マリアとヨルギア

犬井作

本文

 イカロスは、父から与えられた翼を蝋で背中に固め、空を飛び塔から逃れた。しかし彼は、神々の景色を飛ぶ自らにうぬぼれた。太陽に近づきすぎたために、彼は翼を失った。彼が落下した青海原は、彼の名で呼ばれることになった。


 ○


 地中海に浮かぶその小さな島は、小さな町ほどの大きさしかなかった。アテネのある北東に山の頂上を抱き、南西にかけて斜面が穏やかに平野へと変わる、その淡い境目に人々は暮らしていた。イカロスがその島を取り囲んでいた。マリアとヨルギアは、海辺にある、ぶどう畑を営む家に暮らしていた。マリアはこの家の娘であり、二人の兄を持っていた。ヨルギアは、その家の奴隷であった。親の借金がもとで売られ、この家に買われたのであった。

 マリアは物心ついた頃から、毎朝イカロスを眺めていた。彼女が生まれ育った島を取り囲む青海原を、この民の言葉で、女性名詞とされる海を。神話によれば、イカロスは男子だ。ではこの海は、本当はどちらなのだろう。それが彼女の疑問だった。洗濯をするときも、学びのときも、畑で働く借財奴隷に悪戯をするときも、彼女はそのことばかりを考えた。

 本当は疑問などどうでもよかった。ただイカロスを眺める時、彼女は懐かしさを感じた。それが彼女を海に誘った。

「そりゃ海は女性に決まってますよ」

 マリアが疑問を何気なく口にすると、ヨルギアはいつもそう答えた。父の借金で売られてきた、マリアと歳の同じ少女。月の女神の祝福を受ける白い肌を持つマリアと異なる、太陽に愛された褐色肌を持つ少女――彼女の先祖はアレクサンドリアに生まれたそうだ。

「悩むことなんてありません。海は海、ポセイドンの住む場所です。イカロスなんてうぬぼれものがあとから落っこちたところで、海が海であり続けるのは変わりません」

「でも、ポセイドンは男性だわ」

「海を伴侶にするには男性でないと!」

 マリアの疑問にそう答えては、ヨルギアはいつも笑うのだった。


 ○


 二人の友情は彼女が家に来てから訪れた最初の夏、ヨルギアが早起きした朝から始まった。その日、ヨルギアはイカロスの夢を見ていた。彼女はイカロスの父ダイダロスとなり、イカロスが彼女の視界の下を飛んでいた。イカロスは人々の声を聞いた、二人を神々だと思う声を。人々はおののき、ひれ伏した。ダイダロスの胸に不快な臭いが広がった。だがイカロスは違ったようだった。ダイダロスの視界をまっすぐに、イカロスは上昇していった。ダイダロスは必死に叫んだ。やめてくれと泣き喚いた。イカロスはダイダロスの子、塔で幽閉された苦しみを共にした友人であり、半身にも他ならなかった。だがイカロスは耳を貸さなかった。イカロスはダイダロスと同じ高さへと、糸で止めた翼を持つダイダロスの高度へと。イカロスは微笑み、ダイダロスに何かを言った。ダイダロスにはその言葉がわからなかった。だがダイダロスの視界の中で、イカロスは太陽に包まれた。光の中、顔が変わったとわかった。そしてダイダロスは彼女になった。彼女は泣きわめきながら上昇するその人を見つめた。その人は遥なる高みに、雲海の彼方へと消えた。しばらくして、遠くに落下する炎を見た。彼女にはそれがその人だと解った。彼女はその人を追いかけた。追いかけ、自らも下降するうち、糸が背中で千切れてしまった。彼女もまた燃え墜ちる炎となった。そしてその人を抱き留めると、二人で海に飛び込んだ。

 ヨルギアはその夢の終わりで目覚め、マリアが海を見るのを発見した。オリーヴの樹の下で、膝を曲げ、手を地面についた後姿は懐かしかった。

 気づけばヨルギアは、マリアの背中に肩を預けていた。マリアも、ヨルギアを受け入れた。夏の光は二人を包み、微睡みを呼んだ。二人は、マリアの父ヴァシリスに起こされるまで、身を寄せ合って眠っていた。

 その日以来、マリアが海を見るときはヨルギアがその背中にいるようになった。ヨルギアは誠実な沈黙とともにマリアの背中に体を預け、マリアは甘い微笑とともに、彼女を抱擁したのだった。

 二人は、片時と離れることはなかった。どこへ行くにも、二人で過ごした。二つの想い出は一つとなり、二人の夢も共有された……イルカとなって海を泳ぎ、海鳥となって島を巡り、野ネズミとなって果実を食んだ。初潮を迎えて、少女が女に変わってゆくと、二人は鏡像のようでもあった。ただ肌の色だけが、二人を祝福する神だけが、二人を分かつものだった。

 マリアは、赤い目を持っていた。ヨルギアらの青い目ではなく。


 ○


「ヨルギアは、私の救い手でした。月に愛され、陽の光に居場所を奪われる私は孤独でした。ヨルギアはそんな私を恐れることも、気味悪がることもなく、ただあるがままに扱いました。父母の愛があったとしても、神々の眼下に居場所のない私を……

 ともに過ごした五年のうちに、彼女と何度歌ったことか。大地を讃える歌、イカロスを憐れむ歌、永遠を夢見る歌、そして、夢を夢見る歌……

 夜を生きる私のために、彼女も月夜を駆けてくれた。浜辺を走り、畑を走り、アクロポリスのそばにも行きました。ですが忘れられないのは、私の十二歳の誕生日です。ヨルギアは私に山の頂上を見せると言ってくれたのです。

 日が沈んですぐ家を出ました。山へ行くには街を抜けなくてはなりません。私一人では、すぐ誰かに見つかっていたでしょう。けれどヨルギアは私を導き、茂みに隠れたり、曲がり角に身を潜めたり、時には大胆に道を渡ったりして街を抜け、そして山の頂上を見せてくれました。

 その日の満月は、美しかった。月明かりが街を包み、彼方まで海を揺らしていました。イカロス……遠くにあっても、つねに懐かしかったものを、私は刹那、忘れました。風が吹き、長い髪を押さえたヨルギア。彼女の笑みが、魂を救ってくれました。

 彼女には私だけを見ていてほしい。そう思うようになりました。

 農業ヨルギア。彼女こそ、我が家にふさわしかった。太陽に愛された肌を持ち、太陽のように明るく笑う彼女こそ。二人の兄は狩人に相応しい素質です。父も母も、その事はわかっていたのです。彼女を貰い受けると一言、彼女の父に言いさえすれば……それで良かったというのに、父はそうしませんでした。ヨルギアは十三歳のとき、借金を返し終えました。彼女は我が家を出ていきました。幸いにして、毎朝の逢瀬は続けられました。けれど、一つだった想い出は、二つに引き裂かれてしまった。それが、耐え難く、つらかった」


 ○


「マリアは、いつも眩しかった。人々は人外だと言って、世界に拒まれた忌み子だと言って哀れんだけど、本当のところはそうじゃないんだ。彼女は神々に選ばれたのよ。オリュンポスの神々の住む、雲上の世界。そこに生まれるはずだったのよ。

 そんな人を、懐かしく思って、二人でいると満たされたのは、おこがましいと思ってる。だけど、心はどうしようもないでしょう。二つに割られた磁石が互いを求めるように、逃れ難く、一つに戻りたがったのよ。彼女と何もかも真逆の私が、そう思うのは、おかしいかな。

 浅黒い肌、青い瞳、黒い髪……彼女は白い肌に赤い瞳、そして月の色の髪。アレクサンドリアの奴隷の先祖を持ち、ヘブライ人のいう地のそこに向かうべき定めを受けた痣を、内腿に代々持つ私。アテネの南西に位置する島に、代々伝わる家系に生まれ、瑕一つない身体を持つ彼女。だけど同じ夢を見て、同じ歌を歌い、想い出をともに過ごしたわ。自ら望んで、二人でいた。うぬぼれでなければ、彼女も私を望んでくれた。あなたにそんな相手がいる?

 いないなら、わからないだろうね。彼女が奪われることは、世界の終わりを意味したの。だから間違っていたとしても、望まなくてはならなかった」


 ○


 人々の耳目から秘されていたマリアは、彼女の二番目の兄テレウスが成人を迎えた祝祭の日、ついに男の目に触れた。マリアが十四歳のときだった。テレウスの友タキス、島一番の勇者と呼ばれた青年は、マリアの人外の美に触れて、ひと目で虜にされてしまった。タキスはヴァシリスに結婚を申し出た。タキスは島に街を作った一族の末裔だった。名誉ある申し出に、ヴァシリスは二つ返事で了承した。

 良しとしなかったのはヨルギアであった。公には反対できなかったが、彼女は婚約の次の夜、タキスを呼び出し、申し出た。

「アポロンに賭けて挑戦する。お前はマリアにふさわしくない。仲介人を用意し、争い方を決めるがいい。私がお前に勝ち越せば、マリアを諦めると誓え」

 タキスは、はじめ一笑に付した。女の挑戦など、それも元は奴隷だった女の言葉、なんの権威も力もなかった。何よりこのような挑戦など、この島で前例などなかった。アポロンに賭けると言ったところで、アポロンが聞き届けるとなぜわかる? タキスはヨルギアを憐れみ、それほど離れたくないなら、お前も娶ろうと申し出た。

 ヨルギアは拒み、爪でタキスの右の手の甲を裂いた。それは、タキスの自尊心を傷つけた。彼が生まれてはじめて得た傷だった。タキスは怒りに任せヨルギアを殴った。だがヨルギアはそれを避けた。彼女は野を駆ける獣のように機敏だった。タキスが気づいたとき、辺りは薄暗く、木陰はいっそう深まった。月明かりは彼のもとにだけ注ぎ、ヨルギアを世界から隠した。タキスは大きなものを感じ取った。鳥の声も、虫の声もなくなっていた。タキスは挑戦を受けると申し出た。ヨルギアはその足でマリアにその旨を伝えた。

 マリアは、その日夢を見ていた。かつてヨルギアが見た始まりの夢を。そして彼女が高みに届いた時、ヨルギアが揺り起こしたのだった。


 ○


 海は無限なるものを象徴する。海が生命の母であり、生命は無限から生まれた。対して、神はただそこに在った。大空に――人々を拒んで。


 ○


「運命を私は信じます。私の運命とはヨルギアです。彼女とともに生きること――それが、私がこの世に生を受けた理由でしょう。世界から拒まれた私をあるがままに受け入れた人はいなかった。彼女も、私を求めていた。私を人外の美などと呼ばず、あるいは世界に拒まれた女とも言わず、憐れみも蔑みもその目になく――たとえ想っていたとしても――私には愛だけを注いでくれたヨルギア、私は彼女だけのものなのです」


 ○


「私は運命を信じない。運命は神々のものだからだ。私は自らマリアを選ぶ。故に神々に挑戦する。運命に逆らうことで怒りを買うなら、それでいいじゃないか。世界がマリアを拒むなら、私がマリアの世界になる」


 ○


 決闘の仲介人はテレウスが務めた。テレウスが定めた戦い方はこうだった。この島にある、深い窪み――山と海とを繋ぐ川が、丸く広がるその場所へ、より高いところから飛び込むこと。マリアは木陰で、全身を麻布で隠して立ち会った。テレウスはマリアとともに、不正がないよう飛び込む二人を後ろから見守ることにした。

 雲ひとつない晴れ空だった。川が湖を模した水面は、光を散りばめ、輝いていた。透明な水の下に岩が見えた。尖り、突き立った、槍のような岩だった。高いところから飛び込めば、深いところまで落ちていく。これにぶつかる危険を取るか、命を守るか、選ぶという寸法だった。

 飛び込みは全部で三度行われ、タキスが先に、そしてヨルギアが後に続いた。最初の二回で決着はつかなかった。タキスが飛んだ高さより、ヨルギアは高くから飛んだ。その高さは、島で最も古い木ですら届かないだろう。二度の跳躍を、浮遊感を経ても、ヨルギアは恐れ一つ見せなかった。

 三度目の挑戦に差し掛かった。挑戦者は困憊していたから、少し休憩を挟まないかとテレウスが言った。タキスはヨルギアの返事を待った。ヨルギアはタキスの返事を待った。沈黙は拒絶を意味していた。休憩は取られることはなかった。だがマリアの目には、ヨルギアの疲れが、タキスのそれより深く見えた。マリアはヨルギアに駆け寄ると、彼女の細い体を抱いた。太ももに触れ、その痣に垂れる血に触れた。マリアはヨルギアの目を見ると、挑戦を辞めるよう拒んだ。マリアはヨルギアを失うことを思うと、胸が張り裂けそうな気がした。だがヨルギアはマリアを拒んだ。マリアを受け入れるためには、それしか残されていなかった。

 タキスが三度目の飛び込みをした。彼が水面に呑まれた音は、指折り数えて待てるほど、時間が経ってから聞こえた。タキスは水面に顔を出すと、見下ろしていたテレウスに、勝利を確信した笑みを見せた。

 ヨルギアはいまや額に汗をかき、全身を寒さに包まれていた。夏の陽射しは彼女に届いていなかった。頭痛とだるさを、彼女は意志の力でねじ伏せた。

 マリアは、内側からこみ上げる恐れに耐えきれず、叫びそうになったとき、咄嗟に指を喉に入れた。それはヨルギアの経血に触れた指だった。鈍い臭さを、血の味を感じた。ヨルギア。マリアは声にせず叫んだ。

 突然、太陽が陰りを見せた。タキスとテレウスは空を見上げて悲鳴を上げた。その島で、アポロンとアルテミスの婚姻と呼ばれるそれは、凶兆を意味していたからだ。ヨルギアの背を押したのはその婚姻であった。

 マリアは全身を覆う布を放り捨てた。彼女の眼下で、ヨルギアが墜ちた。咄嗟にマリアは彼女に追いすがった。なにもかもが逆しまだった。水面が間近に迫った時、彼女は水面に映ったイカロスを見た。イカロスは、しかしマリアであり、ダイダロスはヨルギアだった。だがそれが夢に過ぎないとマリアは気づいた。イカロスとダイダロスがいたように、神々に近づいた者共がいた。イカロスとダイダロスは、彼らすべての総称なのだ。そこに私たちもいたのだと、マリアは理解し、そして、水面を潜りぬけた。

 闇の中にマリアは光を見た。その光が現実のものかどうか、意味はなかった。マリアはヨルギアを抱くと、離さず、より深みへと向かった。生命の原初へ、無限なるものへ向けて。

 二人の姿は島から消えた。


 ○


 マリアとヨルギアの失踪からしばらくが過ぎ、彼女たちが忘れられかけたころ、幾度かアポロンとアルテミスの婚姻が為されたのち、島に新たな物語が生まれた。それはこういうものだった。

 神々の婚姻の為された夜、島の山の頂上へゆくと、二人の女を見るだろう。オリーヴの樹の下に座り、白い女は海を見つめて、黒い女はその背中に体を預けて、夜明けまでそうしているのである。二人の女には触れられず、また女たちも我々を見ない。

 二人は永遠の証明と言われることも、悪魔の幻覚と言われることもあるそうだ。

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マリアとヨルギア 犬井作 @TsukuruInui

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