第30話 酔うと小さな話が大きくなる(2枚目15日目・7月5日)
今宵もまた強かに飲んだのであるが、その趣向は前日とは大きく異なるものとなった。
雨脚を伺うように他人の話で愉しんだひと時から、賑やかな談笑の渦の中で飲むひと時に変わっていた。
そして、一人の部屋で迎えるマスクを洗うひと時も、不思議と脳が沸騰するのか荒々しいものに変わる。
今宵は少し、自己主張を強くしようかと思う。
自己主張といえばやはりその人の在り方が色濃く表れるのは食べ物である。
そして、生き方の色濃く表れる食べ物の一つは味噌汁である。
好物や最後の晩餐に求めるものも確かにそうであるが、日々食べるものの中にもそうしたものは見出される。
決して、飲み屋の酒肴として味噌汁が出てきて感化されたからではない。
看過できない人生の縮図が、繰り返される日常食という営みに凝集されているというだけである。
さて、実家で毎朝のように出てきた味噌汁といえば豆腐と葱の至極単純なものであった。
ただ、単純であるからこそ味が確としていなければどうにもならないのだが、母のそれは見事であったように思う。
時に玉ねぎと人参の組み合わせやさつまいもに変わったりもしたが、一本筋が通っていることでそうした味がより際立ったように思う。
そして、朝から寝ぼけた頭を叩き起こし、細いままの眼をこすりながら白飯と味噌汁だけで充足できるというのは幸せである。
二度と望めぬものであるが故に尊いのであるが、今でも豆腐と葱の味噌汁は好物である。
今晩はそこに熊本の名産である南関あげの加わった味噌汁を頂戴したのであるが、これもまた新たな旨味が加わってよい。
みそ汁の具で他に鮮烈な思い出を残しているのは、何よりあらかぶが丸のままで入った味噌汁である。
無論、内臓こそとってあるものの、身の旨味が余すことなく引き出されたそれはこの世の滋味を凝集した一杯であった。
これをいただいたのは対馬の友人のところへ遊びに行った際であるが、それだけに魚も出汁も豊かであった。
この豊かさに裏打ちされた友人の在り方は対馬の地の象徴として私の中で燦然と輝いている。
また、かき卵ではなく卵をそのまま落とした味噌汁を宮崎の奥地で頂いた際の感動も一入であった。
これも帰省する知り合いを旅行のついでに車へ乗せて、その朝にご相伴に与ったものである。
特別な材料を何か用いたという訳ではないが、甘めの汁に半熟の卵の妙というのは何かかどわかされたような気分になる。
その後に神代の自然の在り方を見せつけられて圧倒されたのであるが、その山海の在り方が引き立てられたのは言うまでもない。
他にも油揚げや茄子を入れたものも好物であり、飲んだ後にいただくことも多い。
蜆の味噌汁も良いのであるが、こうしたものは家よりも旅館で頂きたいものである。
旅先の宿で出でる具だくさんの味噌汁もまた楽しく、日常から離れたという解放感に浸ることができる。
そして、家に帰り着いての大根の味噌汁がまた、よい。
満腹を抱えて床に転がる。
今宵は流石にこれ以上入らぬが、明朝の朝餉がまた楽しみである。
楽しみがあるからこそ、明日に繋がる。
その思いを知るマスク達は方や気だるげに方や伸びやかに吊るされていた。
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