拾肆――”Besessenheit” (Give her back)

 その瞬間。

 正にその瞬間、その刹那。


 歪み捩じ拡げられた空間が青白い一線によって一刀両断される。


「……!」

 一瞬怯んだがその太刀筋の主の正体を悟って武者震いを一つした。

騎士ナイト!」

 鋭く的確に、敵の眉間から直下繋がる「急所の直線」を狙って太刀を振るう彼女の用心棒の攻撃を、激しく後退しながら全て避ける。

 その怒りに満ち満ちた表情はかえって男の何かを掻き立てた。

 やる気か、対抗心か。

 或いはそれにさえ芽生える愛撫の精神か。

 何はともあれその迅撃は暫く続き、何合かは鋼鉄のような黒魔術と激突したが肝心のお姫様を奪い返すには少しずつ距離やら攻撃力やらの色々が足りなかった。

 原因は他でもない、抱えられたお姫様である。

 空間の歪みが消えたおかげで先程よりかは大分回復しているが、それでも自分を固く抱きかかえる腕を外すことは不可能。

 更にはそのお姫様の存在のために剣俠鬼が思う存分太刀を振るえない。

 これはしめた。

 男は歪んだ笑みで唇をぺろりと湿らせた。

 ――丁度良い所で吹っ飛ばして魂を頂いてしまおう。

 そうとさえ考えた。


 しかしこの状況に一番場慣れしていたのは、矢張り日々を用心棒として暮らすこの


「――ァ!」

 ふとした瞬間のちょっとした心の油断を突き、死神最強の男がその懐に突っ込んだ。そのままの勢いでお姫様を男からかっさらう。

「この!」

 火炎放射器が如く、黒い炎を遠距離にまき散らしてお姫様の奪還を目指す。彼女がそこに抱えられていても躊躇はしなかった。

 後で私の呪いを埋め込んで永遠の命を与えてあげれば良い。そんな男である。

 しかし当たらない。

 まるでその炎の辿る道筋全てを理解し尽しているかのような悠々とした飛翔。

 苛々が募った。

 そこに――。

 太刀の激が閃く。

 一迅二迅と、今度は彼の顔を躊躇なく掠めていき、刹那を読み取り、足蹴。

 左方への大きな力に揺らいだ体をそのまま踵落としで地面に沈めた。

 駄目押しで雷撃。しかしその瞬間にはそこに奴の姿はない。

 背後!

 だが神速を身に宿すその鬼には彼の不意打ちは当たらない。

 それすら見切った上で改めて暴力的な水流を彼にぶつけ、そこにもう一度雷撃を落とした。

 戦闘慣れしている鬼共に術の名称一宣等無くても良い。

 彼らにはイメージだけで十分だ。

 ぶち当たる質量の暴力、光速に任せた稲光の刺突。電撃の伝搬。


 当たった。どちらも。


 最後の一押し。その水流を氷結で固め、彼の退路を塞ぐ。

 姫様の居る手前、風迅で肉片を作りたくはなかった。

「そこで凍死でもしていろ、この野蛮人めが」

 任務完了。

 悲鳴が聞こえなかったのが逆に気味の悪い位だが、そんな事など今はどうでも良かった。兎に角姫の無事が確認できたことへの安堵、そしてこの男への更なる復讐の吟味に鬼は忙しい。

 凍ったままの魂を後程持って帰って、黄泉の国で裁判にでもかけてやろう。そして姫様をあんなにも怖がらせたそれ相応の報いを受けるが良い。

 この男はそういう男だった。

 それよりも。

「姫様!」

 神速で彼女の元に向かい、斧繡鬼の腕の中で震えながら泣きじゃくるその人を受け取った。

「姫様、姫様。ご無事で何よりで御座います。お怪我は御座いませぬか」

「まだふらふらするし、とっても怖い……ねえ、キョウ達はホンモノだよね?」

「勿論で御座います。この鼻眼鏡は姫様お手製のお眼鏡で御座いますよ。何なら斧繡鬼の組紐も確認致しますか?」

「……ううん、大丈夫。今度からはそれを合言葉にするね」

「御意に御座います」

 ぎゅうと抱きしめた。

 震える仔犬のような温かな子どもの体温が本当に愛おしい。

「……キョウ、シュウにも抱っこして欲しい」

「承知いたしました。今は姫様の心の健康が第一で御座います故、キョウは喜んでお渡しさせて頂きますよ」

 にこやかな声で言いながら血涙流れる目で斧繡鬼を凝視した。

 この男はそういう男である。

「えーん!」

「だーいじょうぶ、大丈夫だから。そんなに泣くな」

「ぴー!」

「そうら、可愛いお顔が台無しだぜ? 俺の為に笑っておくれ、ひなどりちゃん」

 若干自分より甘えられている気がして更に血涙の目。

 どや顔すら向けられて更に太刀を引き抜こうか考えた。


 その瞬間だった。


「――!」

 何かに気付いたらしい斧繡鬼が姫をあやすのを止めて向こうを凝視する。

 警戒しながら剣俠鬼に姫を渡し、自身は空から戦斧を取り出した。

 立ち上がり、そちらを睨む。

「なぁに?」

「シッ」

 剣俠鬼も気が付いた。

 自分が放った氷結から微かながら生命の音がする。

 それは連結した水の粒子同士を切り離すように浸透し、氷の融解を促していた。

「あれから数分は経っているのに」

「そんな簡単なお相手じゃねぇってこったな」

「……」

 息を呑んだ。

 子どもを始末して帰るだけの簡単な仕事だと思っていたのに。

「貴方は正装しますか」

「……、……止めておく。お前も止めておけ」

「何故に」

「没入感があるのは、否めないからな」

「人の台詞を」

 こんな状況下でもふざけ倒す相方に溜息を吐きながら、他の可能性をふと考えた。

 彼がおちゃらける時、その理由は二つある。

 上機嫌な時、若しくは誰にも悟られたくない嫌な何かがある時だ。

(今回のは絶対後者)

 そう思いつつも毎度問い詰めはしなかった。

 取り敢えず出しかけた鉄仮面と頭巾をもう一度懐にしまう。

 ――彼が仕事をする時はいつもこの装束を装着する。そうしていつでも期待以上の戦果を挙げていた。

 だからこれを付ければ自らの面が割れなくなるだけでなく想定以上の力を引き出してもらえるものなのだと思っていた。

 だから今回も懐から出したのだ。


 でも毎回それを見た相方の台詞は唯一つ。


『止めとけ。お前さんなら一瞬で絶命できるだろ? なら装着時間が勿体ない。早く行った方が良いに決まっている』


『自分を過小評価しても戦争にお慈悲は無いんだよ』


『喰うか喰われるか、生き残るか殺されるかだから』


 キザったらしく自分を丸め込んで、自分の地位を何としてでも死守したいのかと思っていた。

 若しくは何かしらのリスクがあるのか、それとも信頼か。


 今日初めてそれ以外の何か理由を悟りだす。


「来る!」


 急に思考から現実へ引き戻された。

 お姫様をしっかりと抱きしめ直した。

 目の前の氷がぱきぱきいっている。

「イタイ、いタ、い」

「まるでゾンビだな」

「……」

 姫の小さな手が襟の辺りを握る。

「怖い」

「大丈夫です」

「ツメタイ、つメ、た、イ。わたシ、マジョジャ、ない。アイ、ほシい」

 目の前にいるのは何者だ。

 黒い濁がとくとくと溢れ出しながら、その中を湯気を吐きながらなめくじみたいに動く背中が姿を現した。

 陰独特のきつい臭いが辺りに充満し、剣俠鬼は眉間に皺を寄せながら自らの鼻とお姫様の視界とを覆った。

「てめぇナニモンだ」

「カナ、シイ。カナシ、カナ、シイ……モウ、イジメナ、イデ」

 びきびき。

「おい」

「オヒメサマ、オヒメ、さま。お姫様」


「欲しい」


 バキバキッ!


 その瞬間は、さながら旭日下きょくじつかの海より現出せん人魚姫。

 しかして現実はどんな魔物より恐ろしいヒト。


 髪を振って、水と陰の混合液に濡れたその前髪をかきあげる。

 とろみのある液体を滴らせながらその美しい顔はこちらを向いた。

 そこに瀕死も傷も存在しない。


「お姫様。迎エに、来ました」


 嬉しそうなその笑顔からふと漏れ出る狂気の刹那。

 強く、抱きしめた。


 * * *


「改めて聞く。てめぇ、ナニモンだ」

「名乗る程の名前は持っていません」

「なら目的だ。目的を話せ」

「新世界の創出。その為にそちらにいるお姫様を渡して頂きたいのです」

「何故だ」

「無償の愛を、持っているから」

「理由になってない!」

「そんなもの話したところでどうせ芥河の廃墟の鬼には分からない」

 そこで会話がふっと切れた。

 呆れたのでもなく、怒ったのでもなく。

 本当にふっと切れた。


 理由を無理に探すなら彼の男の瞳が目ざとくお姫様の存在を視認したから。


「お姫様……!」


 剣俠鬼の腕の中で姫の体がぶるりと震えあがった。

 恐怖を抑え込むように鬼の体をしかと抱きしめる。

「お姫様、嗚呼、お姫様。ようやく見つけました。私から離れて寂しくはありませんでしたか?」

 歩み寄り始めた。

「寄るな!」

 斧繡鬼が跳躍してその喉元に短剣を突きつける。

 刃先が少しく肌をへこませ、その足が止まる。

「お嬢はお前をお呼びでない」

「私は彼女を愛している。彼女の無償の愛ならば私も愛してくれる」

「お前さんのそれは一方通行の恋だ。それが通い合うようになってから初めて愛を語りな、坊ちゃん」

「……」

「恋はシタゴコロ、愛はマゴコロってな」

「……」

「でなけりゃアンタは唯の迷惑人だ」

「迷惑、ですか?」

「逆に何故分からない」

「愛されたことが無かったからかもしれません」

「同情はしないぞ」

「ご勝手に」

 にこやかに交わす会話では無いだろうが。

 歯をぎりりと擦り合わせた。

「取り敢えずだ。俺がお前の喉を切り裂く前にお前の方から引け。そしたら殺しはしない。最善を尽くそう」

「……」

「聞こえているのか? 最後の警告だぞ」

「……」

 緊張が張り詰める。

 先ずこちらを見ていない時点で苛々した。その視線はじっと姫の横顔を恍惚うっとりと見つめ続けたままである。

「聞け!! これは命の交渉だ!」

 胸倉を掴み上げたが聞いていない。

 首を傾けて目の前の鬼の向こう側にいるその主を見続ける。

「おい!!」

「芥河の廃墟の鬼にはどうやったって分かりはしない。貴方方は新世界に相応しくないんですよ」

「――新世界?」

 聞き捨てならぬ単語に眉をひそめた。

「私が主催の新世界はまだ暗く寂しい。融合にはもう少しの時間がかかりますが、その為には彼女の力が必要なのです。死神の総大将の愛娘、二体の鬼が心を尽くして守る箱入り娘、全ての人を惑わすアメジストの瞳、受け継がれた大将の術。全てが愛おしく、花のように可憐。世界を色付けてくれる、彩ってくれる。私の寂しさを埋めてくれる」

「なら益々渡す訳にはいかねぇ。お前の自己満にはほとほと付き合ってられん」

「そうですか」

 聞きようによっては諦めたように聞こえた。


「残念だ」


 瞬間。

 目の前の男の力ががくんと抜け、横に思いっきりぶっ倒れたかのように見えた途端その姿を消した。

「……!!」

 斧繡鬼が息を呑んだ丁度正にその時、剣俠鬼の背後に黒い炎を腕にたぎらせ今にもそれを叩き込もうとした狂気の魔術師がそこに居た。

 寸でのところで彼は姫を抱えながら退き、代わりに斧を構えた鬼が突っ込んだ。

 硬い黒魔術と戦斧とが火花を散らしながら何合も激しくぶつかる。

 何故腕と金属がぶつかって火花が散る!

 武器を振るう速度、機動性には一定の自信があったが相手はほぼ素手。流石にそちらには劣る。

 攻撃を弾きながら隙を探す。

 ――相手の打撃は一定だ。何の工夫も見られない。

 その場で戦術を組み立てる最強の鬼は直ぐさま気が付いた。

 気付きさえすれば後はこちらのもの。一度避けるだけで十分だ。

 右からの大振りな打撃を弾かずそのまま払わせた。直後屈んで腹に一発手刀を叩き込む。

 鬼の一発は痛い。

 喉から粘膜を吐き出して腹を押さえた。

 そこに今度は鬼が斬撃を仕掛けてゆく。隙も癖も見せない攻撃には入り込む間など存在しない。

 堪らなくなって相手が跳躍した。

「させるか!」

 着地点を見出せないように剣山のような巨大な岩を次々地面から突出させていく。

 相手は何とか岩石の側面を捉えて跳躍を続けてゆくが落ち着いて着地できる地点が見いだせずにいる。

 駄目押しを放った。

 足で踏ん張り、両の手で細い糸を張るような仕草をした。しかしその手は拳だ。

 刹那。

 岩石を穿つように爆破が起こり、火炎の龍が飛び出した。

 魔術師を追うようにうねりくねりその身焦がさんと喰らいつく。そうして大空まで追い詰めようとした。

 地面に足を付かせてはいけない。

 踏ん張れないし、狙いも定めづらく、飛翔にかかる魔力も相まって倍戦いにくくなっている。

 特化した者なら違うだろうが、彼には翼もなく打撃も一定。先程剣俠鬼に瞬殺されていたことからも戦闘慣れしていないであろうことは見て明らかだった。

 ならば学習されてある程度の対策を捻りだされる前に。

 大空、火炎龍に気を取られている内にそこに捕縛の魔法陣を打ち込んだ。

 ――厄介なのは先程見せた「復活」だ。

 それで長期戦を強いられる最悪の可能性を考えて必要最低限で一度仕留めておきたかった。

 ――一打でその頭、かち割ってやる……!

 お嬢の手前、どうも気が引けたがこれ位派手にやらないと相手も死なない気がした。

 飛躍、そのまま斧を大振りに振る。

 目標僅か数百メートル先、魔法陣に藻掻き焦りを露わにしているその男の脳髄。

「脳汁ぶち撒けてやる!」

 かっ開いた目で一点を見つめそこに打撃を――。









「弱虫さん」









 ――え?

 一瞬何があったか分からなかったが、先程とは比べ物にならない程の大きく強い力が自分を地面に向かって殴り飛ばした事だけは後で分かった。

 思考を置いてゆく刹那の打撃。

 目の前で未だ藻掻き続ける人影だけが異様なものとして眼球に映る。

 更にそこから挽回の暇なく横方向からのこれまた強力な一打が鳩尾みぞおちに打ち込まれ、最早何も出来なかった。

 大木の幹に激突して情けない声が飛び出る。

 口に何かが上がっていると思ったら真っ青な液が口から垂れていた。気付けば全身で黒い炎がじわじわと燃焼している。利き手の右腕にも地面から伸びた木の根のような陰が絡み付いていた。

 自分の知らぬところで奴のとっておきが一気に叩き込まれていた事に今更ながら気が付く。

 いつの間に……!

「シュウ!」

 一瞬の形勢逆転に驚き慌てた姫が彼に向かって走り出す。

「……! 姫様!!」

 その瞬間剣俠鬼が彼女の体に飛び込み、抱え、転がった。

 その直ぐ後ろで黒い炎をたぎらせた男の腕が地面にぶつかる。

「おや、残念」

 にたりと笑んだ。

「シュウ……!!」

 堪らなくなってそちらに駆けだす。

 たった一瞬。

 そのたった、ほんの一刹那の内に彼の体力はゴリゴリに削られていた。

「お待ちください、今黒炎を術でかき消します。姫様は延焼を防ぐ為に少し離れていてくださいまし」

「シュウ、シュウ! 私の為に、私の為に……!」

「死んじゃいねーって」

「でも、でも!」

「大丈夫。俺の為に笑ってってば。ひよこちゃん」

「うう……!」

 旋風をぶち当てて炎をかき消す。以前あの気違い座敷童と当たった時に同じ攻撃を受けたが非常に粘り強い炎であったことをふと思い出した。

 奴の親玉のオリジナルの炎……この威力の旋風さえやり過ぎでは無いだろう。

 以前学んだ人間の兵器、「ナパーム弾」を思い出した。

 そこで使われる薬品も確か奴の性格のようにねちょねちょしてはいなかったか。――うろ覚えだが。

「シュウ、シュウ大丈夫!? この黒いの私が抜いてあげる!」

「駄目だ、お嬢! それこそ奴の思う壺、間違えて心臓に触れれば命を削り取られる。それにこれはきっと力も吸う代物だ、さっきから妙に力が入らん」

「……! 嘘……」

「お嬢が触って万が一の確率でぶっ倒れられた方が困る」

「え!? シュウ死んじゃう!? 死なないよね、死なないよね!?」

「死にゃせんよ、これっきしの事なら大丈夫」

「死なないで、死なないでね!!」

「大丈夫だよ、余り心配させちゃう方がおいさん辛過ぎて死ぬかも」

「そんなのやだ!!」

「じゃあ逆においさんを余り心配しないでくれ、良い子だから」

 そう言って頭を撫でてやると目尻に涙が煌めいた。

 空いた左腕で彼女を抱きしめてやる。

 そこに遠くから奴がちょっかいを入れてきた。

「おー姫ー様! そいつ、どうして欲しいですか?」

「この、この人でなし! 貴方なんか大嫌いよ!!」

「そんな悲しいこと言わないでください」

「ぷい! 姫知らない!」

「可愛い」

「ぷい!」

「それに――仲間がそんなに大事なら余り私に逆らわないで」

 そう言いつつふと仰向けに突き出した左手。小指から折りたたむように拳を握ると斧繡鬼の右腕を地面に固定する陰が彼の腕にまるで根を伸ばすように伸びた。

 そしてその突先は彼の肌に抉り込み――。

「ギャアアアア!!」

「いやああああ!!」

「姫様! 見てはいけません!」

 剣俠鬼が慌てて自分の羽織を彼の血が垂れる腕に被せる。

 冷酷の名で知られる彼さえ、その景色は見ていられなかった。顔を歪めずにはいられない。

「アハハハハハ! 止めて欲しいですかぁ? その仲間が可哀想ですねぇ」

「止めて!! もう止めてお願い!!」

「もっとやって欲しい……?」

「止めてって言ってるの!! お願いシュウにこれ以上意地悪しないで、お願い! お願い!!」

 激痛に肩で息をしながら苦しむ斧繡鬼が見ていられなくて、手で顔を覆った姫に奴は満足そうに微笑んだ。

「じゃあお姫様。私の元に来て下さい」

「……!」

 優しい顔で彼は確かにそう言い放った。

 ばっと顔を上げる。瞳は明らか揺れていた。

 己よりも他人の幸福を無意識に願ってしまうその無償の愛。

 彼女に目を付けた時から焦がれた性質。

 彼一番のお気に入り。

「私は貴女様を殺そうだなんて一瞬たりとも考えない。――でも貴女様の周りの男共に限って言えばそれは別の話」

「殺すの!?」

「貴女様が私を拒否すれば」

 悲しそうに目を見開いた。

「ただし、貴女様がこちらに来てさえくれれば誰も死なずに済む。その鬼も陰から解き放ってあげましょう。そして私達は愛し合える」

「誰も、痛くならない?」

「止めろお嬢」

「ええ勿論」

「……そっちに行ってもシュウとキョウに会える?」

「耳を貸してはいけませぬ、姫様!」

「勿論。貴女様がお望みならば」

「……」

 姫の心が揺れる。

 羽織の下から染み出す青、明らか顔色の悪いお調子者。

 全てが見ていられなかった。


 あちらに行っても。


 この生活が殆ど変わらないのならば。


 寧ろ私が我儘など言わずに――。


「駄目だお嬢!」

 ふと立ち上がりそうになった姫の腕を斧繡鬼が強く引き、左腕だけで強く強く抱きしめた。

「あんな奴の言う事信用して付いて行けば絶対に出られない、俺達にも絶対会わせてくれない!」

「でも、でもシュウが!」

「俺は大丈夫だって言ってる。展開にパニクって一人先走った方が危険だ」

「……」

「俺を信じろ、全然痛くない」

「……嘘なのがばればれなのぉ」

 また泣き始めた姫を心配させまいとその力尽くしてその身が動かぬよう押さえつけた。――勿論敵の元に自ら歩んでいかぬよう。

 赤ん坊の時から心と命を尽くして育ててきてやった小さな女の子を、後から来た変態に渡す訳にはいかなかった。

「剣俠鬼、いけるか」

「無論」

 羽織に次いで中折れ帽まで脱いだ。そのまま小さき姫に被せる。

 羽織も中折れ帽も、姫様の体が神速によって千切れたりしないよう調節するための指標でしかない。逆から言えばその二つが無ければ彼は自由に速度を調節可能だという事だ。

 居合切りの体で鍔に手をかけ、構える。

 瞬間――!


 爆!


 轟音響かせ、見たこともない速度で相手に突っ込んでいった。

 修行を重ね辿り着いた速度の極致。最早音など彼には付いて来れない。

 正体を現した黒魔術師はそれでも彼に追いついた。

 涼しい顔で魔術を駆使しながら翻り、彼の心臓を付け狙う。

 常の剣戟では遅すぎる。瞬間的な移動を繰り返しながら相手を翻弄しなければ直ぐに胸板に穴が開く。

 額に汗の玉を浮かべながら彼の首を切断しようと必死だった。

 しかし――矢張り無理だ。先程飛び込んでいったのが斧繡鬼でなく自分だったならば狙えただろうが今は駄目だ。

 こんなに動ける奴は久し振りだ。

 作戦転換。矢張り自分は術が良い。

 体術が斧繡ならば術式は剣俠。

「光速と貴様ならばどちらが速いか!?」


「試してみるか?」


 太刀を突き立て雷撃発動。動き回る魔術師の退路活路を全て塞ぐ。

 そこに一閃、飛び込んだ。

 相手は対して灰の曇りガラスのような防御を展開。

 しかし音速を越えるその太刀裁きに防御など最早無意味。

 ガラス質の音を響かせてその術は破られた。

 直後貫かんと刺突した太刀は空を刺す。

 そのまま気配を感じて頭を屈めると頭上を黒魔術が通り過ぎた。

 屈んだ時の運動エネルギーをそのまま放出するようにぐるりと回って足を薙ぎ払う。

 そこにまた雷を打ち込んだが、彼も神速で退き、事なきを得た。

 しかし今、主導権は剣俠鬼の手元にある。

 ここで叩き込まねばなるまいて!

 その思考の元、雷撃がいつかの対決のように男を追う。

 とあるポイントまで来たら、間欠泉が如く水流を噴き上げよう。

 地面は不利だ。

 調子よくそのまま進めて、噴き上げさせて。

 男は突然の攻撃変化に体が追い付かなかった。

 チャンスと言わんばかりに鍔に手をかけ、大空向かって地面を蹴る。


 そのどこかで見たことのある戦闘の運びに斧繡鬼は嫌な予感を拭い切れなかった。






「剣俠鬼! !!」






 間に合うはずがなかった。

 黒魔術師が、ではない。

 逆だ。

「……!」

 糸目が見開く。

 その先右足首に黒く細い陰が縄のように巻き付いていた。

 嗚呼、何故もっと早くに気付いてやれなかった!

 空中戦が彼の一番の得意であろうことに!!

 そして自分らが戦っていたのが!!


 その後の展開は想像に難くない。


 彼の体は為す術なく、ぐるりぐるりと回り、吹っ飛ばされてはまた陰に受け止められ、繰り返した後に力ないその体を無情にも地面に突き落とした。

 打ち身、内出血、擦り傷、そして斧繡鬼同様の、体を燃やし命と力とを抉り取る炎を全身たっぷりに付けていた。見るも無残。

 そこに極めつけ、地面から現れた陰で彼の全身を縛り、勝利宣言でもするようにその胸に荒々しく片足を乗せた。

 反論の声は、聞こえない。


「ほら、殺しちゃうでしょ?」


「ああ、ああああ……」

「さあ、お姫様。ようやく二人っきりですね。ぞくぞくしてきました」

 極めて善人的な笑顔をたたえ、ずんずん歩み寄る。

 対してお姫様はみるみるうちにあんなに信用していた用心棒たちがやられていく様を見せつけられ、最早恐怖で動くことが出来なかった。

 小動物の様にふるふる震えて、戦くことしか出来ない。

 斧繡鬼は必死だった。

「お嬢、逃げろ」

 必死に背中を叩いて促す。

 しかし足がすくんで動けない。

「美味しいお食事も、綺麗なドレスも、広い庭園も、白馬の王子様だってなんだって貴女の望むものは何でも出して差し上げます」

「お嬢」

 駄目、怖い。

「どこに行きたいですか? 行きたい所に行きたい時に」

「おい逃げろ!」

「会いたい人に会いたい時に」

「クッ……」

「貴女の欲をこの手で満たしてあげる」


命紫めいじ!!」


 斧繡鬼が荒げた声で怒鳴り上げた所でようやくハッとなった。

 慌てて飛びのき、走り出したその背後でお姫様の体を掴もうと伸びた手が空振った。

「ちょろまかちょろまか……小動物みたい。益々気に入りました、絶対手に入れる」

 爛々らんらんたる瞳で走り去る背中を見つめ、一定の速度で歩みながら追いかける。

 姫はこの異空間の主だ、速度だって思いのままである。

 魔力の尽くせる限りを尽くしてその速度に注ぎ込んだ。

 兎に角遠くに行ってこの異空間から出るのだ。

 そして、そして――!

 それより先は小さな頭では考えつかなかったが、どうにかして生きようと、彼らを救おうと走った。


 でも。


 黒魔術師が腕をビュッと振った。直後、姫の右足首に剣俠鬼の時と同じあの陰がぐるりと巻き付いた。

「……!!」

 うつ伏せに倒れ伏し、体が引きずられた。


「お姫様!! これでようやく一緒にお家に帰れますね!」


 森に嘆かわしき悲鳴と泣き声とが響いた。

「何をしましょうか」

「止めて、止めて!! 助けて!! 誰か助けて!! ああああ!!」

 姫の危機を感じ取った。

 結構遠くまで黒魔術師が歩いて行った時、これならばと一瞬思ったが……。

 もう力も殆ど残されていない体で彼は重たい斧を何とか持ち上げた。

 痛みの止まらぬ腕を無理に引っ張って、顔をしかめながら彼らの方に向かって斧を構えた。

「お嬢に、触れるなアア!!」

 勢いよく投げ、その斧は真っすぐ飛ぶ。

 それで陰を断てれば、或いは――。


 ギン!


 嫌な音がした。


 その斧は真っすぐこちらに返って来た。


 直後、嫌な音がした。


「シュウ!!」

 悲痛な叫びだけがこだます。

 もうどこからも声は聞こえない。たった一人の男の声のみ除いて。


 急に暗くなった。


「お帰りなさい、私の愛しいお姫様」


 手首が掴まれた。

「イヤ、イヤ!!」

 そのまま自分と相手の指が絡み合う。

 頬に彼の口から垂れた陰がぽたぽたと降って来た。

 体を起こそうにも既に馬乗りにされている。

「シュウ! キョウ!」

 意味の無い叫びを投げ掛けては彼の愛撫の精神をくすぐった。


「お姫様。先ずは大人の味を教えてあげましょう」


 ――もう駄目!!


 顔をめいいっぱい逸らして、恐怖に耐えようとした






 丁度その時。

 誰かが黒魔術師の肩を掴んだ。






「こんにちは! さん!」

「……」


「お姫様の堕とし方」


「聞きたくないですカァ?」


 そいつは死神の鉄仮面と頭巾を被っていた。


(つづく)

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