CASE:09 CASE OF HELL.

そういえば昔、学校の先生に聞いたことがある。

「ねえ、先生は地獄を信じる?」

「・・・どうしたの?急に」

「教えてもらったの。悪いことをした人は地獄へ落ちるんだって」

「そういう考えを持っている人はいるねぇ」

「人を殺しちゃったら地獄へ落ちちゃうのかな?」

「え?」

「命を奪うのって・・・・そんなに悪いことなのかな?」

そんな質問をする生徒に対して、先生はなんとも言えない表情をしていた。そして俺の肩に手を置き、膝を落とし、同じ目線で俺を見る。

あの時・・・そう言えばなんと先生は言ったんだったか。



**********



初めて経験した。走馬灯という奴を。

死を感じた瞬間、脳が貯蔵している、ありとあらゆる記憶を掘り起こし、生存する手段をくまなく探そうとする防衛本能。

俺は今、それを経験した。

銃弾をかすめた。

あと数センチずれていたら、俺に当たっていた。左京くんが首根っこをぐいって引っ張ってくれてなかったら、間違いなく死んでいた。


「・・・・て、てめぇは何やってんだよ!!!!殺す気かよ!!!!」


「あたり前だろ!お前は・・・・弟を・・・・・弟を!!!!!!!」

そう言って深月は拳銃を再び構え直し、銃口を向ける。

間違いない!

こいつは完全に引き金を引く気だ!

やばい!

このままだと殺されちゃう!!


––––––やばい!

––––––やばい!

––––––なんとかしないと。


「なんで俺を殺す気なんだよ!!!!!!」


色々悩んだ結果、そう叫んでいた。

人助けしてやったのになんでいきなり殺されなきゃいけなんだ。こいつは俺に感謝こそすれ、なんで殺意満々なんだ!?

おかしいだろ?!


「・・・・ほ、本気で、本気で言ってるのか!!?」


その手はプルプルと震えている。

「お前は!!!!僕の弟を!!!!!!弟を殺した!!!!!!」

やばい。今にも引き金を引きそうだ。危険だ。

死ぬ一歩手前だ!!怖い!!!!死にたくない!!!!

俺は必死に目を瞑りながら怯えていた。


「弟ってあれの事言ってんのか・・・・?あの、ゾンビどもに・・・・」


「あれっていうな!!!!!」

そう叫ぶ深月の声は涙声だった。

泣きながら銃口を向けている。

意味がわからない。自分の方が優位なのに、なんで泣くことがある?

本当に理解ができない。

何より・・・・

「この街にいる中で。たった一人の家族だったんだ!!!僕の・・・・僕の・・・・僕の家族を!!!!!!」

「お前さ、あんなのが生きててなんの意味があるんだよ!??」

死ぬのは怖い。

けれど、死ぬ以上に何も言えずに死ぬのはもっと怖い。

「この状況わかってるか???!平穏無事な、今まで通りの日常じゃねぇえんだよ!!ゾンビどもが普通にウヨウヨ歩き回ってるこの世界で、何平和ボケした考え持ってるんだよ!!!手足のない、自分一人じゃ何も出ない、そんな奴のためになんで俺たちは大事な食料や大事な体力、大事な命を賭けなきゃならねぇ!??」

「・・・・・っ!!!!!!」

深月はガチガチと震えながら銃口を向けたまま震えている。

「利用価値のねぇ人間やつに生きてる意味なんてねぇんだよ!!強い奴が生きて、弱い奴が野垂れ死ぬ。それが世の摂理だろうが!!!」

「それでも!!!!福は!!!!僕の!!!大事な弟だったんだ!!!!」


・・・・何言ってんだ?こいつ。


正直、ドン引きしてる。

こんなに頭の沸いてる奴だとは思わなかった。

なんでこんな奴を助けてしまったのか。

その時間を。その労力を。全部取り返したい。そう思えるほど無駄だったと今気がついた。


「・・・・なあ、本気で言ってるのか?」

「当たり前だろ!!!!」

「あんな弟だぞ?手足のない、一人じゃ何もできない。お前はやっとあの重荷から解放されたんだぞ?それでも・・・なあ・・・本気で言ってるのか?」

ずっと俺には理解できなかった。

あんな弟を背負って生きてる。

何一つ自分の力じゃ自由にできない。

誰かの手を借りなきゃ生きていけない、世の中のお荷物みたいな奴。

そんな弟を抱えながら生きていく。

きっとそれは、こんな世界になるずっと前からそうなのだ。

それでもこの深月という男はそれが当たり前であるかのようにやっている。俺には理解できない。家族だから。弟だから。そんな理由で支えていく人生なんて。俺には絶対に・・・考えられない。

「てめぇはてめぇの人生生きてんのかよ!!!!」

「それが兄貴なんだ!それが家族なんだ!それが人間なんだ!仕方ないだろ!」

「弟を言い訳にしてんじゃねぇよ!!!」

俺が発したその言葉に、深月の瞳からふと憎しみの炎が消えるのを見た。



**********



「弟を言い訳にしてんじゃねぇよ!!!」

その言葉がぐさりと突き刺さったのは多分、そう思っている節が自分にはあったからだ。


弟のせいで、やりたいことができなかった。

弟のせいで、遊びに行く時間がなかった。

弟のせいで・・・・

弟のせいで・・・・


弟を重荷だと思ったことがないか?

そう問われると「ない」とは言えない。

人でなしだ。

自分の中には確かに『悪魔』がいる。

もし・・・。

弟が・・・。

いなくなったなら。

そう考えたことは、確かにあったんだ。


「・・・・でも・・・・それでも、僕は・・・兄貴なんだよ!あいつのたった一人の、兄貴なんだ!!!!」


それは言い訳じゃない。兄としての尊厳だ。

僕は引き金を引いてこいつを殺す。その殺意は人として、弟を殺された兄として、絶対にやらなきゃいけない!

こいつを絶対に!!!

「お前、異常だよ」

「・・・なに?」

「そこまでして理想の兄貴を演じようとするなんてお前、異常だよ。どれだけこの社会に毒されてるんだよ。何が兄貴だ!何が人間だ!お前らのそのわけのわからん正義感のせいでどうだよ!見てみろよ!」

そう加賀美は歩く植木鉢プランターを指差す。


「お前らはあれを・・・あのゾンビどもを”人だ”と言う。本気なのかよ?

頭がおかしいんじゃないのか?確かに人間としての生命活動があって、その脳幹を操る植物によって寄生されている可哀想な患者・・・・なのかもしれない。けれど!!どうあっても助けようないだろ?あんなの植物状態の人間と一緒だよ。体が生きてるだけの死体だ!あれを殺して何が悪い?むしろあれによる人的被害の方が多いんだろう?人を殺しちゃいけませんっていう理想の成れの果てがあれだ!!さっさと殲滅すりゃお前の弟だって死なずに済んだんだよ!悪いのはお前らが崇拝する崇高なる人間性やら倫理観とやらのせいだ!!!優しさが何だ!助け合いが何だ!そんなものクソッタレだ!だがな。俺は!!!!れる!!!!何の躊躇もなく!!!息を吸うように!!!殺せるんだよ!!!人間だって!あいつらだって!今、求められてるのは・・・正しいのは俺らだ!いいか?お前らが今まで正しいと思ってきていたその思想の全てはな。この地獄の場合、何の役にも立たないんだよ!!!」


違う。

そんなはずない。

否定してやる。

この拳銃で。

引き金を引け。

早く。

こんな奴の戯言をいつまでも言わせるな。

そう思っているはずなのに。

なぜ、引けない?何で殺せない?

どうして僕はこんなに・・・弱いんだ。


「ねえ、加賀美さん!そろそろやばいよ!あの達磨、そろそろ食い尽くされちゃうから逃げるなら今だってば!」

阿久津とかいう女がそう言った。

「・・・そうだな。じゃあ、俺たちだけで行こう」

そう言って僕のことをまるでなかったかのように視界から消し去り、加賀美はスッと踵を返す。

おい、ふざけるな。

おい、逃げるな。

そう言いたいのに、何で止められない。

左京は一瞬軽蔑するような眼差しで見てきた。

鳴海はスマホのカメラをこちらに向けながら「いいね!いい泣き顔!」と興奮気味に去っていく。


「・・・・クソッタレの悪党どもが。地獄へ落ちろ」


口から何とか発することができたのは、それだけだった。

すると、逃げ出そうとしている加賀美がその瞬間、ピタリと止まった。

そしてこちらを向いてこう言った。

「それさ。よく言われるんだよな。地獄へ落ちろって。それって俺が悪党だからか?なあ、悪の基準って何だ?人を殺したからか?おい、いってみろ!俺はな!好きなんだよ!人殺しが!!命を奪うことが!!他の何事にも替えられない唯一の楽しみなんだ!!お前らが普段体験している様々な娯楽で経験する喜びが・・・・俺の場合たまたま殺人だったってだけじゃないか!ここにいる奴らもそうさ。お前ら普通の奴らが決めた倫理観からは到底はずれた奴らだよ。全部お前らが勝手に決めた倫理観じゃないか!だけど!!何がいけないんだよ!楽しいからやってるだけなんだよ!人殺しの何が悪いんだよ!!ふざけるな!!!ふぅー、まあ、いいさ。一つだけ言えることがある。俺はさ。地獄には落ちないさ。今の世の中、俺みたいな人殺しは悪じゃない。そうさ、やっと俺たちの時代がやってきたんだ。俺たちが認められる。そんな時代がやっと。むしろ地獄に落ちるべきは・・・・お前のように、何もできない無力な奴だよ」

そう言って、最後にふっと加賀美は嘲笑う。僕は引き金が引けないまま、あいつらの姿が見えなくなるのをただ見送った。

膝からガクッと崩れ落ちる。

何もできなかった。

怒りに身を任せ、引き金を引くことも。

あいつの言葉を否定してやることも。

僕は・・・なんて無力なんだ。


低い唸り声が聞こえた。


歩く植木鉢プランターだ。歩く植木鉢プランターが僕を認識した。

餌があると認識したんだ。


怖い。

死ぬのが怖い。

けど、もう、どうでもいい。

どうでもいいじゃないか。

もう何もかもがどうでもいい。

弟を守れず。

自分の意思さえ貫けず。

これからどうやって生きればいいんだ?


襲いかかる歩く植木鉢プランターを目前に僕は目を瞑る。


『むしろ地獄に落ちるべきは・・・・お前のように、何もできない無力な奴だよ』


加賀美の言葉が反芻した。

そうか。無力は・・・悪なんだ。



**********



僕は昔、神様にお祈りをしたことがある。


–––––どうかこの僕に弟をください。


そう願ったのは当時よく遊びに行っていた友達が、兄弟仲睦まじく遊んでいるのを見て、幼いながらも羨ましく思ったからだ。

どうにかこの僕に大事な弟をください。

そう何度も神様にお祈りした。

そんな祈りを叶えてくれたのか。でも、僕は素直には喜べなかった。

神様は、とても意地悪で、そして残酷だ。


「・・・え、この子が・・・僕の弟?」


初めて福を見たとき、衝撃を受けた。

生まれた弟には、両手両足がない。そんな姿の人間が生まれることを僕はそのとき初めて知る。弟を見た初めての印象は、まるでおたまじゃくしのようだと思った。


「ええ。あなたの弟。名前はふく。幸福の福よ。この子には両手がない。両足がない。けれど、優。お兄ちゃんのあなたが・・・・彼の手となって・・・足となって・・・・世界を見せてあげて」


弟が出来たらあれをしよう。これをしよう。

そう思っていた殆どが叶わない。

二人プレイで遊ぶゲームが何一つできない。

人形を渡したって、掴む手がないから一緒にごっこ遊びだってできない。

そのくせ身動き一つできないから、何をするにしても手が掛かるし。

僕が欲しかった弟は、こんなんじゃない。


ある夏の日。

僕は福と二人でお留守番。

エアコンの効いた家の中で二人っきり。


僕は正直、弟にうんざりしていた。

この弟のせいで家に縛られる。本当は友達の家に行って遊びたいのに、弟がいるからって理由で遊びに行けない。

そんなとき、誘われた。

「なあ、遊ぼうぜ」

友達からの無邪気な誘い。最初の1回目は断ろうとした。

でも、友達は引き下がらない。

「平気だよ。弟も寝てるだけなんだろ?」

「だけど・・・」

「新作のゲーム買ったんだよ」

誘惑に負けた。確かにエアコンもついているし、鍵をかけておけば平気だろうって、そう思った。

家を出たそのすぐ後、我が家の地域一帯が停電になる。エアコンは止まり、蒸し暑い温度の中、福は晒されることになった。そのことを知ったのは、友達の家から帰宅してから。福が熱中症で病院に搬送されているのを知った。


(・・・僕のせいだ)


どうしようもない罪悪感が押し寄せる。

死んじゃったらどうしよう。そんな不安がぐるぐると渦巻く。

僕の、僕の弟が、死んでしまったら!!!

怖かった。

人生でこれ以上ない恐怖を味わった。


けれど、病院で見た福は僕の顔を見るや、にっこりと微笑むのだ。


「・・・ごめんなさい」


思わずあふれる気持ち。大粒の涙をこぼした。

福は怒ったりしない。

ただにっこりと笑いかけてくるだけ。

無性の愛を向けてくれる。


僕はそのとき誓ったんだ。


僕はこの弟を、自分の一生を賭けて・・・・守るって。

福は僕が守る。

ありきたりだけど、でも、真剣な気持ち。


その、はずだった。



**********



目を覚まして最初に見たのは、汚い天井だった。

ボロいアパートの一室か。

長い夢を見ていたみたいだ。

懐かしい小さい頃の記憶。

「・・・ここは・・・・」

「起きたか」

男の声が聞こえた。目を向けるとそこには若い大人の男の人。

咥えたタバコに火をつけながら、虚空を見つめている。この人は一体、何者なんだ?

「・・・昨日は災難だったな」

「え」

その言葉の意味を理解するのに数秒を要した。

脳内を駆け巡る昨日の記憶。

弟の福が投げ捨てられ、歩く植木鉢プランターの––––––

そして僕は投げ捨てた張本人に対して何も出来なくて––––––


「うわああああああああああああ!!」


気がつけば叫んでいた。

一気に昨日の記憶が流れ込んできた。

思い出した。


「福は・・・福は!!!!」

「助けられなかったよ。文字通り、骨も拾えなかった」


男のその言葉を聞いて、ふっと力が抜ける。

仰向けになって力尽きるように倒れた。

静かに、そして浅い深呼吸をする。


(ああ・・・守れなかった)


弟を守るって誓ったはずなのに。

そして弟を投げ捨てたあいつに対して、僕は何も出来なかった。

無力だ。

何の為に僕は生き残ったんだ?


「・・・すまない」


男は静かにそう言った。

「俺の名前は白木しらき 圭吾けいご。あの加賀美 悠を逃してしまった・・・張本人だ」

「え?」

僕は白木さんから加賀美についていろいろ説明してもらった。


加賀美という男は、少なくとも23人の男女を殺害した容疑で逮捕されたはずの猟奇殺人犯であること。護送途中、歩く植木鉢プランターに襲われて加賀美を取り逃してしまったこと。そして今僕が持っているこの拳銃は、あのとき、加賀美が歩く植木鉢プランター相手に戦った際に白木さんから受け取ったものであること。

それを全部説明してもらった。

「もし、あのとき、あいつを取り逃しさえしなければ・・・きっと・・・・」

白木さんは悔やんでいた。

僕はなんて彼に言えばいいだろう。

お前のせいだって、もしかしたら言って欲しいのかもしれない。

けれど、白木さんは何も関係がない。

「加賀美がいなかったにせよ、また別の形で僕は福を失っていたかもしれません。どちらにせよ、僕は無力です。僕が・・・僕の無力が招いた結果です。悪いのは全部、僕なんです」

言いながら僕の頭の中であの言葉がこだまする。


『むしろ地獄に落ちるべきは・・・・お前のように、何もできない無力な奴だよ』


そうだ。

僕こそ地獄に落ちるべきなんだ。僕のような何も出来ない奴が。無力は悪なんだ。

・・・死にたい。

全部、忘れて、死んでしまいたい。


「それは違う!!違うよ!!!」


白木さんはキッパリと否定してくれた。

僕の肩を掴んで、僕の目をしっかりと見つめて、僕よりも悔しそうな表情で彼はそう訴えかけてくれた。

「君は何も悪くない!!!」

その言葉が僕には痛い。


「じゃあ・・・・だったら・・・・どーして弟は、福は死んだんですか?どうして僕は、大事な家族を・・・守れなかったんですか・・・」


あふれる気持ちが抑えられない。

白木さんは力強く抱きしめてくれた。

僕はただただ赤子のように泣き叫んだ。


僕は無力だ。


自分の無力さが嫌になる。

心底、嫌になる。



**********



あいつは・・・加賀美は言った。

崇高なる人間性は、倫理観は、優しさは、助け合いの精神は・・・この地獄のような世界じゃ何の役にも立たないと。


多分、それは・・・真理だ。


いや、もっと言えばこんな世界になる以前からそうなのかもしれない。

力がないやつに、結果が出せないやつに、生きている価値はない。

結局僕らは弱肉強食の世界で生きている。

弱いやつになんて皆かまけてなんていられない。皆、自分が生き残ることで必死なんだ。自分の命を守る為なら、自分の家族のためなら、自分の好きな人の為ならなんだってやる。だけどひとたび輪の外に出た人間に対して何かをしてやる道理はない。

特に、弟のように体に不自由がある奴に手を差し伸べる酔狂な人間なんていやしない。もしかしたら知的な障害のあるやつに対しても同じことが言える。そんなやつに対してどうして手を差し伸べられよう?

色々面倒だぞ?

大変だし。そう考えることは至極当然で、当たり前のことだ。

生温い優しさなんかで通用するほど世の中そう甘くないのかもしれない。


でも・・・・


僕はスコップを握り直す。

そして大きく振りかぶって目の前にいる歩く植木鉢プランターの後頭部を殴りつける。

歩く植木鉢プランターは地面に打ち付けられる。

倒れた歩く植木鉢プランターは起き上がろうとする。だけどそれに追い討ちをかけるように僕は何度も何度も歩く植木鉢プランターを殴り続けた。

「・・・はぁ・・・・はぁ・・・はぁ・・・・・・」

この歩く植木鉢プランターが追いかけていた一人の少女。

縁もゆかりもない、見知らぬ人だ。

中学生ぐらいだろうか。顔にまだ幼さがある。

「・・・もう、大丈夫。心配いらないよ」

そう言って手を差し伸べる。

だけど、彼女は手を取ろうとしない。

あまり時間を取られるわけにもいかない。

時間が掛かれば掛かるほど、歩く植木鉢プランターに囲まれることに繋がる。

だから急いで逃げ出さないと。


「ほら早く、逃げよう!」


そう言ってるも彼女は答えないまま。

急いでいるんだ。歩く植木鉢プランターに囲まれる前に逃げないといけなんだ。だから・・・・思わず語気が強くなりそうになる。

ふと、彼女が怯えていることに気がついた。

最初は歩く植木鉢プランターが怖かったのかとそう思った。

だけど、それは違うと気付いてしまった。


差し出す僕の手に、怯えてい・・・る?


その事実に気付いた瞬間、彼女がこの封鎖都市で今までどんな時間を歩んできたのかと想像する。

プルプルと怯え、目を瞑り、口を噤んで怯える彼女。

歩く植木鉢プランターという恐ろしい存在ももちろん怖い。

でも、それ以上に。

彼女と一緒に逃げていた”誰か”に怯えながら生きてきたんじゃないか?

封鎖都市内は異常事態だ。

皆、正常な思考を持ち得ていない。

自分の欲望のままに行動する奴もいるだろう。

あの加賀美のように。

彼女は・・・・それにずっと耐えながら生きてきたんだじゃないか?


彼女の歩んできた時間を考えると涙が溢れる。


怖いんだ。

僕が。男の僕が。何かされるんじゃないかって怯えているんだ。

今までどんな恐ろしい目にあってきたんだろう?

こんなに怯え切ってしまって。

そんなに、そんなに怖いのか。

何が彼女にあったんだ。


知りたくない。


でも、今はそんな問答をしている場合でもない。

今すぐにでも逃げ出さないと。

彼女を、助けられない。


息を整える。


伝われ。

この思い。僕はただ、彼女を助けたい。

それだけだ。それ以上、何もない。


「・・・・お願い。お願いだよ。君を・・・・君を、助けさせて。ここから一緒に・・・・逃げよう?」


きっとあの男は、加賀美は異常だと僕を罵るだろう。

罵倒するだろう。でも、僕は・・・・それでも縁もゆかりもない人であろうと、見知らぬ人であろうと助けることが正しいと、正義を行えって心が叫ぶ。人を救えと魂が訴えかける。

そんな魂の声に素直に行動して、正義を実行できる人。


そういう正義の人に、僕はなりたい。


「僕は君を助けたい!!!!ただそれだけなんだ!!!」


僕の気持ちが伝わったのか。

彼女は恐る恐る、怯えながらも、ゆっくりと僕の手を取ってくれた。

「・・・ありがとう」

僕はそう彼女に告げてその場を逃げる方法を考える。

歩く植木鉢プランターには囲まれつつある。もう逃げる道は一つしかない。

「走れる?」

僕がそう問いかけると彼女は小さく頷いた。

「ごめん、急ぐよ」

彼女の手を引いて、僕らは走り出す。

生きることを諦めない。絶対に。

助けることを諦めない。絶対に。

僕はそう誓って今、こうして歩く植木鉢プランターと立ち向かう。


『–––無力は悪だ』


それは加賀美の言葉を借りた僕の言葉。

僕はその言葉を否定する。僕は悪人じゃない。正義の味方だ。

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