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 施設の屋上から、ジークとチセ、そしてチセの姉たるシンシャの三人を連れて跳んだ白銀の少女――シェリエは、裏山の中腹に降り立つや否や、ジークに向き直った。


『……なぜ、この山の中だとわかった?』

「当時の記録を見つけたんだ。――アーキェルの手記が発見された書架の中に、他にも資料が残ってるんじゃないかと思ってな。幸いなことに、読みが当たったってわけだ。……安心してくれ、この山の中に彼を葬ったのは、どうやらあんたの同胞だったらしい」


 これもあんたに渡しておく、と懐から色褪せた青い冊子を差し出すと、かすかに震える指先が、そっと、その端を掴んだ。


『……礼を言う。アーキェルを見送ったのが同胞たちだったならば、およその場所は見当がついた』

『え、本当ですか!』


 興奮気味に口を挟んだチセに頷き、シェリエはゆっくりと歩き出した。その細い背中に、ふと背筋がうすら寒くなるようなものを覚え、ジークは後を追いながら、思わず声を掛けていた。


「……なあ、俺たちも、途中まで同行させてもらっても構わないか?」


 黙して歩を進めるシェリエから、答えは返らない。その代わりのように、チセが、『わたしは来るなって言われてもついて行きますよ! どこを探しますか?』と気合の入った様子で彼女の背を追いかけていく。

 ふ、と一つ息を吐き、ジークは担いだシンシャの軽い身体を背負い直して、傾斜のなだらかな地面を踏み締めた。




 先頭を行くシェリエの沈黙が伝染したかのように、何となく全員が粛々と足を進めていると、足を運ぶ速度をゆるめたチセが、ジークに並びつつ、小声で呼び掛けてきた。


「……ジーク、お姉ちゃんを背負ってくれてありがとう。大丈夫?」

「ああ、軽いから何てことない。――チセ、お前は怪我してないか?」

「うん、わたしは平気だよ。……でもね、」


 チセはそこでちらりと視線をシェリエの背中に向け、言いあぐねたかのように口を閉ざした。その反応に、先程抱いた違和感が、確固たるものへと変わる。


(……本当なら、一刻も早く、駆け付けたいだろうに)


 自分たちなど、本来ならば気に留める必要は全くないはずだ。にもかかわらず、ジークたちがついていける速度で、シェリエは歩いている。――否、そのもどかしいほどの歩みしか、今の彼女には許されていないのだ、と気付き、ジークはチセとともに、ひたすらに前へと進む、シェリエの背を見つめる。


 と、不意に華奢な脚が、歩みを止め――同時にジークも悟る。


(……くそ、警備隊の連中が、追ってきやがったか!)


 空気を裂く轟音とともに、飛翔する小型戦闘機が、最凶の混成種を捕縛せんと、手当たり次第に砲撃してくる。咄嗟にチセの手を引いて己の背後に隠し、まずい、どうする、とジークの思考が焦燥に染まった、その刹那。


『――邪魔をするな、鬱陶しい』


 まさしく蝿を払いのけるかのように、シェリエが左手を振った。瞬く間もなく放たれた無数の淡い白銀の光弾は、彗星のごとく尾を引き、飛来してきた銃弾をことごとく撃ち落とした。

 星屑のごとく光の残滓が舞い躍り、こんな時だというのに、あまりにも幻想的なその光景に、ジークもチセも、束の間見惚れてしまった。


『……これでわたしたちの居場所も知れたな。急ぐぞ』


 身を翻したシェリエの脇を支えるように駆け寄ったチセが、「わたしの肩に寄りかかってください!」と有無を言わさぬ勢いで告げる。一瞬だけ足を止めたシェリエは、申し出を断るかと思いきや、すまない、助かる、とチセに体重を預けた。――力を使うごとに、彼女に残された時間は刻一刻と減っていく。


「……どこを目指してるのか教えてくれ。最短経路を見つけられるかもしれん」


 息を荒くしながらチセたちに追いついて告げると、シェリエは小さく、頂上だ、と告げた。


『――アーキェルは、空を見上げるのが好きだった。だから、きっと、そこにいる』


 無邪気な、どこにでもいる少女のような横顔で。

 迫り来る終わりなど、まったく気にも留めていない声音で。

 まっすぐに、少女は、前だけを見つめていた。


『行こう。――もうすぐだ』


 頷いたジークは、チセと一瞬だけ視線を交わし、力強く、大地を蹴った。腕も足も、疲労で鉛のように重い。けれど、心の底から湧き上がる何かに突き動かされるように、勝手に足が前へと進む。


 そして、ついに。



「――あった! あれだ!」



 叫んだのは、自分が先か、チセが先か。

 おそらく、墓があると知らなければ、見逃してしまっていただろう。山の頂上の、遥かな蒼穹が望める位置に、ひっそりと、石が三つ、積まれていた。

 その脇に、墓標のごとく置かれた金属板のようなものに、刻まれた文字は、あの日誌と同じだった。


 ――アーキェル=クロム。


 それは、少女の、創造主の。

 そして、かけがえのない想い人の、名だった。



『――アーキェル』



 まさしく、万感を込めて。

 花のごとき唇が、その名を紡いだ。


『約束通り、帰って来たぞ。……二人で、世界を巡る、旅に出よう』


 一歩、また一歩と、震える足取りで、ゆっくりと、少女は歩み寄ってゆく。

 ただ一人追い求めた、彼の下へと。


『戦は終わった。――これからは、もう、誰にも邪魔させない。誰にも、奪わせない。……二度と、あなたを傷付けさせない。全部、わたしが、護るから』


 二百年もの時を経て、ようやく帰るべき唯一の場所に辿り着いた少女は、不意に、崩れ落ちるようにして、その場に膝をつき。


『頼むから、返事をしてくれ、アーキェル。――お願い、だから』


 揺れる声で、大地に、その果てで眠る彼に、呼び掛けるように。

 哀願するように、途方に暮れた幼子のように、震える指で、地面を掻いて。


『あなたは、あなただけは、わたしが護ると、誓っていたのに。……あなたも、決してわたしが戻るまでは死なないと、言っていたくせに。次に戻ってきた時は、晴れて自由の身だと、笑っていた、のに。――――なぜ、わたしを、置いていった』


 詰るような口調に滲むのは、紛れもない、哀しみと嘆きで。

 星のごとく零れる雫は、拭う手もないまま、乾いた地面を濡らしてゆく。




『――うそつき』




 そう囁いたきり、無言で身体を震わせる少女の背を、ジークもチセも、黙って見つめることしかできなかった。

 その背を撫でることも、慰めの言葉をかけることも、隣に腰掛けることさえも、彼女は望んでいないだろうと、わかっていたから。

 ――それが許されるのは、彼女の想い人、ただ一人なのだと。

 悟っていてなおも、ジークは、できる限り静かに、少女に呼び掛けた。


「――さっき渡した日誌の、最後の頁を、読んでみてくれ。……あんたのことが、書いてあった」


 すかさずチセが少女に伝えると、無言で少女は青い冊子の頁をめくり、やがて読み終わったのか、長い息を吐いて、冊子を閉じた。



『……本当に、ひどいやつだ』



 その言葉とは裏腹に、ぎゅっと、想い人の記した日誌を、抱き締めて。

 白銀の少女は、ゆっくりと、立ち上がった。


『――改めて礼を言う。ここまで辿り着くことができたのは、お前たちのお蔭だ。本当に助かった。……ありがとう』


 まっすぐに向けられた黄金の双眸からは、先程まで宿っていた鬼気迫るような執念が、忽然と消え去っていて。

 その凪いだ、澄み切ったまなざしに、ジークは再び、ひやりとした予感が、背筋を撫でていくのを感じた。


「……ひとまずの目的は達したんだろ? なら、移動して、もう一度あんたと、チセの姉貴の治療を――」

『もういい』

「いいわけないだろ! 創造主だって、お前に自由に生きていてほしいと願ったはずだ! 何ならアーキェルとの想い出を連れて、世界を巡ってみりゃいいじゃねえか!」

『わたしが存在する限り、戦の火種は消えないだろう。せっかく戦が終わったにもかかわらず、本来は世界を創世すべき――世界を癒すべき存在として創られたわたしたちが、再び災厄を引き起こすわけにはいかない。何よりアーキェルも、そんなことを望んではいない』

「だから、何でお前らは、そうやって自分が犠牲になることばっかり考えるんだよ! ふざけんじゃねえ、勝手に諦めて死のうとすんな! ――俺たち修繕師はなあ、想いを繋いで、希望を見せるのが仕事なんだよ! なのに他ならぬ俺たちの前で、投げ出そうとすんな!」

「……ジーク、」


 諫めるようなチセの言葉も、今ばかりは聞き入れてやることはできない。睨みつけるようにして、黄金色の双眸を見据えていると――ふっと、不意に、その瞳が和らいだ。


『お前は馬鹿だ。……馬鹿で、どうしようもない、お人好しだ。そういうところも、アーキェルに少し、似ているな。――勘違いするな、自己犠牲などでそう言っているのではない。わたしはただ、これ以上、彼以外に身体を弄られたくないと、言っているだけだ。……それに、何より。――アーキェルが存在しない世界など、わたしにとっては意味がない。彼がわたしの、生きる理由のすべてだった。だからもう、彼のもとへ、行かせてくれ。……もう、戦うのには疲れた。どうか、ゆっくり眠らせてくれ』


 静かに、だが有無を言わさぬ圧力を含ませた声音で、少女は告げた。

 その澄んだ瞳に宿るのが、自棄でも諦念でもないと悟り、ジークがなおも声を掛けるか逡巡した、その刹那。


 ――風を切る轟音が、彼方から響き渡ってきた。


 振り返り、上空を見れば、黒い羽虫の群れのごとく、こちらに戦闘機と思しき影が、近付いてくる。


「おい、逃げるぞ! ――シェリエ、動けるか?」


 問うたジークに、静かなまなざしを向けたまま、少女は首を振った。


『わたしはここに残る。――お前たちは行け。それくらいの時間は稼いでやる』

「は? 何言ってんだ、置いていけるわけないだろ」


 行くぞ、と取ろうとした繊手は、けれどもジークの指が届く直前で、天にかざされた。


『――チセ。お前はいい師を持ったな、大切にしろ。……こいつは、あの施設の地下でわたしが天井を破った時も、先程の襲撃の時も、お前を護ろうと、自分の身体を盾にして、立ちはだかっていた』


 迫り来る敵襲を前にして、悠然と。どこか余裕すら感じさせる表情で、少女は、宙に、複雑な文様を描いていく。


『いくらでも替えが効く存在であるわたしたちをかばおうとする馬鹿者など、アーキェルしかいないと思っていた。……だが、あいつの他にも、いたんだな。――チセ、お前とお前の師に、託していいか? わたしとあいつの願いを、どうか叶えてくれ。……この世界を修繕して、皆を、解き放ってやってくれ』


 なぜか口を噤んだまま、少女の言葉を黙って聞いていたチセは、唇を噛み締め、力強く、頷いた。


『――はい。……はい!』


『……本当は、誰も殺したくなんてなかった。何も、傷つけたくなどなかった。――けれど、それがわたしに課せられた役目だったから。彼の下に帰るためには、それしか手段がなかったから。……そう、自分に言い聞かせていた。だからといって、わたしが数多の命を奪ったという事実は変わらない。償いたくとも、償い切れるものではない。わたしは、永遠に赦されないだろう。――けれど、戦が終わった、今は。……もう、誰も、殺したくなどない。たとえそれが、敵だろうと』


 少女の指が描く軌跡を辿るように、宙に描かれた文様が、淡い白銀の光を放ち始める。闇の帳に包まれつつある山の頂上で、それはあたかも、星であるかのように、瞬いていた。


『だから、少しだけ嬉しかった。……わたしの力を、ただ一度でも、誰かを護るために揮えるというのは。あらゆるものを壊し、滅ぼし、畏怖され、――一番大切なものを護れなかったこのわたしでも、最期に、誰かの役に立てるなら』


 白銀の光芒が、周囲を、真昼のごとく煌々と照らし出す。

 チセが、「シェリエさん!」と、少女に、手を伸ばすのが見えた。


『……存外、悪くない気分だ。――最期に出逢えたのが、お前たちでよかった』


 光の中で、少女が、うつくしく、微笑わらう。

 花がほころぶような、純粋な笑みを浮かべたまま。



『ありがとう、チセ、ジーク。……チセ、お前は何があろうと、大切な者の手を、決して離すな』



 チセが、ジークが、同時に彼女の名を呼び、手を掴もうとした、その瞬間。



 ――白銀の閃光が、遍く世界を、福音のごとく包み込んだ。



 意識が真白く染まる、その直前に。

 ジークは確かに、微笑む白銀の少女の隣に佇む、黒髪の青年の姿を見た。



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