翻訳アプリは、愛を紡ぐ。

もり ひろ

翻訳アプリは、愛を紡ぐ。

「オハヨウゴザイマス、ニシムラサン」

 ヤンさんに声をかけられた西村くんは、慌ててスマートフォンを取り出し、待ち受け画面からあたしを起動する。

「ヤンさん、おはよう。ちょっと待ってね、グルグル翻訳出すから」

 グルグル翻訳。それがマイネーム。そして、ユーザーに言われた言葉を、別のランゲージにトランスレートして伝えるのがあたしのジョブ。

 え、あたしの性別ですって? そんなのいいじゃない、男でも女でも。あなたの好きな性別だと思ったらいいわ。

 あたしたちグルグルファミリーは、あらゆる機能を持つファミリーがいて、一つ屋根の下ならぬ一つ機械の中で共に暮らす。特に、あたしのおねえちゃんの「グルグル検索」、おにいちゃんの「マップ」なら誰でも使ったことがあるんじゃないかしら。

「ヤンさんの出向も今日が最後だから、一緒に挨拶まわりをしましょう」

 彼がわたしの耳元でハキハキと喋る。イングリッシュにトランスレートして発音すると、ヤンさんは大きく頷いた。

 西村くんが務めるカンパニーでは、フィッシングで使うリールを製造している。あたしには詳しいことはわからないけれど、リールは数百のパーツをアセンブリしていて、とても精密に作られているらしい。

 ハイグレードなプロダクツは西村くんのいる本社工場で製造しており、それ以外のプロダクツはヤンさんの属している海外工場で製造しているそうな。

 そのヤンさんが本社工場へ来たのは、ちょうど一年前。海外拠点の製造クオリティ向上のため、本社工場へ出向になったらしい。

 ヤンさんは自分の国のランゲージとイングリッシュが話せた。カンパニー内では基本的にイングリッシュで会話をする。

 ところが、西村くんはジャパニーズひとつしか話せなかった。彼の方言の「津軽弁」も一つのランゲージだと思えば二つだけれど。

 彼は片言のイングリッシュを使い、無理してヤンさんと話そうとしていたけれど、会話が途切れ途切れで仕事にならなかった。

 それでも、あたしのカンが疼いた。ヤンさんだって、西村くんだって、会った瞬間からお互いに惹かれ合ってたって、すぐにわかった。そこにラブが生まれていたのだ。

 その時に二人の間を取り持ったのは、誰だと思う?

 あたしよ、あ・た・し。

 あたしが恋のキューピッドになったのよ。

 もちろんあたしだって、完璧にトランスレートできるわけではない。誤訳、というミステイクを犯す。時には致命的なミステイクを犯すこともあって、恋のチューペットになりかけたこともあった。二つのものを一つにするのか、一つのものを二つに分けるのか程度の違いだけれど、この二つは本質的に真逆なの。

 言いたいことをあたしに伝えて、相手の国のランゲージにトランスレートしていく。最初こそ、あたしの使い方に慣れていなくてスムーズな会話ではなかったけれど、今では流れるように会話が進む。

 カンパニー内のランゲージ教育プログラムを利用して、お互いのカントリーのランゲージを学んでいた成果はまだ出ておらず、彼らはあたしが手放せなかった。

「大津課長、今日はヤンさんの最終日ですので、挨拶したいそうです」

「オオツサン、オセワニナリマシタ」

「おお、ヤンちゃん、日本語上手になったね。向こうでも頑張ってね」

 西村くんはすかさずあたしを起動して、大津課長の言葉をトランスレートしていく。あたしの声を聞いて、ヤンさんは大きく頷いた。

「アリガトウゴザイマス」

 そうやって、関係各所に挨拶まわりをするだけで一日を終えた。その間、西村くんは付きっきりでヤンさんのアシストをしていた。

 仕事中の西村くんは、本当にデキる先輩という空気が漂っている。機械のあたしが言うのも変だけど、とてもいい男なのだ。初めて彼があたしを起動した時、「あら、やだ、いい男」と表示してしまい、西村くんは誤作動だと思って困惑していた。

 それが、恋愛沙汰となれば、彼はからきしダメ。検索おねえちゃんの履歴には「外国人女性 デートに誘う」とか「モテる日本人男性 条件」といった文字が並ぶ。

 夕礼でヤンさんが改めて部署内の挨拶を済ませ、西村くんとヤンさんは帰路に就いた。

 二人が住む社員寮までは、歩いてほんの二十分ほど。

 ふいに彼女が言葉を発した。慣れた手つきで西村くんがあたしを起動する。

――わたしは国に帰ります、西村さんを感謝します。

 あたしのトランスレーションに対して、西村くんが「むむ」という顔をする。こういう顔をする時は、トランスレーションにミスがあった時だと思っている。

「ヤンさん、こちらこそありがとう。向こうに行っても元気で過ごしてね」

 それをあたしはヤンさんに伝える。ヤンさんも「むむ」という顔をしてから、ゆっくりと返事をする。

――一年間は短い。お世話になりました。

「短い間だけど、お世話になりましたってことかな」

 そうそう、たぶんそういうことよ。

「こちらこそありがとう。帰国しても、元気で過ごしてね」

 トランスレーションを聞いて、彼女はうんうんと頷く。

 それから二人は、どちらから言ったでもなく、遠回りしてリバーサイドを歩いた。サンセット間際の夕日が二人の影を伸ばす。

 立ち止まって二人並んで西のスカイを見る。目を細めたヤンさんは眩しそうに手をかざした。吹き抜ける風が彼女の短いヘアーを撫で、なびかせる。

 彼女の姿を、西村くんは黙って眺めた。ビューティフルな夕日なんてそっちのけで、彼女の姿に見惚れていた。

――西村さん、綺麗な夕日ですね。

「ああ、そうだね、とても綺麗だ」

 西村くんは、情けないほど弱い声で言った。きみが言うビューティフルなのは、夕日じゃなくてヤンさんのことでしょ?

 だったら、そうやって彼女に伝えなさいよ。ほら、西村くん、いっちゃいなさいよ。今がチャンスよ。手でも握って、好きっていっちゃいなさい。

 あたしがそうやって念じたって、彼には届かなかった。こんな好機を、彼はみすみすと逃した。

 もう、しっかりしなさいよね。

 日が沈み切るのを待って、二人は再び歩き始めた。いくらリバーサイドへ遠回りしたって、あと十五分もすれば社員寮についてしまう。それまでに、彼にアクションを起こさせないと。

 日が沈むと、二人の長い影が刻々と薄まっていく。輪郭がぼやけ、境界がわからなくなった頃、新たな影が伸びた。

 ヤンさんが東のスカイを指さした。真ん丸の月が赤々として昇り始めていた。

「綺麗だ」

 西村くんが呟いた。ヤンさんには聞き取れなかったらしく、聞き直す。

「月が綺麗ですね」

 西村くんがハキハキと、あたしに言った。

 あたしは、いつか検索おねえちゃんに教えてもらった英訳を告げた。確か、とても有名な英語の先生が決めたトランスレーションだったはず。

――アイ ラブ ユー

「え、ちょっと、グルグル。オッケーグルグル、月が綺麗ですね」

――アイ ラブ ユー

「違うって、グルグル、月が綺麗ですねを英語に訳して」

――アイ ラブ ユー

 ヤンさんの顔がみるみる赤くなっていく。火照ったのか、昇る月明かりに照らされたのかは、聞くまでもない。

 三度の「アイラブユー」にやられたヤンさんは、控え目に笑いながら「ニシムラサン、アイシテイマス」と言った。

「今、何て?」

 彼が聞き直すのを、あたしはトランスレートして彼女に伝える。

 彼女は恥ずかしそうに答えた。

――これ以上、わたしに言わせないで。

 西村くんの口が「オーマイガー」と動いた。彼はスマートフォンを胸ポケットにしまう。

 彼の覚悟が固まり、真剣な面持ちでヤンさんにと向かい合った。彼の口がゆっくりと開いて、一度固く結ばれる。また少し口を開くと、唇が震えていた。肩も小さく震えているのがわかった。

 ようやく、彼は言葉を告げた。

「ヤン、アイラブユー」

 なんだ、自分の口で言えたじゃない。

 西村くん、これからは頑張って、自分の言葉でヤンさんを愛してあげるのよ。どうしても言葉が見つからない時だけ、あたしが背中を押してあげる。

 末永く、仲良くね。

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