10 天使と天魔

10-1 13年前の遭遇

 ――十三年前。


 四歳の俺は、妹のしおん、幼なじみの野花と共に、父親に連れられて鮎川に遊びに来ていた。


 この市ではいちばん大きな一級河川で、流れは速いが浅場が多いので、子供連れの格好の遊び場になっている。


 母親に作ってもらったお弁当を食べると、普段の疲れからか、父親はうつらうつらし始めた。あんまり遠くに行くなよと、それだけ俺に注意して。


 妹も野花ちゃんもいるのだから、男のお前がしっかりしろと。


「お兄ちゃん、バッタ取ろうよ」


 しおんが言い、雑草が高く茂る茂みに、三人で走り込んだ。


「冒険だぞ。三人の秘密だ」


 口の前に、人差し指を立てた。野花もしおんも真似をする。葉の先にバッタを見つけるとそっと近づき、手を出す。バッタは羽を広げ、数メートル先に進むと、また留まる。


 夢中でそれを追った。同じバッタを三回追ったときだった。バッタが着いた茂みに走り込んだしおんの姿が消え、水音が響いた。茂みが川の上まで張り出していたのだ。


「しおんちゃん」


 落ちて暴れるしおんに手を伸ばそうと試み、野花も足を滑らせた。ふたりは手足を振り回しながら、ゆっくり流れ始める。


「しおんっ。のんちゃんっ」


 俺は川に足を入れた。大丈夫。足は着く。注意深く数歩進んでふたりの服を両手で掴んだが、水が腰まで来ていて、足を掬われた。


 ――あっ!


 冷たいと思う間もなく、もう流されていた。顔に水がバシャバシャかかる。目に水が入って、直哉は強くまぶたを閉じた。次に目を開くと、水を通して、遠く太陽が優しげな光を注いでいるのが見えた。水を飲んでしまい、苦しい。


 ――パパ、ママ……。


 しおんと野花の服をしっかり掴んだまま、俺の意識は薄れていった。


         ●


 天魔は、うきうきと河原を歩いていた。


 ――ようやく、ようやくだ。心と体の準備ができて、この体の表に出てくることができた。


 楽しげに笑い声を立てると、腕を広げてくるくると回ってみせた。奇妙な出で立ちの少女が裸足で笑い歩いているのを見て、人々が怪訝そうに振り返る。


 これから何万年もそらを駆け巡り、世界のバランスを賭けて神々と戦うことが楽しみでならない。思うがままに生きる悪の快感・悪の快楽を、多くの人間に教えて「救う」のだ――。


 それこそ正しいことだと、天魔は信じていた。


 ――十万年待ってようやく生まれ出たからには、今はこうして、わざわざ自分の足で歩くことさえ楽しい。


 踊るようにして楽しげに歩いていると、視野の片隅、川の流れに、キラリと光るものが見えた。怪訝に思ってふと視線を送ると、流れてゆくなにかが見える。小さな手が川面に出て、また沈む。


 子供だ。


 気まぐれに、天魔は川の上に移動した。子供が三人流れてゆく。必死になって女の子ふたりを抱える男の子と、空を飛ぶ天魔の視線が、一瞬交わった。


 ふと気づくと、天魔は三人を救い上げ、河原に下ろしていた。子供たちは苦しげに水を吐き、荒い呼吸を続けている。


「大丈夫か」


 天魔は呼びかけた。この体に天魔人格が顕現して、初めて言語を用いたコミュニケーションを取ったことになる。


「お、お姉ちゃーん……」


 いちばん小さな女の子が足に抱きついてきた。大声で泣いている。もうひとりの女の子が、反対側に抱きついた。男の子は、ふたりを抱きながら、自分も天魔の腰に頭をこすりつけるようにして、声もなく泣いている。


「だ……大丈夫だからな。しおんちゃん」


 天魔は戸惑っていた。気まぐれに助けただけだというのに、心の奥から不思議な感情が渾々こんこんと湧き出してくる。


 ――私が女子形態だからだろうか。


 考えた。たとえ天魔とはいえ、女子形態ではそれなりの機能を持ち、母性本能もある。それを刺激されているのかと。


 しかし、泣きじゃくる子供たちを優しく抱き、頭を撫でてあやしているうちに、そんな考察はどうでも良くなった。人を悪に誘うだけが快楽なのではない――。


 そんな事実に、今さらながらに気づいた。人を助けることも、それと同じくらい気持ちいいのだと。

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