11-2 再会

 気がつくと、俺は泣いていた。父親の記憶の中で。


 あんなに近くにいてさえもなお、父親を理解し得なかった自分が情けなくて。そして親というものが持つ無償の愛の、とてつもなく大きな力に圧倒されて。


「父さんっ!」


 思わず叫んだ。


 大声に、周囲の人間が振り返る。


 ――どこだ、ここ……。


 周囲を見回した。


 いつの間にか父親の記憶から抜け出ているようで、俺は、どこか知らない土地に立っていた。


 山深い渓谷の寂れた街で、温泉の湯気があたりを包み、ささやかな山城が遠くに見えている。


 驚いて振り返った人の中に、見知った顔があった。


 ひとりの男。二宮和晃という男の顔が。


 四十七歳のはずなのに、荒れた生活と激しい労働で、六十過ぎにしか見えない。ごま塩の短髪、皺深い頬に、銀縁メガネをかけている。


「……お前」


 信じられないといった表情で、口がぱくぱくと動いた。


「直哉……。直哉……なのか」

「と……父さん……」


 俺は周囲を確認した。驚いていた人々は、俺達に早くもすっかり興味をなくし、それぞれの人生に戻って行った。どこにもティラはいない。


「どうして……こんなところに」

「野花……、のんちゃんのお父さんが教えてくれて」


 とっさに嘘をついた。


「そうか……八神が。あいつにはもう何年も連絡してないはずだがなあ……」


 首を捻った。


「きっと、誰か同僚が、この温泉街に来たんだな」


 今気づいたといった趣で、父親は俺の全身をしげしげと眺め渡した。


「直哉……。立派になった」


 瞳が和らいだ。まなじりに、涙が浮かんでいる。


「父さん……」

「私は、お前には顔向けできない。しおんにも、母さんにも」


 父親は、真剣な顔になった。


「だから殴ってもいいぞ。いや殴ってくれ」

「いや……」


 思わず、俺は父親のそばに寄った。


「……その気持ち、痛いほどわかるよ。もし俺が父さんの立場だったら、やっぱり子供に殴ってもらいたいに決まってる」

「直哉……」

「でも殴らないよ。俺は。だって父さんは、俺の父親だから」


 父親は黙っている。俺の言葉は、どこか奥深くから勝手に噴き出してきた。


「たしかにどこかで失敗はした。でもそんなの、誰にだってあることじゃないか。その前も……その後も……父さんは立派だった。家長として。男として」

「直哉……」

「ほら、これ見て」


 ケータイを取り出し、しおんの画像を画面に出した。


「しおんだよ。今年高校に入学した。長野の実家の近くで」


 写真のしおんは、高校の制服を着て、友達とふざけ合って笑っている。


「しおん……」


 父親の瞳から、涙が落ちた。


「きれいに……なって……」

「楽しそうだろ。俺もしおんも、母さんだって、幸せに暮らしている」

「家族が……」

「そうさ。だから……父さんも、もういいよ」


 俺の視野が歪んだ。わからないが、どうやら俺は泣いているようだ。


「そんなに……老けちゃって……。あんなに強くて大きかったのに。背だって小さく。なんで……」


 言葉が詰まった。



「……なんで毎月、まだ俺んとこにお金送ってくるんだよ。母さんだけでなく。もういいんだ。父さんが残してくれた財産もあるし、母さんの実家だってある。俺だってバイトすればいいだけじゃないか、高校時代の父さんみたいに」


 涙がこぼれたが、恥ずかしくもない。


「だから、もう父さんは、自分第一に……自分だけの喜びのために、お金を使ってほしいんだ。――だって天国からお迎えが来るまで、まだ何十年もあるだろ。それまで楽しんでよ、人生を」

「直哉」


 父親は、俺の肩に手を置いた。微笑みながら。


「勘違いしているな、お前。私はいつだって、自分の喜びのためだけに働いてきたんだ。それがわからんとは、まだまだ若いな」


 ぽんぽんと肩を叩いた。


「いいか、辛いことが多少あったって、働くこと自体はとてつもなく楽しいものだぞ。お前もわかるさ、働けば。……それにな、家族だよ。家族のために働くこと自体が、私のわがままな喜びだったんだよ」

「父さん……」


 これが親の気持ちか。


 これが家族を守る者の真情か。


 なんとか、俺は言葉を絞り出した。


「……わかったよ。父さんが守ってくれてたんだね。別れてからも。憎まれてすらも。父さんこそが、守護天使だったんだ。俺たち家族にとって」

「ごめんな、家庭を壊してしまって。死ぬまで罪滅ぼししながら、お前たちの成長を楽しみに生きるよ。……直哉、お前は父さんの間違いを繰り返すな。女の子は大事にするんだぞ。……気遣ってくれて、ありがとうな」


 我知らず、俺は父親に抱きついた。今はもう、昔のように大きくはない体に。俺と父親を、銀色の輝きが包んでゆく。

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