第31話 沈んだ善をていねいに引き上げること(1枚目16日目・7月6日)
大雨の影響で仕事が早上がりになるという稀有な経験をすることとなった。
休みになるということは稀にあっても、途中で大きく切り上げるというのはおそらく二度とあるまい。
つまり、それほどに雨脚は危険なものになっているということである。
そのような雨の音を聞きながら、それでも、マスクを洗う行いを続ける。
前の晩に谷川俊太郎氏の企画展を訪ねた。
熊本市の現代美術館をこのような形で訪ねたのは初めてであるが、この日に訪ねてよかったと心より思う。
高浜寛氏の企画展で脳味噌を浮世から離せたのも良かったのか、展示室の入り口から既に自分を大きな入れ物にすることができていた。
最初の部屋は一面の闇。
それを朗読と四角に切り取られた光が四方八方から攻め立てる。
谷川氏の作品は日本の現代詩の中でも殊に音の感じが心地よい。
韻文がその昔、やまとうたと言われてごく自然に韻律を備えていたように、大脳が口遊む喜びをその全体で感じているようだ。
「かっぱ」と「いるか」の二篇はそうした言葉の生の姿を思い出させられる良演出であった。
しかし、「ここ」の一篇については別格である。
私が今いるはずの場所は「熊本市現代美術館」であり、「熊本市」であり、「日本」であり、「地球」であり、「宇宙」である。
そのようなことは明白で疑う余地もない。
そうした私の中にある小さな王様はひっくり返り、許しを請うように震えている。
足場など不確かなもので、ここに空気があるのが不思議で、私の心は不穏で、あなたとの境目は不興で。
この部屋と呼ばれる装置の真中に立てば次第に身体が溶け出すような気分となる。
次いで、穴を覗いて谷川氏にまつわる品々の展示室に移る。
単純な言葉の並んだ自己紹介の中で、複雑奇形を成した氏の在り方を示すように組み合わさった品々は短い時間ながら、私の詩の海を深めていく。
それと同時に私はあやふやでありながら、谷川氏とは異なる存在であり、同時にそれを一部としていることに気づかされる。
私は工具類など手にするのが苦手で、それでも、他者が操る姿を見るのは好きで、包丁をふるうのがより好きだ。
これだけで、雲のように掴みどころのない自分という存在がさらにふわふわとおどけたものになっていく。
それに、私の権威への反発というものは予想以上にちっぽけなものだと気づかされる。
それよりも大きなものが自分の中に眠っているような気がして、それでいて小さな反抗心のようなものが刃を常に研いでいる。
鶴崎は政治が分からぬ、ということなのかもしれない。
カエサルはラテン文学に誰も砕けぬ金字塔を打ち立てた。
そうした子供染みた街宣を成す自分を恥ずかしく思うと同時にどこか愉しんでいる。
また自分も仇花なのかもしれないが、その香りは自分をすら惑わすのだろう。
美術館を出て大きく息を吸う。
後ろを振り返り、初めて自分の一部を掴んだような気がした。
昨晩の高揚をやっとのことで干場に掛ける。
その日のうちでは消化できなかった思いが一つ一つ言葉になっていったことを噛みしめて床に入る。
このマスクを谷川氏は使うのだろうかとうち笑い、愉しい思索に終止符を打った。
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