第23話 ふて寝

 ラティアはファンデリック・ミラージュを解除した。瞳を本来の緑に変えて髪もラピスラズリ色のセットショートに戻した。

「あっさりばれちゃったな。……どうしてわかったの?」

 ラティアはゆっくりカウンターテーブルへ歩を進めた。靴音も重いエンジニアブーツ音からニーハイブーツの軽やかなヒール音へと変わっていた。

 コツコツ……コツ。

 ヒール音が止み、カウンター越しに二人は向き合った。

「カフェバーなのは聞いてる。でも悪いけど、今晩泊めさせてくれない?」

 格別愛想をふるう必要はない。そう思って平静に掛けた声は、自分で思うよりも無愛想に過ぎたかもしれない。ラティアは思い直し、カウンターに片手を乗せると、取って付けたようにほほ笑んだ。

 氷の微笑とならないよう祈った。ちらと見た鏡には、まずまずな笑顔が写っている。

 ロナウはわずかに口を開きかけてつぐみ、やがてとんでもない大声で茶化しだした。

「はーっはっは! 見覚えのあるアマゾネスだぁ! 長々逃げまわってた奴が、今頃どういう風の吹き回しだっ?」

 ラティアは、ぐっと口をつぐんだ。

「こんなに長いこと遊び回られるとは、さすがに俺も思ってもいなかったぜ! どうだった、お気楽な一人旅は? 自由気ままに振る舞えて、さぞ気分良く過ごせただろ?」

 ラティアには分かる。実のところ、これは別に皮肉などではない、格別含むところがあって口にしたことではない。口からひょいと出ただけ。ロナウ本人にその気がなくても、悪態をついて相手の神経を逆撫でてしまうロナウの悪癖だ。ただ理性ではそうと分かっていても、久しぶりに会った第一声がいきなりこれだった。こっちは笑顔を練習までしてきたのにと思い、つい渋面を浮かべたくなる。


 あの日指令部の一室でロナウの戦闘停止命令を受けた。けれどもラティアは大人しく受け入れたわけではなかった。ラムナック大要塞戦の直後だっただけにラティアも気が立っていた。戦場さながらに、ラティアはロナウに激しく楯突き、徹底抗戦を主張した。

「臆病風に吹かれたのかっ? あなたは!」

 ラティアのその一言で、二人の間は大喧嘩になってしまった。

 あのときもロナウは日頃の悪癖で折り混ざる罵詈雑言をラティアに叩き付けまくった。もうそうなっては部下も上官もなく、引き下がれるかとどっちもやり合った。わかっていてもどうにもならない。

 いら立ったラティアは挙げ句に……あろうことか、ロナウを殴り倒してしまったのだった。


 子供の頃、ラティアは色鉛筆で絵を描いているのが好きなおとなしい子だった。喧嘩などもっての外だった。だから後にも先にも、前後不覚になって人を殴り倒したなどない。いや、手を出したことすら一度もなかった。いまだにあのときのことを思い出すと途端に度を失い、ワーッと叫び出したくなる。あんなのは自分じゃない! と。

 最後には『上官の命令』の一言でラティアは強制的に従わされた。でもそれ以来、二人の間は気まずくなり、喧嘩別れのようになってラティアはロナウから離れた。

 たったそれだけのことだった。それでもラティアはそれをずっと負い目と感じていた。一応翌日には形ばかりにはロナウに謝った。そのときはまだ自分の主張が間違ったとは思っていなかった。口先では謝っても、謝りながらまた怒りが沸き上がり、そんな態度に当然ロナウもまともに口をきこうとしなかった。

 今となれば徹底抗戦の主張は間違っていた。でもあそこまでやってしまった以上、簡単にはロナウの前に出られなかった。それに口を開けばまた喧嘩をしてしまいかねないという心配があった。そして案の定、いきなり冷や水を浴びせられた心地だった。ラティアにすれば一大決心をして、やっとの思いでロナウの前へ出てきた。けれどもロナウは全く頓着していない。ラティアの神経はいきなり逆撫でられた。繊細なラティアに対して、ロナウの精神構造はあまりに粗雑だった。

「風のうわさには随分聞こえてきてたぜ?」

「なんのことよ?」

「金もなく困った元女軍人のうわささぁ。ストリップ小屋で夜な夜な股を広げて金を稼いでいるとか」

 ありもしないでっち上げをして、相手を釣って楽しむのもロナウのいつものことだった。

「で? 今度は夜の新渋谷で稼ぎに来たかい? うちは健全な商売をやってるからな。ポン引きするなら、よそでやってくれよ」

 しかもくだらなく、下品で。もう出ていってしまおうかと思ったとき、ようやくまともな問いかけをしてきた。

「まぁそれはともかく、お前いつ新渋谷に来たんだよ?」

「たった今よ」

「こんな夜中に列車なんか、もうないだろう?」

「ジェットスライダーで来たの。北の代々木原野から」

「へっ?……マジかよ?」

 ロナウは笑いを収めるが、今度はあきれたように言い放つ。

「馬鹿じゃねぇかお前! あそこは確かに治安部隊もいないだろうけどなぁ」

「……ええそうよ。あの方面なら検問もないし」

「確かにそうだ。あそこはふだん誰もいない、荒れ果てた原野だ。でもよお、あの辺はゲリラが入り込まないように占領統治府が防御線を敷いてるところじゃねぇか」

「知ってるわよ」

「知ってるのに代々木原野から入ってきたのか? レベル低いねぇ」

 ロナウがゲラゲラ馬鹿笑いし、ラティアはさらに口先が尖る。

「まぁ、お前さんの探知能力からすればそんな防御線なんて屁でもないだろうが、もっと頭を使えよ。幾らでもやりようはあるだろうが?」

 なら、そのやりようと言うのを聞かせてほしいものだわ!

 そんなことを言い返せばロナウはここぞとばかりに、見下したラティアへ向かってそれらをとうとうと披露することだろう。目に見えている。

 それでいいのかい?

 そう言っていつも、自分が思ってもみなかった策がポンポン出てきた。悔しい。腹立たしい。ぐっと苦虫を噛みしめるようなラティアの顔を、ロナウは顎ひげをまさぐりながら意地悪くのぞき込んでいる。

「そうよ。別にあんなもの、大したことはない」

 ラティアは、ぷいと顔を背ける。

「謙遜すんなよ。数メートルくらい進んでは探針を雪に刺し、また数メートル進んでは刺しを繰り返してきたんだろ? 落としたコンタクトレンズを床にはいつくばって探すみたいにしてさあ。俺にゃあ、とてもそんなみっともないことはできねぇなぁ」

 まるで見ていたかのように図星を突かれた。

 頬をふくらめたまま視線を移すと、店内の奥に横長のソファーが置かれた角席がある。

「もういい、寝る!」

 ラティアは奥の角席に進み、携えてきたショルダーバッグをこれ見よがしに放り投げた。Sクオリファーの機械の体に疲れはない。ただ心がすっかり萎えてしまった。ロナウ、スフェーンK、代々木原野の襲撃と。考えなければならないことは山積みだ。しかし、はるばるやってきたところで、いきなりロナウにからかわれて気分がすっかり腐った。

 羽織っていたマントを手荒に剥ぎ取り、剣帯を外し、ジャケットまでこれ見よがしにテーブルへ投げ散らす。ロナウはラティアがここで寝る気だとみて慌てだした。

「おいおい! 店を閉めれば暖房は止めるぞ。俺のマンションで寝ろよ」

「ここで寝る! 疲れた!」

 ロナウはあきれ顔で、すっかりふてくされたラティアの元に歩み寄る。

「Sクオリファーのお前が疲れて寝るだと? 究極のふて寝だな」

 ラティアはマントを手にソファーへドンっと座った。左回りにブーツのまま両足をダンっと投げだす。剣帯から外した古い剣を抱きかかえるようにして横になる。そして背を向けマントにくるまった。

「……その剣、大事にしてるようだな」

「私の存在そのものよ。手放すわけがない」

 不機嫌に言い放つラティアへ、会話をつなごうとロナウがおどけた口調で続ける。

「おお、このジャケット高かったろう? 馬子にも衣装だなぁ。新渋谷に来るんで、柄にもなくおしゃれしてきたつもりか?」

 ラティアはうるさいっとばかりマントを頭までずり上げた。

 もう何も聞くもんかとラティアの背中が訴えていた。

 そのうちロナウは諦めたのか、カウンターへ行き物音を立てた。ハンガーラックからハンガーを外した。ラティアの脱ぎ捨てたジャケットを軽く払ってハンガーに掛けて吊した。その間もラティアはマントに潜り込んだまま背を向け、目を閉じ、頑としてここに居座る姿勢を誇示していた。ロナウがマントの上に毛布をかぶせてきた。

「幾らなんでも、マント一枚じゃ夜は寒過ぎる」

 ロナウがマントの上に毛布を掛けている。

 ラティアは、えっ? と、突然の気遣いに驚いた様子で目を開けた。

「暖房は付けておいてやる。でもよ、俺は片付けが済んだらマンションに帰るからな」

 ラティアがマントから顔を出そうとしかけた瞬間、ロナウがまた下卑た口調に戻った。

「いいかあ、俺が帰った後、店の前に出てポン引きすんなよ!」

 ゲラゲラ笑うロナウに、所詮こういう人なんだ学習しろバカバカと、ラティアはマントの中で目をつむり、自分を責めた。

 カウンターから蛇口の水音、食器の鳴る音が響いてきた。ロナウが店じまいの続きに取り掛かっている。ラティアは洗い物の音を聞きながら眠りに落ちていった。

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