第34話

 34



 阪神大震災。

 それはもうどこか記憶の遠くへ行ってしまいそうで、しかしながらそれはそう思う一方で静かに体験した全ての人々の記憶と言う体内でまだ生きていて、荒れ狂う感情と絶望と静寂の中で忘れることができない戦後に発生した自然災害としては最大級最悪のもの。

 自分は生まれて間もなかった。

 田中巡査はその言葉を聞く度、そう思う。

 人類に歴史という中に置き得るべき災厄。それが阪神大震災。

 ことりと音を立てて心の中で何かが揺れた。その何かを追うように見つめる。

 巡査にその何かが見えた…、それはロダンが手にした『三つ鏡(みかがみ)』。

「そうなんです。関西全域を襲ったこの大地震は、里見雄二、牧村佐代子、有馬春次と『三つ鏡(みかがみ)』を芦屋に居るときに同時に襲ったのですよ」

 田中巡査はロダンの話を聞いている。まるで自身に揺られているように。

 ゆらり、

 ゆらりと…

「僕はねぇ、田中さん。どうも凝り性というものと自分でも不思議と思うくらいのしつこいほどの行動力があるようで。東大阪の彼等の邸宅付近で聞き込んだんです。全く人というものは本当に閉鎖的ですよね、隣に誰が居ても誰も関心がないとはこのことですが、全く最初は分からなかったんですが、その内やっぱりいるもんですね、その土地に詳しい人と言うのがね」

 ロダンが手にした『三つ鏡』をくるくると回転させる。

 回転されるのは何か。それは時間という輪舞ロンド、それからそれを軸にして巻き戻される時間だろうか。

「その方がおっしゃるにはこの東大阪辺りの古い家も震災で被害を受けた。それでその古い家を壊して新しい家が建ち、その内新しい土地から来た人たちがやって来た。その一人が里見夫婦のようで、震災以前は里見さんの実家付近に住んでいたそうです」

「実家…」

「ええ、そうですよ。里見さんの実家、芦屋ですよ」

 時計の針が巻き戻る。それは誰かが引いているのだろうか。

 きぃきぃと音が聞こえる。

 現実の音ではない。心の中の音なのだ。現実の世界ではピアノの音が響いている。確かに響いている。

 まぎれもなく。

「阪神大震災はそこで彼等の悪事を全て粉々にしたのです。ええ、悪事だけでもなく『三つ鏡(みかがみ)』も」

 ロダンが回転させる指を止めた。それから『三つ鏡』を放した。それは机の上で音を立てず転がって横になると止まった。

「ではなぜ、こいつとあの生首が同じ重さだったのでしょう」

 田中巡査はきぃきぃと音が鳴る時間の中で漂っている。時間の漂流者である自分に答えられようか。この時間という重さが、自分の手で分かるのならばどれほど簡単に答えられようか。

 そう、時間の重さが手に取って分かるのであれば。

 手に取って…

 手に取る。

 そこで田中巡査ははっとするように顔を上げた。きぃきぃと言う音は聞こえない。代わりにピアノの音がはっきりと聞こえた。

「…そうか、そうか、ロダン君、君の言いたいことが分かったよ」

 言うや巡査はグラスにワインを注ぐ。それから周囲を見渡して、開いたワイングラスを見つけると立ち上がり、手に取って戻って来た。その顔が僅かに紅潮している。

「こういう事だろう。つまり、今私が注いだワインと同じ量のワインをこの空のグラスに注ぐには、重さとなる目盛りが必要だ」

 ロダンが軽く顎を引く。

 そうさ…

 巡査も顎を引く。

「模造品を本物とするならどうすべきか?勿論、外装もそうすべきだろう。しかしだよ、一番大事なのは重さだよ。手に取った時の重さ。こいつが一緒じゃなきゃ、本物とはいえまい。つまりだ。生首はこの注がれたワイン。つまり本物の『三つ鏡』としての目盛り、つまり重さの測りだったんだ」

 ぱちんと音がした。

 それはロダンが手に平を合わせて叩いた音だった。それはやがて拍手へとなってゆく。

 それは誰の為への拍手なのか。

 巡査は思った。

 それは演奏者への拍手か、

 それとも田中巡査への拍手か、

 いや…

 巡査は首を振る様に思った。

 もしかしたら悪魔のような三人に対する芸術までに磨き上げた犯罪への拍手だったのかもしれない、と。

 それからロダンは小さく呟くように言った。

「ここから先は警察の出番です。有馬春次は詐欺で逃亡していることでしょう。何、彼の画廊の帳簿を探れば、依然いかがわしいことをしでかしたことが分かるものがごまんと出てきますよ。税務署は上手く騙せても警察は騙せないでしょうからね。おそらく震災頃を境に彼等の帳簿に異変が起きてることでしょう。出張費などそうしたものが消えているかも?でしょうね」

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