第3話 スパイ

 ここへの来訪者は軍部の限られた者だけのはずだった。

 けれども違った。玄関モニターに映るのは、若い紳士然とした男だった。やせた長身とつるりとした風貌に、どこか蛇を連想させるような危うさを覗かせるようなところがある。今はその細い目元に親密のほほ笑みを浮かべてみせてはいるが。

 ラティアは意外な来訪者に驚いた。ここは何重ものセキュリティロックがかけられていたはずなのに。廊下へまわり照明を付けた。既に来訪者は玄関のドアを閉めて、ラティアへ静かに一礼してきた。

「チェニス! どうやってここへ? よくここまで入ってこられたな」

 吹雪の中をやって来たのに、チェニスの髪はオールバックで整ったまま平然としている。この男はいつも、どこからともなくやってきて、気付いたときにはラティアのすぐ間近で、物静かに立っている。

「いえいえ大したことじゃありません。私の本職は打ち明けてあったはずですが?」

 チェニスはいたずらっぽく指を一本立てて振る。

 チェニスはフェムルトの国家諜報局の局員であるとラティアに明かしている。ラティアはフェムルトにスパイ機関があるなど知らなかった。だがチェニスは笑った。尻尾をつかまれたスパイではどうにも役に立たないじゃありませんかと。

 チェニスは軍部に敵と内通している者がいると言う。調査に協力してほしい。そう告げてラティアへ隠密裏に接触してきていた。歳はラティアよりずっと上のはず。けれどいつもへりくだった態度で臨んできている。何故ここまで自分を持ち上げてくるのか。こちらが身構えるのを避けるよう気さくに振る舞うのとは違う。親密さを持ったへりくだり方ではない。どちらかと言えば自分の無害を示そうとする意図を強く感じる。親しみの発露と無害の提示。微妙だが違う。これが尻尾を掴まれまいとするスパイという人種なのかもしれないが。

「ここは実にあっさりしたセキュリティシステムですね。軍人さんの発想は三十センチメートルの鋼鉄扉時代から進歩がないようだ」

 語る口調は柔らかく、いつにも増してていねいだ。何か依頼があるのだろうと察するが。ラティアはリビングへチェニスを案内した。アールグレイの紅茶を持って、本物だと勧めたがチェニスは手を出してさえぎった。

「ありがとうございます。でも結構です。急ぎお伝えしたい情報がありまして」

「内通者の目星が付いたのか?」

「いいえ、もっと深刻な事態です」

 二人がテーブルを挟んでソファに向かい座ると、チェニスは懐から大きな紙の地図を取り出した。地図にはフェムルト亜大陸の地形とフェムルト共和国の主要都市に幹線道路が印刷されている。地図上でフェムルト亜大陸は丸みを帯びた長い逆三角形をしている。上下南北方向におおよそ三分割ほどして、その上側1/3ほどに北極圏を示す点線が引かれている。その下側1/3ほどの内陸部にラティアのいる首都ラウナバードがある。チェニスはまずフェムルト亜大陸東岸を指さした。

「ここに、ガルデニック・グエンがいます。配下六万の精鋭を直卒しています」

 グエンは敵のフェムルト攻略総司令官だった。その総帥が自身の精鋭を引き連れて攻めてきている。だからフェムルトも最強戦力であるジャンヌとレイアをそこへ投入した。ラティアが行けなかった決戦場だ。

「我々は東海岸が決戦場と思い込んでいました。だがそうではなかった」

 チェニスが地図上で指先を動かした。首都ラウナバードから南南東の方角、亜大陸の海岸を指さした。ラムナック湾と記載されている。ここにあったラムナック城塞は二か月前に陥落した。今は敵が占拠し、逆に数倍規模の大要塞を建設している。

「グエン以下六万は囮だったのです。ラムナック大要塞にそれ以上の別働隊が集結していました。ここから無防備な首都ラウナバードへ、攻略軍が一気に押し寄せケリを付ける」

 ラティアは自覚していないが、チェニスの話を聞くにつれ目の色が変わっていた。瞳が光彩を帯びてぐっと地図を俯瞰している。ほんの少し前まで同じこのリビングで、思い悩み、思索していたものが全て脳裏から追い払って。今考えるべきことが一つに絞られたからだろうか。戦いを前にすると変わる自分がいる。

「チェニス、それはどこからの情報だ?」

「フェムルトの軍事衛星がラムナックに集結した機甲師団を確認しています。あなたに許可されているセキュリティレベルでも画像を閲覧できます」

 フェムルト攻略軍総司令自らが精鋭六万という兵力で囮を演じる。思い切った策にラティアもうなった。六万もの精兵ならそのままフェムルトと決戦しても勝てそうなものだ。Sクオリファー・ツー・ジャンヌとSクオリファー・スリー・レイアを除けば、フェムルト共和国軍の残存兵力は千人を切っているのだから。

「しかしグエンは、よほど空中戦艦ガイエルドムクス撃墜が衝撃だったのでしょう。世界で五指に入る巨大戦艦があなたがた三人のSクオリファーだけで撃墜されてしまったのですから。六万でもSクオリファーが相手では難しい戦いと見ているのでしょう」

「それで、ラムナックに上陸した敵兵力は?」

「敵の通信を解析したところ、その数は五十四万です」

 首都ラウナバードの老人子供も含めた全人口が三十万人弱だった。対して五十四万の大兵力が今、こちらへ攻め込んでくる。数が多いだけではない。元々敵は二足歩行の爬虫類。しかも一兵一兵が人間の身の丈の倍はある巨大生物なのだ。彼らは人類に迫る高度な文明を持ってはいる。だが感情の振れ幅が人間よりずっと大きい。悪いことに敵軍の中にはこの大戦をきっかけに先祖返りしてしまった者たちが多い。彼らは先祖の肉食恐竜のように、人間を暴虐に狩りして仕留めることを喜び興奮する。それら五十四万人が押し寄せてくる。

「それが来れば、亡国どころか我々人類そのものが根絶やしにされてしまうでしょう」


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