【1話完結】生ある者に花束を

木戸相洛

生ある者に花束を

 花は散るから美しい。


 妻はよくそう言っていた。人は失われてしまうものに惹かれるのだと。



 車窓から見える大きな広告は、白地に黒い文字で死の悲しさを訴えるというシリアスなものだ。右下にはホームページへのリンクが書かれている。自分が勤めている会社の広告を見るのはあまり好きではない。命の大切さとか死の悲しさをかさに着て、それらを利用していることにいい気はしないからだ。それでも妻が死んでしまうまでは、保険会社の営業マンとして商品のすばらしさをさまざまな詭弁を弄して売り込んだ。不整合性はその口で飲み込んだ。


 要約すると、あなたが死ねばその代わりをあなたのクローンが務めますと謳う『クローン保険』が誕生してから世の中が受け入れるには十分な時間が経った。始めこそ倫理の観点から批判も多かったが、あまりに便利なサービスは倫理それ自体を書き換えてしまった。そもそも当時提起されていた倫理的な問題とはなんなのかが明確に示されたことはあったのだろうか。僕が思うにそれは背徳感であり、後に感じるであろう罪悪感だったのだと思う。

なににせよ羊のクローンが作られ、技術的には人でも製作可能だと突きつけられた人々は触れてはいけない禁忌の一つにクローンを加えてひと時を過ごした。

 そしてクローンが禁忌から取り出された今、この電車に乗っている人々のうちどれくらいがクローンなのだろうか。この時代にそんなことを気にする者はごく少ない。

 妻が死んでから、こんな答えのないさまざまな問いかけが頭を駆け回っている。


 クローンはオリジナルと同一の人物とみなしていいのだろうか。


 国や自治体は身分証その他のクローンへの移行に完全に対応している。つまり、社会のシステムはクローンをオリジナルと同一人物だと簡単に承認するのだ。そして人はそれを求め、受け入れた。

 遺伝子的にまったく同じ2人を区別することを人類は諦めた。


「それがあなたが悩んでいたことなのね」

 都心を離れ人もまばらになった電車の中で彼女は語尾を上げた疑問形で言った。僕は頷く。

「あなたはいつも難しい顔していたものね」

 久しぶりのデートに浮かれる恋人のように楽しそうだ。


 彼女は1ヵ月前に支給された僕の妻のクローンだ。妻の両親は大切な一人娘に当然クローン保険をかけていた。そして、ほどなくして届いたそれを、一時停止した娘の人生を再生させるべく僕へと送ろうとした。

 そして僕はそれを拒んだ。

 理由を問う義父に、僕の腹の中に累積した問いを話すことはなかった。とてもそんな気力はなかった。死が取り返しのつくものになって以来すっかり簡素になった葬式はほとんど火葬という作業だった。そして妻の両親すら参加しなかった。そのことがより一層僕の悩みを深くした。妻の魂は両親からさえ祈ってもらえなかったことにはならないだろうか。


 難しい顔を崩さない僕を見て、彼女はようやく真剣な顔になる。

「せっかく会ったんだから楽しい話をしたいんだけど…」

 ごめんと小さく呟く僕に彼女は飽くことなく微笑みを投げかける。

 少しの休暇の後、僕は溜まった仕事をこなしていた。その間もクローンである彼女はよく連絡をくれた。

「あなたの記憶が妻と完全に一致していることはわかっているんだ。妻のコンタクトレンズに内蔵されたカメラやマイクが映像を記録、送信しあなたはそれを受け取る。子供の頃からずっと。今後あなたはなに不自由なく妻としてその人生を受け継ぐことができる。でもはそこじゃないんだ」


 車窓から彼女に視線を移すと、彼女は寂しそうに俯いていた。僕は心のどこか、良心とかいう部位が痛んだ気がした。だが、長年腹に溜め込んだ不整合なものは1ヵ月で完全に腐りきっていて、僕はそれを吐き出さずにはいられない。

「『中国語の部屋』は知ってるかな」

「知らないわ」


 ある部屋に中国語や漢字の一切を理解できない男(例えば生粋の英国人)を閉じ込める。そこには小窓があり紙切れのやり取りができる。紙切れには中国語が記されているが男にはせいぜい記号の羅列にしか見えない。しかし部屋にはあらかじめ『マニュアル』がありそれに従って漢字という記号を並べれば中国語として完璧な返信(彼はそれが返信であることすら理解していないが)をすることができる。部屋の外の人間は、部屋の中には中国語を理解した者がいると考える。


『中国語の部屋』はおおまかにいうとこんな話だ。

「あなたは確かに部屋の外からみれば妻なのかもしれない。でもそれが本当に妻で あることになるとは思えない」

「あなたはもっと優しい人だと思ってたわ」

「僕にそんな余裕はない。ここ一月は特にね」

 彼女は笑みを崩さない。

「あなたにこんなに思ってもらえる人が羨ましいわ。クローン保険ができた当初はたしかにそんな指摘もあった。でもそれは簡単に解決されたわ。『個体』と『個人』を切り離して考えればいいのよ。生物学的な『個体』と社会的な『個人』はイコールではないの。死ぬにせよ生きるにせよ。」

 彼女の言った解釈は教科書にのるほどメジャーなものだ。『個体』が死んでもクローンが『個人』を生きながらえさせる。人類は新技術を正当化するこの解釈に飛びついた。あるいは後付けした。

「そう。そして人は『個体』の死に重きを置かなくなった。でもそれは死から目を背けてるだけなんだ」

彼女は何も言わず僕を見つめる。


 死とは永遠の損失でありこの世界の最大の不条理だ。人は主に宗教という形でこれに向き合ってきた。もう戻ってこない命に祈りを捧げ儀式を行うことによって。社会的にどうこうではなく、あくまでも命と魂を悼む。それをしない今の人類は死を克服なんてしていない。

 そうまくしたてる僕を彼女は駄々をこねる子供のように見守っていた。

「たしかにあなたの言っていることは間違っていないと思うわ。ヒトという種は不老不死を手に入れた訳ではないもの。でもあなたの理論はとても残酷なものよ」

 僕には、僕のどこが残酷なのかわからなかった。

 彼女は淀みなく、凛とした語気で続ける。

「あなたの言う通り、人は『悲しい死』と『それほどでもない死』を区別している。絶対的に悲しいものだった死はその影響力を大きく落とした。それは世界の悲しみの総量が減ったことを意味するわ。あなたはせっかく減った悲しみを元の量まで増やしたほうがいいと言っているのよ」

 単純な算数である功利主義で世の中がうまくいくのだろうか。

「それは生者の傲慢だ」

「あらそうかしら。人は元来、『個人』の死に注目しがちだと思うけど。例えば、家族や友達の死ならその悲しみは計り知れないわね。でも遠い異国の見ず知らずの誰かが死んだと聞いて、あなたは悲しいと感じるかしら。いい気分ではないけど悲しみとは違う。そんなところでしょう。どうしても後者を前者と同じようには感じられないはずよ」

 彼女が屈託なく語る死の続きがひどく恐ろしく感じられた。

「2つの違いはあなたにとっての死者の社会的な意味だけよ。人は『個体』の死より『個人』の死に強く反応するのよ。昔は2つの死が同時だったからわからなかっただけで、本質は昔からなにも変わっていない」


 要は認識の問題よ。

 彼女は言いきった。

「人はどこまでいっても自分の目で見て、耳で聞いて、感じて、それを元にして考えることしかできない。同じ音を聞いても絶対音感の持ち主と普通の人では聞こえ方が違うだろうしその感覚はどうしても共有できない。本当の意味での客観なんて存在しえない」

 僕は幾分救われた気がした。

 認識だとか解釈だとかいろいろな言い方はあるが、つまりは自分の外側にあるものとどう接するかということだ。生も死も倫理も善も悪も正しさも価値も、すべては認識の方法、捉え方次第だ。紙切れが1万円になることもある。僕たちが今まで話したことはその相違でしかない。

「それはもはや『世界』と呼べるものじゃないかしら。天動説信者の『世界』では間違いなく太陽が動いていたのよ」

「人それぞれがもつ『世界』があるからその数だけ真理がある、と」


 ある者は科学で、ある者は宗教で、損得で、あるいは名もなきなにかで。それぞれが信じるもの――真理――で外界と交わり自分という主観的な『世界』を形作る。真実だとか事実だとかの価値は科学の流行で暴騰しているだけのことだ。

「でもそれは完璧な理性が前提なの。人の『世界』には論理的な処理ができないものがあって、それは」

「感情」

 彼女は少し驚いたようだ。僕は続ける。

「感情には原因があるはずだ。それは人や出来事に向けられているはずだから」

「どうかしら。原因とその結果である感情の間の脳の処理はブラックボックスなのだからその分析に価値があるとは思えないわ。感情は認識みたいに意図的には変えられないし認識が入り込む余地もない。感情にいくら理由を付けたって後付けにしかならなくて感じたことはそれ以上でも以下でもない。感情は『世界』の中に突然現れては消えていき、ただ感じたという事実が残る。でもだからこそ人は感情に突き動かされる。」


 論理的に導かれる非論理――感情――の強烈な存在感。


 言い終えた彼女はなにを見るでもなく車窓に遠い目をむけた。

「あなたは始めに『はそこじゃない』って言った。じゃああなたにとって大切だと感じるものってなんなのかな」


 そして私は。


 僕には、彼女がそう言いかけた気がした。

 妻が眠る墓地の最寄り駅まではあと30分ほどだろうか。

 

 それ以来僕も彼女も言葉を発することはなかった。

 僕らは最寄り駅で電車を降りて墓地内を妻の墓まで二人で歩いている。彼女は墓地の入り口で待ってると言ったが僕が無理を言ってここまで来てもらった。駅前の花屋で買った花束は彼女の好みで選んだ。彼女は複雑な表情だったが言葉にすることはなかった。


 10月の斜光は夕方でもまだ温かい。

 電車での沈黙の30分は僕が考えを整理する時間だった。あるいは覚悟を決める時間だった。

 僕はなぜ彼女を妻の墓参りに呼んだのか。

 彼女が連絡をくれることに僕はなにを感じていたのか。

 僕にとっての大切なものはなんなのか。

 妻の墓から少し離れたところで僕は立ち止った。半歩後ろを歩いていた彼女も僕の隣で止まる。少しの躊躇を振り払った僕は夕焼けに目を向けている彼女に話しかけた。

「これは僕にとって儀式なんだ。君にそれを見ていてほしい。僕の自分勝手なわがままだけど、お願いだ」

 彼女はなにも言わなかった。複雑な感情を覆い隠そうと見せた不器用な笑顔は、妻そのものだ。

 1歩ずつ墓に近づいていき、真新しい墓石の前にしゃがむ。

 花束を膝の上に置き、手を合わせる。

 これは儀式だ。僕が僕の『世界』の妻に祈りを捧げ、別れを受け入れるための。僕は一歩を踏みだす。

 花束から1本、目にとまった紫色の花を抜き取り墓に供える。

 立ち上がり彼女を見る。夕焼けを背に立つ彼女はなによりも眩しかった。


 

 彼は私に花束を渡し、手をとって歩き出した。半歩前を歩く彼の顔は見えない。

 彼は供えた一本の花の名前を知っているだろうか。

 それでも私は決めた。私がオリジナルと同じ様に妻としてでなくたって構わない。

 彼が私をどう認識しようとも、彼の隣で生きていく。


 花の名は紫苑。花言葉は、君を忘れない。


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