れたものだった。

 奥歯を噛みしめる。彼女が病に苦しんで、その生涯を終えるまで、僕はいったい何をしていた? のうのうと日々を生きて、彼女の面影を思い出の中で追っていただけだ。自分の滑稽さに呆れて物も言えない。

 五年前に、必死で彼女へと繋がる糸を見つけ出していたならば。担任教師に土下座でも何でもして、手紙の一通でも出すことができていたならば。彼女の最期を少しは楽にできていたかもしれないのに。

「謝らなければいけないことの二つ目は、五年前のことです。あなたに何も言わず、転校なんかしてすみませんでした」

 僕の考えを見透かしたように、悠乃はさらに核心に触れた。

「もしかして、あの頃にはもう……」

「はい。ガンが発覚してすぐ、東京の大きな病院で手術を受けることになったんです。手術は成功しましたが、私はそのまま入院生活が続き、再発と小康を繰り返していました」

「知らせてくれれば、僕はいつでも見舞いに行った。何ができるわけでもないけれど、それでも一緒にいて、きみを励まし続けることくらいはできたはずだ」

 でしょうね、と優しい目で彼女は答えた。「だからこそ、私は言わなかったんです」

「どういうこと?」

「あなたに闘病中の姿を見せたくなかった。当時の私は十二歳でしたが、抗ガン剤の副作用がどういうものであるか、正確に知っていました。自分のガンの生存率がどれくらいであるか、も」

 素直じゃなかったんですよ、と彼女は呟いた。本当は心細くて仕方がなかったのに。精一杯の見栄を張って、和哉くんを遠ざけたんです。

 僕は、彼女の吐露に対して、何も返すべき言葉を持たなかった。悠乃の気持ちを少しでも考えれば、僕に安易な慰めや謝罪を口にする資格はないことは明らかだった。

「和哉くんと行く約束をしていた夏祭り、本当に楽しみでした。実際私は、またあなたと再会して、約束をやり直すという希望のために五年間を懸命に生き続けたんです」

 そしてその願いは今日叶いました、と彼女は言った。

「だから、和哉くんには本当に感謝しています。願いに応えて、この場所までやってきてくれたこと。私のどうしようもない嘘に、気づかないふりをしてくれたこと。一緒に理想の夏を、この群青の世界で、過ごしてくれたこと」

「やめてくれ。それ以上……言わないでくれ」

 目の前がぼやけて、僕は腕で顔を拭った。それでもなかなか視界はクリアにならなくて、温かい涙がはらはらとこぼれ落ちた。

「泣いているんですか、和哉くん」

 彼女の優しい声にまた涙腺が緩んで、僕は必死で顔を押さえた。

「泣いてない。泣いてないから、いなくならないでくれ。やっと会えたんだ。頼むよ」

 嗚咽を漏らす僕の頭を抱えるようにして、悠乃が身体を抱き寄せてくる。ああ、こんなに温かいのに、もう彼女はこの世にいないだなんて。心臓の鼓動だって、二つ分が今確かに重なっているのに、片方はもう二度と動かないだなんて、そんなことがあっていいのか。

「もう全部、全部手遅れなんですよ。でも手遅れだからこそ、こうしてあなたの側にいる。これってとても素敵なことだと思いませんか?」

 自分より大きい背中をぽんぽんと叩いて、彼女は言った。僕はなかなか感情が整理できなくて、まだ鼻を啜っていたけれど、そんなのはいい加減格好が悪いから、顔を上げて無理やりに笑った。

「ああ、そう思うよ」



 夜の海に浮かぶ名無しの駅は、昼間よりもずっと寂しげに見えた。文字のない看板のぼんやりとしたバックライトのおかげで、かろうじて駅の輪郭を見失わずに済んだ。

「電車を使わずにここまで移動できるなら、なんで行きはあんなものを用意したんだ?」

「海の上を走る電車、いいでしょう。昔観た映画に出てきたんです」

 悠乃は得意げに言って、それから困ったように笑った。

「実際は、だんだんとこの世界に干渉する力が強まっているみたいなんです。お昼頃は、まだここまで自分の思い通りにすることはできませんでした」

 もしかすると、体調が悪くなったり、急に眠くなったりしたのは彼女の変化に関係していたのだろうか。

 そう僕は想像してみる。命の残り火を燃やし尽くして、それでも立派に彼女は願いを叶えたのだ。

「もうほとんど私は〈サイハテ〉の向こう側の存在になっているんだと思います」

「残り時間はあとどれくらいなんだ?」

「ちょっとだけ」彼女は寂しげに微笑んだ。「あと本当に、ちょっとだけです」

 僕たちは特に言葉を交わすことなく、自然とお互いの手を繋いだ。一秒でも長くこうしていることが最も正しい行いだとわかっていた。

 悠乃が海を眺めながらぽつりと呟く。

「この五年で、私たちは変わらないところもあれば、変わったところもありますね」

「僕は何が変わった?」

「だいぶ謙虚に、悪く言えば卑屈になりました。昔はあんなに自信満々だったのに」

「大人になったと言って欲しいな。身の程を知って、現実を見つめることができるようになったんだ」

 くすくすと笑って、彼女はまた尋ねてくる。

「私は何か変わったところはありましたか?」

「嘘をつけるようになったことかな。五年前のきみは、どうにも不器用なところがあった」

 常に相手に正直だったからこそ、悠乃は教室で浮いていたし、五年前のあの日にしても、適当な嘘でごまかすことなく黙って去っていった。真相を知ってみると、そこに妙に納得した一方で、今の悠乃がけろりとした顔で僕を騙したことが意外にも思えたのだ。

「和哉くん、さては根に持ってますね」

「まあ、お互い面倒なところも人並みになったな、と思ってるよ」

 そうですね、と楽しそうな相づちが返ってくる。

「五年間ずっと、和哉くんが私の希望のすべてだったんです。だからこそ」

 死に際まであなたを夢見ていたなんて、恥ずかしくてとても言えなかったんですよ。

 風にさらわれる小さな声は、聞かなかったことにする。

 そのかわりに、僕は悠乃に向き合った。時間が来る前に、これだけは伝えておかなければならない。

「きみの魂はこれからいよいよ消えてしまって、僕は現実に戻る。今日のできごとはとても特別なことで、もう二度と僕はきみに会うことはできない。そうだな?」

「そうですね。あなたが、私の作り出した虚像でなければ」

 いつかの疑問が、立場を変えて返ってくる。

 確かにその可能性はあった。僕は自分が〈本物〉であると証明することはできない。それでも、胸のうちには燃えるような確信があった。僕が、僕こそが、彼女の願いによって呼ばれた冨田和哉なのだ。そうでなければ、きっとこの決意は生まれない。

「虚像なんかじゃないさ。僕はちゃんと、ここにいる」

「はい。私もそう思います」彼女は短くうなずく。「ですから月並みですが、私のことは忘れて、どうか幸せに生きてください」

「お断りだ」

 深く息を吸った。身体の隅々まで血を巡らせて、腹の底から声を出す。

「僕はきみの後を追ったりしない。寿命の残り一滴まで、絞り尽くして生きてやる。でもその七十年か、八十年かは、きみのことを考えて生きるんだ。きみがひまわりの花言葉を言わなかったこととか、ラムネを上手く開けられなかったこととか。寝顔が思ったより間抜けだったこととか、浴衣がめちゃくちゃ似合っていたこととか、あのときやっぱりキスしておけばよかったとか」

 胸にうずまく思いを、全部ぶちまける。きっとそうすることが、一つ一つ整理して話すよりも正しい伝え方なのだと信じているから。

「そうやってきみを想い続けて生きるから、きみを諦めなんてしないから、そうしたらきっと神様も折れてくれるから。だから来世でも、僕たちは巡り会って、また一緒に夏を過ごそう」

 一気にまくしたてて、僕は大きく息をつく。肩で呼吸しながら悠乃を見ると、彼女はぼろぼろと泣いていた。

「ずるいです、和哉くん。私は絶対に泣かないって、そう決めていたのに」

 しゃくり上げながら、大粒の涙をこぼしながら、それでも彼女は満面の笑顔を浮かべる。

「和哉くん、目を閉じてください」

「え?」

「いいから、もう時間がないんです」

「わかった、これでいいか?」

 僕はぎゅっと目をつぶる。せっかく我慢する覚悟を決めたのに、とか、そもそも心の準備が、とか、慌てているうちに「それじゃ、いきますよ」という言葉が聞こえてくる。

 そして、フッ、と柔らかい風が期待していた唇を通り過ぎて、耳元を通り抜けていった。その肌触りから彼女の体温を感じて、僕は思わず振り向いた。

「ありがとう。一足先に、向こうで待っていますね」

 風が過ぎゆくとき、確かにそう聞こえた気がした。

 僕らの間に、別れの言葉は——必要なかった。

 


 目を開けると、僕が焦がれ続けた女の子の姿は、もうどこにも見えなかった。どこまでも続く大海原と、無人の駅と、天上に煌めく星のほかに、この世界には何もない。

 僕は半ば倒れるようにしてベンチに寄りかかり、雨よけの向こうに見える夜空をただじっと見つめた。

 夜空の色はずっと黒だと思っていた。どこまでも深い闇で、だから月や星の輝きが引き立つのだと知ったふうに悟っていた。でも、今こうしてじっくりと観察してみると、夜空は不思議と青みがかっているように見えた。もしかしたら夜明けが近いのかもしれないし、〈サイハテ〉の空が特殊なのかもしれない。

 群青なのだ、と僕は気づく。青空も、海も、夜空も。色々な青が連なってできている。悠乃の理想の夏を体現している。

 この世界では、青が群れている。



 それから僕は、日常に戻った。学校へ行って、バイトに打ち込んで、お気に入りの本を読んで、人生の平凡さを噛みしめながら眠りにつく。退屈で、幸せな毎日を何年か繰り返した。

 そこに悠乃がいないことは前から同じで、五年分の時間が嫌でも喪失の痛みを和らげてしまっていて、だから涙で枕を濡らすなんてことはなかった。そうしてあの約束通りに、僕は今も生きている。

 窓を開けると、ぬるい風が入ってくる。夏の温度が漂う、独特な匂いだ。生と死の境界が薄くなっているのを感じて、こういう日はあの世界の思い出がより鮮明に蘇ってくる。目を閉じれば、群青の世界で笑う彼女がすぐそこにいる。

 今日も僕は、あの夏を幻視する。


                                   〈了〉

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群青の夏、命尽きても 空き缶 @hadukisou

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