積年のアイブミ

真花

積年のアイブミ

『君へ


 愛していることの証明が困難だ。それが行動の積み重なりで示されるのは分かっている。そうじゃなくて自分が今君を愛していると言うこの瞬間の値を証明したいんだ。でも捉えようとすればする程に、自分が愛していると言うことは曖昧で、行動という「接触面」があって初めてそれが分かる。その接触面を、もっと点にして、渡したいんだ。そんなことが可能なのだろうか。愛されていることはすごくよく分かる。でもこれも行動という面でのものだ。その行動と独立したかのように、いつの間にか俺の中には君に愛されていると言うことが当然のものとしてある。大地のように。恋が炎のようにありながら、慈しみが水流のようにあり、共に過ごす日々が風のようにある。しかしどれもが行動によって示されるものばかりだ。俺が俺と言う肉体にあることは自明であり、こころがどこにあろうともここに体があることは証明を待たない。翻ってこころは、外から何も入らず、外に何も伝えずのままでは、そこにあること自体が不明になる。火や水流や風と同じ、状態の名詞と言うことだ。たとえ、脳の電気信号の総体だとしても、その電気自体が状態である。脳の全ての神経が動かないのなら当然、電気信号もない。こころが状態であると言うのは生物学的な基盤とマッチしている。だから、自分のこころが持つものである愛も、状態であって、不確かかつ接触面での立ち現れと言う範囲にあるのは仕方ない。だとして、疑問になるのが、大地のように愛されていると言う感覚だ。俺はその愛が存在することを当然の前提として生きている。これはシナプスとそれよりも細胞内的な変化による、固定した記憶である、と考えるのは早計だ。生物学的にそうだからと言って、愛が同じなのかは分からない。物質的な根拠よりももっと大事なのは、俺のこころがそう認識していると言うことだ。でも、それって他の常識、つまり考えるまでもないことに対しても同じではないか。太陽が東から昇るかは考えなくては分からないけど、「ピアノ」がピアノを表しているのは自明だ。と言うより定義だ。定義と定理の段まで落ち込んでいる概念は、そこに疑問をさし挟まない。名詞は定義だし、動詞も幅のある定義だ。インターネットが存在することはそのレベルまで信じているし、歌は存在する。地球が丸いかは知識であってあまり疑問はなくてもさし挟む余地はある。勇気とか希望についてはそれぞれの哲学が反映される、ブレの多い概念だ。つまりスペクトラムになっていて、これを概念の硬さと言おう。「概念の硬さ」で見ると、君の愛がなんと定義レベルのところにある。これを縦軸に取って、横軸に「存在の確からしさ」を置くと、最も硬く、最も確からしい所に君の愛がある。そこまで行くと、その個人にとってそれがなかったら、生きられない、もしくは、大きく生き方を変えなくてはならないもの、と言う部類に含まれるだろう。ああ分かった。俺にとって君の愛がそこまで強大であることを感覚的に分かっていて、今それが証明されたのに対して、俺の君への愛が同じ程のものと証明したいのだ。俺にとっての君の愛に関しては俺の感覚なり理解なりで評価することが出来るけど、君がどう感じているかは君が評価する他ない。しかし。にも関わらず。俺は君抜きでこの愛を絶対のレベルであることを証明したいのだ。

 千歌万声せんかばんせいを凌ぐ愛の言葉を並べてみようか。きっと、詩人や絵描きや音楽家なら作品に結晶させて伝えると言うことを試みると思う。確かに切り取りと言う形にするのは行動の接触面から自由になる方法ではある。しかし同時に多くの意味を失う。だからこそ輝くことは分かっている。特に、たった一つのことだけを伝えるのなら良い手段だと思う。恐らく恋文よりずっと伝わる。だたし、受け手の感受性の種類に依存した伝達の仕方をする。今俺はそれを採用しない。絶対レベルの愛を伝えるのには伝達の曖昧さや受け手依存性は致命的だからだ。

 数式にしてみるか。生のものであるところを脱脂するのが数字化だ。愛と数学は水と油だ。

 哲学にしてみるか。多分理解することは出来る。しかし、伝達したとしてもそれは愛の仕組みであって、俺の愛ではない。

 突飛な行動や、苦しむとか、金をかけるとか、そう言うことをしてでも愛があるのだと言う表現は無駄だ。愛を最も伝える行動は共に生きる中での日常のことや、非日常が舞い込んで来たときに一緒に向き合うこととか、君が苦しむときには助け、喜ぶときには笑うと言った、普通の積み重ねだ。火達磨になってバンジージャンプをしたりとか、断食をして見せたりとか、高価な買い物を負担すると言うことでは決してない。だから、行動として伝えることは既にしている。愛しているからすることは多々あれど、それは異常な行動ではあり得ない。

 そもそも、愛がどうして伝わり辛いかって、誰もが囁き、歌に歌い、小説にして、要するに言葉として愛と言うものが手垢が付き過ぎて、擦り切れてしまっているからだ。これは恋に於いても言える。普通の愛も恋も、言葉として死んでいるのだ。詩の理論で、隠喩が手垢が付き過ぎて慣用句になってしまったものを死隠喩と言うらしいけど、まさにそれ。死単語。人間の生に於いて極めて重要な位置にある愛と恋が両方死単語だと言うのはなんとも。だってその言葉に緊張感がまるでない。そりゃね、自分の口から「愛している」と言うのはそこそこ死んでないけど、歌とかではもう死に死にですよ。じゃあ、新しく単語を定義すればいいのか?

 俺にとって君の愛にあるような「概念の硬さ」と「存在の確からしさ」の両方の最強、を定義する、と、「君の愛」で十分じゃないか。違う! 伝えるための言葉の定義をするんだって。「君の愛」と同じくらいの愛を持っているよ。おかしい。何かがおかしい。そうだ。俺の愛を定義するのに君の愛を使うのがおかしい。不確かな自分の愛を君の愛で定義するとしたら、君にとっては不確かな君の愛と同じくらいと言われて、それは不確かでしかないから、結局両方とも不確かに嵌る。俺の愛が大地のようだと伝えたい。

 大地のようだでいいのでは? そうかも知れないけど、結局証明になっていない。

 日々の中でじっくり伝わっていけばよろしいのかも知れない。それが答えのような気はする。行動の接触面抜きで伝えるのは無理なのだ。でも。でも。ズガンと伝えたい。

 突然抱き締めて、「ありがとう、愛してる」とか呟いてみるか。それはそれでショーとしては面白いけど、ロマンティックだけど、そう言うものなのだろうか。

 認知症になって最後まで覚えているのが君の名前だとか、今際の際に最期の言葉に「愛してる」と囁くとか、チープなロマンティックは幾らでも思い付く。でも俺達ってそう言うのと違うよね。

 普通に一緒に居て、普通にやりたいことやって、楽しんで悲しんで、笑って泣いて、笑って、当たり前のドラマティックの中にずっと居る。そうか、分かった。

 君の愛もそうだけど、俺の愛も既に証明されているんだ。それは一撃でどうこうと言うことではなくて、結局積み重ねの中で、あたり前になっていて、だから大地のようであって。それは証明にえらく時間のかかるものなのだ。微分して失われる情報とその残りだけで勝負しようとする俺、ではなく、積分して集めたものが証明に必要だと言うことなのでしょう。

 俺と居るときの君の呼吸に乗っている安心とか、笑顔の影のなさとかだけでも、君が愛されていると感じていることは、本当は分かっているんだ。じゃあ、どうして今更愛の証明をしようと思ったかって、記念日を忘れたことに拗ねた姿を見ていたら、それが些末なことだと分からせたくなったんだ。大愛の傘に隠れてしまえ、って。ドカンと愛で張り倒そうと思ったんだ。それがいつの間にか愛でどうこうするのではなくて、愛の証明をすると言う方向になっていたんだ。


 結論は出た。

 愛してる。

 それに追加の証明はいらない』


 俺は出来上がった手紙を何度も読み返して、印刷し、署名した。メールで送るよりも紙と言う重みがあった方がいいように、物質として彼女が持つことが、もしくは破り捨てることが出来る方がいいと思った。世界は明日も君と俺を中心に回る。

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