シュシュシュッってして、そんでババーンって感じで。

 下校時刻を告げるチャイムが鳴ると、部長が鉛筆を置いた。それに気付いた俺と凛子も鉛筆を置き、黙々と片付けを始めた。今日のデッサンの進捗は二時間半で七割といったところだろうか。デッサン用のペンケースを教室の隅に置いた鞄に仕舞おうと振り返ると、俺は大事なことを忘れていることに気付いた。


 体験入部の女の子が険しい顔でイーゼルに向かっていた。そうだ、この子がいたんだった。見るとチャイムにも気付かず集中している様子で、声をかけるのも悪い気がした。しかし下校時刻を告げねばならないので近付くと、俺は衝撃の光景を目の当たりにする。


 女の子がデッサンスケールを定規代わりにしてワインボトルの直線を引いていたのだ。


 それにほぼ同時に気付いたのか、凛子が俺と女の子を交互に見て、


「進、スケールの使い方教えなかったでしょ」


 と苦笑い。


 絵を描くことが当たり前になりすぎた俺は、デッサンスケールの使い方を知らない人間がいるという事実をうっかり忘れていた。女の子の発想の突飛さに衝撃を受け言葉を失っていると、


「えっこう使うんじゃないんですか!?」


 ようやく集中状態から帰って来た女の子が俺を見ながら目を丸くしていた。


「いいか、君、デッサンスケールはな……」


「そろそろ帰らないと怒られるよ~」


 部長にそう言われ喋りを中断して片付けを再開しようとすると凛子が


「進、ちゃんと教えてあげなきゃ駄目だよ。キミ今日は一緒に帰ろ、わかんないことあったら色々聞いていいから」


 機転の利いた台詞を口にしながら女の子の頭を撫でていた。距離詰めるの早いなぁ相変わらず。


 女の子はくすぐったそうに撫でられ、


「あ、ありがとうございます、私、馬渕まこ(まぶち まこ)って言います」


 ようやく名前を名乗るタイミングを与えられたのだった。その表情には俺が見てもわかるくらい今日一番安心した様子が浮かんでいた。


「まこりんね、私は近藤凛子、こっちのちょっと抜けてるのは荻野目進だよ」


 抜けてて悪かったですね……。


 片付けて部室を出て、いつものように「鍵を返して帰るから先行ってて」と部長が教務室の方へ消えていくと、俺達は昇降口を目指して歩き始めた。


「デッサンスケールってのは、対象の比率を見るために使われるんだ」


「比率、ですか」


 間髪入れずに俺が教え始めると、馬渕は一瞬びっくりした様子を見せたが、すぐに食いついてきた。


「例えばさっきの絵なら林檎の縦の長さと横の長さ、林檎の縦の長さとワインボトルの太さ、ワインボトルのくびれまでの長さと注ぎ口の長さ……そうやって実際に置いてある対象と自分の絵に矛盾が生じていないかを見るために使うんだ」


「あ、あの片目で棒持ってにーって睨んでるのってそういう……」


「そうそう、片目で見ないとズレが生じるんだ。ちなみに馬渕がやったみたいに定規を使うのはデッサンの世界ではタブーだ」


「なんかおかしいと思ってたんですよねぇ」


 馬渕はシュンと肩を落とした。自覚はあったらしい。


「でも、そういう柔軟な発想は初心者にしかできないものだよね。固定観念に囚われないってすっごいことだなって私は思ったなぁ」


 凛子が口を挟んできた。正直馬渕の面倒は凛子が見る方が適していると思う。


「ていうか進は固すぎだよ、もっと楽しく教えてあげなきゃまこりんも美術部に入ってくれないってー」


「楽しく教えるってどうやるんだよ凛子先生よ」


「例えばーこうスッと近付くじゃん? それからシュシュシュッってして、そんでババーンって感じで」


 大仰なジェスチャーを付けながら言う凛子。適して……いないかもしれない。馬渕はニコニコしてこそいるがその微笑みは少し引きつっている。


「まぁ、美術部の体験入部はいつでも来ていいから。正式な入部についてはそれからじっくり考えれば良いんじゃないかな」


 俺がそう言うと馬渕は深々と頭を下げ、


「ありがとうございます」


 と上目遣いで笑った。


 昇降口を出ると外はすっかり暗くなっていた。しかし残雪が月の光を反射してきらめく様は、思わずうっとりするほど美しく、この景色を写真に残せないことに悔いすら覚えた。


 そのとき、馬渕は天を指差した。


「近藤先輩、荻野目先輩、今日は月がとても綺麗です」


 見上げるとそこには満月があった。


 月を見て綺麗だと言った馬渕、月の光を受ける雪が綺麗だと思った俺。どちらが正しいとかは無くて、どちらも尊重されるべきものなのは重々承知だが、俺は素直に『月が綺麗』と言える馬渕がひときわ眩しく見えた。そしてそれが、俺には足りないものなのかも知れないと気付かされ、少し恥ずかしくなったりもした。



****



 次の日の放課後、教科書とノートを鞄に詰めていると凛子が俺の席までやって来た。


「進さんや、今日はどうしようかのぅ」


 とかなんだか老け込んだ声を掛けられたもんだから、乗ってやることにした。


「絵でも描きに行こうかのぅ」


「あらあら奇遇、私も描きに行こうかと思っておったのよ」


「この辺だとどこが良いのじゃ? 凛子ばぁさんや」


「おいコラギャグでもばぁさんは許さんぞ」


「無慈悲」


 そんなやり取りをしていると、前の席の佐々木慶治(ささき けいじ)が振り返った。


「夫婦漫才乙」


「ウチらマジエスワン狙ってっからね」


 コメディアンの世界一を決めるとかいう年末の大会だった気がする。凛子に言われてもイマイチピンと来なかった。日本以外の国のコメディアンってどんなことをするんだろうか。いや、ていうかそもそも


「夫婦に突っ込むところだろそこは」


 と冷静に突っ込みを入れると、凛子はドヤっと不敵に笑った。


「進氏、照れてる」


「照れてねーよ俺まだ婚姻届出せない年だからね?」


「そっち!?」


 凛子が赤面しながら目を見開いた。流石に失言だっただろうか。


「あぁ。リア充の瘴気に当てられる、逃げよう」


 佐々木はうんざりした風で立ち上がった。


「ささきゅんバイトがんばー」


 佐々木の後姿に凛子が声を掛けると、佐々木は小さく手を上げて「うぃ」と言い残して去って行った。佐々木はここよりずっと繁華街である西納魚市の地元でファミレスの接客バイトをしている。何故繁華街からこんな田舎の高校に来ているのかいつも聞きそびれて一年経ってしまった。


「俺らも行くか」と凛子と連れ立って美術室へ歩き始めた。


 歩きながらなんとなく馬渕の話題を出してみた。


「昨日の子どう思う?」


「なんかね……」


 凛子は神妙な面持ちで顎に手を当てた。凛子が人に対してこんな反応を示すのは珍しいので俺はひやっとした。悪印象だったようには見えなかったが。


「あのフォルム、あの真っ直ぐさ、萌え袖……絶妙に私のなけなしの母性をくすぐってきてさ、すっごい危ない子だよね。下手したら『このっこのっもふもふめ~』って撫でくり回しちゃうよね」


「あ、そう……」


 凛子に母性があるとか今初めて知ったけど、ひやっとして損した。そして言いたい事がなんとなくわかるからちょっと悔しい。


「まぁあの子の可能性は未知数だね。進はどうだったのさ」


「俺? あぁ」


 チャイムにも気付かず真剣な顔をしていた馬渕、『月が綺麗』と言った馬渕の顔を思い浮かべながら次の言葉を探していると、美術室の前に辿り着いた。そこには身体に対して異様に大きなリュックを背負った見覚えのある後ろ姿があって、きょろきょろと首を動かしながら部室に入ろうか迷っているように見えた。

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