第四話 百鬼夜行

壱――もしも。

「ねぇ、もしも。もしもさ」




 夏の暑い昼下がり。黒くやわらかな直毛をゆるりと二つに縛った少女が何気なしに微笑む。

 二人座る縁側。頭上を白い綿雲がふわりゆらゆらと通り過ぎていく。それをぼーっと眺めていた。


「歴史に間違いがあったら、どうする?」

「え?」


 蹴られた小石が向こうの茂みに飲み込まれるようにぶつかって、消えた。

「教科書が間違っている、ってこと?」

「そうじゃなくってさ。もうちょっと子どもっぽい話」

「……?」

「だからさ。もし今私たちが生きているこの”歴史”がね、神様のちょっとしたミスで起こってしまった間違いの方の歴史でさ、この世界の外にもう一つ別のルートがあったらどうするのかなーってさ」

「パラレルワールドとかの話?」

「そうそう」

 そして彼女はからからと照れくさそうに笑った。

「はは……ごめん、びっくりしたよね? ほら、時々考えちゃうのよ。こういう家に生まれたから余計に」

なんて言い訳じみた言葉を補いながら。




「ね、考えたことある?」




「例えばさ、小石一つ間違えて誰かが蹴っちゃったせいで花が折れちゃって、誰かがそれを可哀想と思って近づいてその時に手が触れあって……」

「……」

「そのまま全然違うひとと結ばれることになっちゃって家系図が本来とは違うものになっちゃうとか」

「……」

「ちょっと違うタイミングで交差点に行ったおかげで私”は”死ななかったり死んじゃったりさ」

「想像力、が……その、豊かだね」

「それ褒めてんの?」

「あ……わ、かんない」

 困りながらそう言った僕をむすっとした顔で君はみてくる。困って困って視線を空にもう一度向ければ隣でふっとまた微笑んだのを気配だけでなんとなく感じた。











「逃げてるんだね」











「――え?」

 驚いて彼女の方を見れば、そこにはもういない。

「あっ!」

 慌てて立ちあがって体を後ろに向ければそこには



 ――交差点。



 ――ちょっと違うタイミングで交差点に行ったおかげで私”は”死ななかったり死んじゃったりさ――



「こうやってあなたは何度も血塗れの歴史を繰り返してきた」

「待って……待って行かないで」

「何度も挑んで夕暮れに血を溶かしては」

「お願いっ」






「叶歌!!」

「皆がこうやって、劇的に居なくなってゆく」






 ずあ――!!






 * * *


「ねぇ、もしも。もしもさ」


 少年が恍惚たる瞳で目の前の赤黒く巨大な蜘蛛の巣のようなものを見つめている。

 その中心にいるのは一人の女性。少年と同じ濡れ羽色の長い髪の毛、固く閉じた目、青白い雪のような肌。

 その女神のような独特の雰囲気は彼女に悲愴を与えない。

 彼女は獲物か、それとも――。


「もしも本当にお母さんが生き返ったら、その時は僕は”本物”の日常に戻れるの?」

「そりゃあそうですとも。あなたがこんな”間違いの歴史”の中に居て良い筈がない」

 無邪気に聞いた彼に答えるようにそう言って、男は読書をやめて立ち上がった。

 傍のサイドテーブルに『刺青』と書かれた本が置かれる。

「あなたは本来の歴史ではまだまだ無垢な少年だ。優しい母と厳しくも温かい父に囲まれて、毎日ふれあいの中で幸せに育ってゆく」

「毎日ご飯は家族揃ってから?」

「ええ。学校の話をしても誰も苦しくないし、誰もが忙しさ故に拒んだりしない」

「だっこもしてもらえるかな」

「抱擁は……」

「僕、だっこして欲しい。だっこがして欲しいんだ!」

「……飽きるほど?」

「窒息するほど」

 そのまま少年は滑るように男の腰に腕を巻き付ける。

 頭を撫で、脇腹に手を置き、尻に手を滑らせてから持ち上げた。

 幸せそうに男の首に手を回すその様はまるで幼児。


 年齢不相応。君は齢十三の少年じゃないか。


 でも欲しがっている。

 愛の表現としてそれしか知らないからだ。

 自分にもそういうところがあるだけに、この特性が可愛らしくて仕方ない。

 思わず鎖骨の間に口先を押し当てた。

 そのまま、まだ声変わりも果たしていないのどを滑っていく。


 小さい幼い声が、口から洩れた。

 体の底から這いずり回って駆け上ってくる”得体のしれぬ恐怖”を抑え込むように、必死に体を抱き締めてくる。


 嗚呼、可愛い。

 そんな君は自分が内に秘めているものを知らない。

 嗚呼、愛しい。

 いつまでも自分は純真で無垢な存在だと無邪気に信じては、その事実からずっと目を逸らし続けていく……。

 気付かないまま、気付かないまま。


「これが終わればいつかきっと、お母様は君のせなを抱き締めてくれますよ」

「本当? 嬉しい」

「ふふ。嬉しいですよね。君が待ち望み続けた最高の結末だもの」

「うん」

「そうしたらもっともっと、力をつけて強くならなければなりませんね」

「うん。それでね、もしも――」

 その言葉の終わりを彼は待たない。口を開けたその瞬間を狙って長く幽霊のように垂れた髪が帳のように少年の顔を包んだ。


 ――ごぼっ。


 天蓋の裏、口元からとろみのある黒い液が零れる。

 息苦しさにむせる小さな体を男は締め上げ、暴れるのを抑え込みながらまだ温みの残っている革張りのソファに無理矢理押さえつけた。蹴られたサイドテーブルが倒れ、オーニソガラムの生けてある花瓶が割れる。

 極めつけには男が誤って花弁を踏んでしまった。




 呪いの、譲渡。

 桃色の耳飾りを揺らす彼の少年も経験した、男の儀式。




「君と同じく母を亡くし、追い求めるひとりの少年がいる」


「彼もまた、”間違った歴史”を歩まされている者」


「どうせなら助けてあげましょう。彼の母親の復活を助けてあげるんです」


「……」


「――良いですか?」


「しつこいようですが、君のお母様は功徳を重ねることで君にどんどん近付いてくるんだよ」




「会いたいなら、救いたいなら」


「私の言うことをちゃんと聞かなくっちゃ」


「ね?」




 虚ろな目を潤ませ必死に酸素を求めて胸を上下させる少年の額、汗ばんで張り付いた前髪を優しくどかしながら男は梟の仮面を被せた。

 口元からまた一筋垂れた黒い「陰」を人差し指で拭って、そのまま咥えさせる。

「全部食べて」


 ……。


「良い子」




 ぞくぞく、した。











「さあ」


「君のお母様の復活の為にも、彼のことを助けてあげましょうね」


「ふふ……」











 少年が恍惚たる瞳で目の前の赤黒く巨大な蜘蛛の巣のようなものを見つめていた。

 その中心にいるのは一人の女性。少年と同じ濡れ羽色の長い髪の毛、固く閉じた目、青白い雪のような肌。

 その女神のような独特の雰囲気は彼女に悲愴を与えない。

 彼女は獲物か、それとも――。




 ――女郎蜘蛛。


(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

山草さん家のはらい者 星 太一 @dehim-fake

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ