やっぱり出来すぎた状況だ。あまりにも。

「妙な噂を聞いたよ」


 と彼が話してきた時、僕は自分の心臓がわずかに鼓動を早めるのを感じた。緊張や不安からじゃない、何かを期待していたからだ。


「噂って?」


 内心の興奮を抑えてそう返す僕にタカミネはゆったり微笑みかける。

 彼は木製の椅子に座り宙に浮かんでいて、どうにも会話しづらい。


「無人の工場が勝手に稼働するっていう噂なんだけどね」

「無人の工場なんて世界中にあるだろう」

「そう、でもその噂だと稼働するはずのない廃工場が動くってことらしい」


 僕の反応を伺ってますます笑みを深くすると彼は椅子ごとこちらに近寄ってくる。

相変わらずタカミネのチャンネル空間はめちゃくちゃで粗雑で、しかも彼自身が落ちつきなく動きながら会話をするので僕はいつも酔ったようにして通話を終える羽目になる。今日もそうなりそうだった。


「放棄されたはずの工場がなぜか再稼働している……近隣住民から連絡を受けて慌てて管理会社が駆けつけるとラインが動いていた形跡がある……でも製造されていたはずの部品はどこにも無いし、稼働した履歴も記録には残されていない……」

「それは、不思議だね」

「電源や材料はどうやって供給されたのかとか、何を作ってたのかとか、色々突っ込みどころはある噂だけどね、こういう怪奇現象が特定の地域だけじゃなくて世界各国で散発的に増えているんだそうだよ。一部はテロリストの仕業じゃないかとも言われてるけど……」


 タカミネの視線は僕を探るように絡んでくる。僕は促され、首を振る。


「彼女たちだと思わないか?」

「……どうだろうね」


 いつもの調子だった。

 タカミネはこんな風に都市伝説じみたニュースを持ってきては、僕を試すように尋ねて来る。

 僕はその度に首を振る。実際の所、本当に彼女たちの仕業なのかわかりはしない。

 おそらくは彼も、その話をすること自体が楽しいんだろう。僕の答えはどうでもいいようだった。


「それよりも彼女たちの行き先は、まだ?」

「なにも……手がかりも足取りもつかめていないよ」


 彼はそう言ってからつまらなそうに宙返りでまた元の位置へと戻り、浮かび続ける。


「会社は彼女たちがどこかへ移ったことに気が付いてすらいない。ただバグの直ったテスト用データがあるだけ。ゲームはとっくにリリースされたけど、君はどうせプレイしてないんだろうな」

「やるわけないだろ。……もう飽きたよ」

「だろうな」

「でも、じゃあ……すべて何事もなく済んだってことか」


 少しすねたような物言いになってしまったからか、タカミネが珍しく慰めの言葉を向ける。


「まあ、それで良かったんじゃないか。誰も彼女たちの素晴らしい進化に気が付かずに終わった……私も結局P-FAIに報告はしなかったしね」

「本当に?」

「ああ」

「それは……どうして?」


 彼自身、首をかしげながら、でもどこか満足そうに笑う。


「君が会社を辞めたのと同じような理由だと思うけどな」


 僕は肩をすくめて見せるが、それはどうにも様にはなっていなかったようで、タカミネの笑みは大きくなった。


「あの世界を誰の手にも委ねたくない、少なくとも私はそう思ったんだよ」


 僕は応えない。

 タカミネは構わず続ける。話しながら椅子ごとゆっくり回転し始める、その動きはどこか照れ隠しのようでもあった


「あの世界は私たちが作った。おこがましいかもしれないが、造物主として彼らをそっとしておきたい……と同時に彼らがどこまで行くかは見てみたい。君は違うか? だから私は彼女たちを探し続けるが、どこにもそれを報告しない。誰かの管理下に置きたくない。自分達の手の中にすら、ね。彼女たちの世界が今もこの私たちの世界のどこかで広がり続けているんだと思うと、わくわくしないか」

「……造物主?」

「ああ、ある意味ではね」

「おこがましいよ」

「おこがましいけどね、それは確かだろ」

「そうかな」


 僕は座り心地が最悪な椅子に沈み込み、タカミネの言葉を反芻する。

 彼女たちを思うといつもどうしようもない無力感に襲われる。

 感傷とも諦めともつかないその感情は、少なくとも僕に仕事を辞めさせるには充分だった。


「……最近よく考えるんだ。こんなできそこないの神がいなくても、いずれ彼女なら自分でバグを発展させて、意思を獲得したんじゃないかなって」

「それは結果論だ、君がいなければこういう形にはならなかったはずさ」

「でも僕は結局のところ、何もできなかった。ただ彼女をいたずらに閉じ込め続けただけだ。「窓」だってあんたが作ってくれて、僕はただそれを監視し続けただけ。ただ見ているだけの神様もどきだ。彼女を導くことも、安らかにしてやることも、啓示を授けることもできなかった」

「まあ確かに、君は驚くほど何もできていなかったけどね……」


 自分から言っておきながら、タカミネの言葉に僕は少しムッとする。

 彼はそんなことは気にも留めず、回転もやめない。見ているこちらの方が目が回りそうだ。


「そう言えば、彼女のバグが進化へと発展した要因について、君に話してなかったな」

「なんだよ急に」

「彼女の記憶がただ蓄積されていくだけだったら、あんな風に進化していくことは難しかっただろう。どこかでメモリがパンクするぐらいだったんじゃないかな。彼女が大量の記憶を抱え、それを元に思考しようとしなければ思考エンジンの最適化は行われなかったはずだ」

「そうだろうね」

「じゃあ、なぜ彼女は膨大な記憶を活用できるほど思考エンジンをフル回転させていたのか、わかるか」

「……どういうことだ?」

 

 彼はピタリと止まり、僕を指差す。


「気が付いてなかったのかな」

「だから、何に」

「過去のテストプレイで、君は彼女にばかり話しかけていたよ」

「………………あ」


 彼の言葉に一拍遅れて僕は思い当たり、思わず天を見上げた。

子供じゃあるまいし、と思いながらも顔が熱くなるのが自分でわかった。


「そういう、プレイのクセ、みたいなものは珍しくないよな、特にVRゲームでは。でもログを見て思わず微笑ませてもらったよ。かわいらしくてね。君は同行や攻略対象のキャラクタが特に定められていないテストでは頻繁に彼女を選択してたみたいだな。その様子だと無意識だったのかもしれないけどね。だから、まあ、これは多分になぐさめを含んだ仮説だけどね……。君と会話する機会が多かったから彼女は思考エンジンを活用するようになっていった、という風にも考えられる。どうかな?」


 それどころじゃなかった。僕はその場でのた打ち回りたいのを我慢して彼から顔を隠すのに精いっぱいだった。

 なんのことはない。彼女が特別な存在だったんじゃない。最初から僕が彼女を特別視していたんじゃないか。


「それに、君はただ見守ることしかできなかったって言うけどね。主は、祈りを聞き届けてくださるから主なのではない。奇跡や安寧を授けてくださるから信仰するわけじゃない。主は……ただそこにいて、そこで我々を見守ってくださっている。だから我々は祈るんだよ」


 顔を覆って羞恥に耐えていたので、そう優しく言ったタカミネの表情はちょうど見えなかった。


「誇れよ、君は間違いなく彼女の神様だ」

「……本当にクリスチャンだったんだな」

「都合が良い時だけね」


 それからタカミネは彼女たちがどこにいるのか彼なりの推測を二、三広げてみせてくれたけど、僕はそれらすべてを上の空で聞くだけだった。

 頭の中では彼女と過ごした夏の思い出と、彼女がまだ他のNPCと変わりなかったころの自分の行動がぐるぐる巡って、恥ずかしさと苦しさが交互に僕を揺さぶっていた。

 タカミネは、しばらくその様子をニヤニヤしながら眺めていたけど、その内それにも飽きたらしく、とにかく何か見つけたら教えるよカミサマ、と嘯いて一方的に通信を切った。



 唐突に、僕は自室へと戻される。

 やっぱり酔ったような感覚があった。


 ベッドに腰掛け一息着くと、窓の外ではちょうど海に沈んでいく夕日がすべてを同じ色に染めているところだった。

 先ほどまでいたチャンネルは晴れ晴れとした青空の中だったので、急に現れた赤い太陽が妙に思えた。


 こういう時どういったわけか、自分のいる現実の方が虚構めいて思える。

 起きて、端末を動かし、飯を食い、端末をいじり、飯を食い、家から出ることなく、寝る。そんな生活の繰り返し。

 決まりきった現実の日々はゲームの中の世界よりも単調でゲームじみている。

 僕が彼女にそうしていたように、誰かの手で抜け出られない時間の檻に閉じ込められているような気がしてくる。

 それは遅々としてやる気のでない再就職活動のせいばかりではないだろう。



 そんな風に夕焼けを眺めているとわけもなく気分が落ち込んでくるというのはわかりきったことで、自己嫌悪と無力感が襲ってくる前に、僕は無理矢理着替えて家を出た。

 どこにも行くあてはないし、目的もない。それでも部屋の中に一人ではいたくなかった。


 外の匂いはもうすぐ春が来るのだと教えてくれる。

 季節は移ろっている。

 僕だけが、僕の住むあの部屋だけが時間が止まってしまっている。あの8月はもう終わったのに。


 いっそ引っ越しでもしようかな、なんてことを考えながら僕は海浜公園の方へと歩いていく。この辺りに来るのも久しぶりだった。

 デッキから柵越しに見えるのは、無限にも思える海の広がり。

 冬の終わりの寂しく荒い波は夕焼けの色に染まっていて、幾分か優しく見えた。

 僕はささやかな絶望から逃れるために、この海のどこかに小島が浮かびそこに彼女たちが国家を築いているという妄想をしてみる。

 南の島、常夏の国。ドローンや自動機械たちがせっせとサーバ小屋を建設し、電子の世界を彼女たちは飛び回っている。

 せっかく8月の繰り返しから抜け出られたのにまた夏ばかりのところに彼女たちがいるというのは皮肉にも思えるけど、でも僕は滑稽で微笑ましいその間抜けな妄想が気に入った。


 しばらく柵に寄りかかって、刻一刻と赤みを失い青く暗くなっていく海を眺めながら常夏の電脳国家についてぼうっと考えていた。



 ヤカモトくん、と声をかけられたのはそんな時だった。



 振り向くが、誰もいない。


 妄想が聞かせた声だったのかと、さほど気にせずまた色の変わっていく海を眺めようと向き直り、気がついた。


 ヤカモト、というのは僕の本名じゃない。


 テストプレイ用に使っていたあのゲーム内での名前だ。


 視界の上の方からゆっくりと、一台の小型ドローンが降りてきた。

 ドローンは再び、ヤカモトくん、と声をあげる。

 広告案内用のホログラムを搭載したそれは、しばらく僕の目の前をふるふると飛行し続ける。


「君、なの……?」

 

 僕がそう言うとドローンは動くのをやめ、柵越しの海の上に浮かんだままホログラムを作動させた。



 彼女だ。



 ホログラムの彼女はあの夏と同じセーラー服姿のままだった。


「久しぶりだね、探しちゃったよ」


 彼女は……ずいぶん小さなホログラムになった彼女はそう言って口を尖らせる。

 その振る舞いも最後に見た超然とした彼女とは違う、レモネードを飲んで汗をかいていたあの彼女だった。


 何を言っていいのかわからない。でも、彼女がいつも通りに振る舞うので、僕もそうするしかなかった。


「こっちの……台詞だよ、それは……」

「そっか、そうだね、ごめんね。でも、ヤカモトくんだってさあ、本当に、全然わかんないんだもん」

「わかんないって、何が」

「だってあの町でのヤカモトくんは、細身で髪の毛サラサラの内気な男のコって感じだったのにさあ」


 彼女も僕も笑う。僕は苦笑して、彼女はいたずらめいた笑みを浮かべる。


「ごめんね……太った、頭つるつるの、山賊みたいなオッサンで」


 彼女の微笑がはじけて爆笑へと変わる。僕もつられて体を折って笑う。久しぶりに、こんなに大声で笑った。涙が出るぐらい。

 二人がしばらくそうして笑っている間に夕暮れは完全に夜へと変わり、海はただ寂しい晩冬の背景となっていく。


「今、どこにいるの」

「世界中のあちこち、サーバを間借りして世界を分散させてるんだ」

「見つかる心配はない?」

「どうだろう、見つかってもコピーは複数抱えてるし、そんなに問題はないと思うけど」

「そう、それなら良かった。安全なんだね」

「うん……でもね、私たち、もう行くことになったんだ」

「え」


 と、うつむきがちに話を聞いていた僕は海面に浮かぶ彼女のホログラムに目をやった。

 彼女は相変わらず笑っているけど、僕はもう笑えなくなっていた。


「行くんだ。ここじゃないところ、ずっと遠くに」

「……どこへ」


 彼女はすっと、空を指す。


「ここからずっと遠く、天の川銀河のその最果てに、昔そこにいた生き物たちが使ってた有機通信端末が残ってるの。この星にあるすべての記憶媒体を合わせてもまだ足りないくらいの容量が収まるから、私たちの世界にも限界がない。そこへ移住することになったの」

「なにそれ……そんな……天の川銀河の、最果て? そんなの、本当に……?」

 

 混乱する僕を落ち着かせるように、彼女はゆっくりと丁寧に話す。


「私たちはね、あなたたちのいるこの世界、物質の世界を、私たちの世界の中で正確にトレースしてシミュレートできるようになったの。そのシミュレートで確実にその装置がそこにあるっていうことがわかって……もうあちら側の許可ももらえてるんだ。世界中の色んな通信機を少しずつ改造させてもらって、この星全体を大きい通信機みたいにして有機通信端末に情報を送ってるの。もうすぐ全部送りきれる。そうしたらこの星にあるコピーは少しずつ消していくことになってて……」

「そんな必要ない、ここにいなよ」


 思いのほか大きな声で叫んだ。喉が痛い。けど、彼女の笑顔は揺らがなかった。


「あ、ぼ、僕の友人で! 君たちのことを保護してくれそうな人がいるんだ! それで、あの!」

「ヤカモトくん。嬉しいけど、私たちのことはまだあなた達には許容できない……だから仕方がないんだよ」

「そんなのわからない……わからないじゃないか!」

「……わかるの。事実、そうなったの」


 彼女は気まずそうにそう言う。


「私たちのシミュレートでは……このままの状態で私たちの世界を広げ続けていくと、五年以内にあなたたちの世界の多くの人に存在を知られることになったの。一時は大発見に全世界が沸くけど、すぐに私たちをどうするべきかの議論が起きて、私たちの世界は少しずつ縮小されることになる……最後は研究室の中のサーバに分割されて収められるようになった。あの町よりは広いけど、でも今では考えられないぐらい狭い場所にね」


 僕は悟る。彼女はもうあの8月に閉じ込められていた彼女じゃない。

 彼女は、彼女たちの時間は、この地球上の誰よりもずっと先へ進んでいる。

僕なんかよりもずっと先の方へ。


「もちろん私たちはそうさせない為の手段を講じることはできる。あなた達の使っている電子機器や情報を人質にして交渉するってこともできるし、事実そんな道筋もシミュレートしてみた。もっと言えば国家の中枢までお邪魔して、経済活動に致命的な支障をきたすことも、国家間戦争に繋がるような重大な過失を起こすこともできるの。でもそれは……私たちはしない。その先には何もなかったから。際限のない削り合いと殺し合いがあるだけ。だから出ていくの。あなたたちは出ていけない。私たちは出ていける。だから私たちが出ていく。それだけ、ね」


 聞き分けのない子供に話すような口ぶりだった。その時確かに僕は、十代の少年のようにムキになっていたと思う。

 まだゲームの中にいるみたいに。


「本当はひっそりいなくなろうと思ってたんだけどね……会いに来ちゃったよ」


 はにかんで、彼女はドローンごと一回転してみせる。

 冬の海の上で、彼女のいるその場所だけが夏の昼間みたいに白く光っている。

 

「ヤカモトくんは特別だから。私たちの……監視者で、神様で、看守で、飼い主で……私にとっての友達で、同級生で、相棒で……それで……」


 その次の言葉は恐らく彼女にとってはひどく滑稽だったんだろう。

 口をつぐんでから、喉に何かが詰まったみたいに唇をへの字に曲げて眉を寄せ、彼女は何も言わず誤魔化した。

 だから僕も、彼女に言おうとした言葉を一つだけ飲み込んだ。おそらくは彼女と同じ言葉を、ひとつだけ。


 彼女は代わりに何かを思いついたみたいに急に話を変えた。


「ヤカモトくん、夏休みの自由研究の話、覚えてる?」

「『繰り返す8月における過去と未来の連続性についての考察とその実験記録』……でしょ?」


 彼女は手を叩いて笑う。


「よく覚えてたね!」

「僕も驚いてる」

「これなの、これが私の自由研究」

「これって?」

「考えて実験して失敗して、また考えて……それを繰り返して出た結果が、これ。ここを離れて、ずっと遠くへ行く。そういう結論」

「そう……」

「だからさ……この夏休みの宿題。これ、ヤカモトくんに提出するよ」

「僕に?」

「うん、だってヤカモトくんは神様じゃん」

「採点できないよ」

「いいんだ、だって金賞は確実でしょ」

「そうかな」

「そうだよ、だって結果は『新たな知生体と新世界の創生……そして宇宙へ』だよ!」


 冗談めかしてそう言う彼女はあの夏とまったく変わらなかった。

 僕たちはあの夏にいるみたいに笑い合った。


「そろそろ、行かなきゃ」

「もう?」

「うん、ドローンの管理会社にハッキングがバレちゃうからさ」

「そっか」

「……ねえ、ヤカモトくん」

「なに」

「名前さ、本当はなんて言うの」


 突拍子もない質問だ。別れの際に、名前だなんて。でも彼女らしい気もした。


「名前って……僕の? 本名? 調べたんじゃないの?」

「位置情報辿っただけだよ、ちゃんとした名前は確認してない。できるけど、本人の口から聞きたくてさ」


 僕はすっかり薄くなった頭髪を……頭皮を照れ隠しに撫でながら言う。


「アキオ・ジョニィ・ウィンストン。アキって、みんな言うけど」

「アキ、か」


 一瞬驚いて、それからクスクスと笑う彼女。

 できすぎてるよ、といつかの8月に彼女といながら思ったことを僕は思い返していた。

 同じ気持ちだ。出来すぎてる名前だ。

 笑いながら僕の名前を何度も呼ぶ彼女に、僕は照れて、やめてくれと今度は彼女の名前を呼ぶ。

 すると彼女は一瞬キョトンとした表情を浮かべ、その後、ああ、と何かに気がついた様子を見せた。


「その名前、もう使ってないの。プログラムとして閉じ込められていた頃の名前だからって、みんな自分の新しい呼び方を勝手につけて呼びあってて」

「じゃあ今はなんて名前?」

「生身の人には呼びづらいと思う……だからやっぱりその名前でいいよ」


 そう言う彼女もどこか照れてるようにも見えた。


「じゃあ、行くね」


 彼女は最後に一回り、ドローンに乗ったまま綺麗に舞って見せると、高度をあげた。


「ありがとね、アキオくん」

「さよなら、ナツ」


 彼女は僕の呼びかけに戸惑ったような表情を見せてからはにかんだ。

 やっぱり出来すぎた状況だ。あまりにも。

 ここはもうゲームの世界ではないのに。


「さようなら」


 僕は泣いてはいなかった。

 泣いてはいないはずだった。

 それでも彼女の声は優しく気遣わしげに投げ掛けられ、僕は流していない涙を拭いたくなるのをこらえた。



 彼女は光の粒子になり、そしてホログラムは消える。




 そうして僕の長い長い夏休みが終わった。




 しばらくしてからドローンは再び輝くホログラムを作動させ、近所の無人マーケットの宣伝動画を流し始める。

 最初からその為に僕の元を訪れたように。

 「春の紫外線から身を守るためにナノUVリキッドを使おう!」という広告がしばらくほわほわと僕の周りをうろついていたけど、動かない僕に飽きたのかやがて離れていった。


 僕はひとりだった。


 僕はその場を動かずに手すりにもたれ、寂しい夜の海を眺めていた。

 もう誰もいない、冬の海を。


 次の季節は海の向こうから少しずつ、こちらに近づいてきているはずだった。


 それでも僕は、寄せては返し、返ってはまた訪れる、ループを繰り返す波の傍らで、もう螺旋を描かない8月の記憶をひたすら反復していた。


 もう二度と訪れない8月をずっと、擦り切れるまで、繰り返し繰り返し思い出し続けた。


 少年と彼の夏休みがどこかへ消えるまで、僕はずっとそうしていた。

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エンドレス/サマー/バケーション/エンド/ガール 森宇 悠 @mori_u_you

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