橋守り

いちはじめ

橋守り

「本当にここでいいのですか。他にもっと景色の良いところがありますよ」

「ここでいい、ここで……」

 老人は弱々しくもはっきりとした口調で答えた。若い看護婦は古びた橋の袂に設けられた、進入禁止の表示が掛けられている柵の近くまで車椅子を進めた。


 その橋は、川に架かる橋の中で最も古いもので、二つの大きなアーチを持つ鋼鉄製の橋である。当時は赤色のモダンな構造物として人気を博したが、今は塗装も剥げ落ち往年の面影は残っていない。そして老朽化のため近々取り壊わされることになっている。

「昔この川は国境線だった。そしてわしはここの国境を守る警備兵で、橋守りと呼ばれていたんじゃ」老人は訥々と語りだした。

 彼は十八歳の年に軍に入隊した。

 愛国心からという訳ではなく、戦争さえなければ、将来食い逸れがないだろうと安易に考えたからだ。当時は隣国との関係も良好で、あんなことになるとは思ってもいなかった。

「橋を往来する人々を眺めるのがとても好きだった。妻ともこの橋で出会ったんじゃ」

 老人の皺だらけの頬に少し赤みがさした。

 彼女は、隣国からこちらの看護学校に自転車で通う女学生だった。彼女は女神も斯くやと思えるほど美しかった。何とか声をかけたいと、もどかしい日々が続いたある日、彼女の故障した自転車を直したことがきっかけで言葉を交わすようになった。

 若い二人が恋仲になるのにそう時間は掛からなかった。

 彼女は卒業後、こちらの病院に就職し国籍も変えた。そして結婚。ほどなくして一人息子が生まれ、平凡ながら幸せな日々が続いた。

 この橋は平和の架け橋そのものだった。あの厄災が両国を覆うまでは。

「それは前の大戦の引き金になったあの疫病禍のことですね」と看護婦は身震いした。

 隣国で発生した謎の疫病は、瞬く間に拡がり両国は大混乱に陥った。国は疫病の侵入を防ぐ為にいち早く国境を封鎖し、徹底的な水際作戦を展開した。

 この橋でも厳重な警戒線が引かれ、彼はその任にあたったが、疫病から逃げてくる人々を追い返すのはとてもつらい任務であった。

 そんな中、人道支援として医療救護隊が結成され、隣国に派遣されることになった。

 彼女はそれに志願した。彼女の母国が疫病に蹂躙されていることに耐えられなかったのだ。行くなという彼の懇願も虚しく、彼女は隣国に赴いた。

 彼は、彼女を乗せた車がこの橋を渡って行くのを見送ることしかできなかった。

 そして彼女は帰ってこなかった。かの地で疫病に侵され呆気なく死んでしまったのだ。遺体は即座に焼却され、彼は妻の死に顔を拝むことさえできなかった。

「行かせたことを今でも悔やんでいる。そして息子まで見送ることになるとは……」そう言って深くため息をついた。

「えっ、息子さんも……」看護婦は二の句を継ぐことができなかった。

 疫病がどうにか収まった後、両国はその時の対応をめぐって険悪な関係となり、そして些細ないざこざから全面戦争へと突入した。

 疫病禍で疲弊していた両国の戦いはだらだらと続いた。

 彼の息子は、卒業まであと一年を残した春、軍に招集され、この橋から戦地へ送られた。

「またもやわしは、ここで見送ることしかできなかった。そして息子も帰ってこなかった。どこで戦死したのかも分からん。妻の死も息子の死も紙切れ一枚で知らされんじゃ、とても現実とは思えなかった。それからはここに二人が帰ってくのではないか、とずっと橋守りを続けた。待っていたのは彼らの方だったのかもしれない……」

「この橋はじきに壊される。もう誰も戻ってはこない。橋守りも用済みじゃ」 

 一筋の涙が老人の頬に流れた。


 沈みゆく夕日が丁度橋と重なり、全体を茜色に染めていった。それは往年の橋の雄姿をあたかも再現したかのようであった。

 その情景をぼんやりと眺めていた老人は、突然おおうと声を上げると、やおら車椅子から立ち上がり、橋に向かって歩み始めた。その目には在りし日の二人の姿が映っていた。

「ずっと待ってたんだけど来てくれないから、二人で相談してこうして迎えに来たの」

 老人は駆け寄り、二人を強く抱き寄せると

「すまなかった、私が迎えに行かなければならなかったのに…」と泣き崩れた。

「いいんだよ父さん、戻れなかった僕らが悪いんだから」

 三人の姿はそのまま夕日の中に溶け込むように消えていった。


「昔はこんな色だったんですかね」との看護婦の問い掛けに、もはや老人は答えることはなかった。

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橋守り いちはじめ @sub707inblue

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