第15話 あやかし旅館の若女将

 

 そして田沼様が竜泉閣に宿泊する日がやってきた。天気はよく晴れていて、春はすぐ近くまで近づいてはきているものの、まだ空気は冷たく肌寒い。


 予約時間ぴったりに竜泉閣に到着したのは、黒塗りの高級車だ。音もなく静かに玄関前に横づけると、運転手が回りこんでドアを開ける。私は玄関先まで出てゆっくりと後部座席からおりてくる田沼様をお出迎えする。


「田沼様、本日はようこそ竜泉閣へおいでくださいました」


 深々と頭を下げる私に対して田沼様は鷹揚にうなずいた。


「今日は世話になるよ。どれだけのものか、試させてもらおうか」

「ええ。竜泉閣のでおもてなしをさせていただきます」


 私はにっこりと笑って返事をする。フロントでチェックインを済ませていただいてから、まず私は館内を流れる小川へとご案内した。さらさらと流れる小川からは、しかしうっすらと湯気が立っている。


「これは……?」


 いぶかしそうにする田沼様に向かって、私は「どうぞ、外は寒くて手足も冷えておられるでしょうから、足をつけて暖まって下さい」と言ってお湯が流れている小川を指し示す。


 これは、川の温度を自在に操れる次郎吉の能力だった。川の水をひんやりと低温にできることは夏の間に知ったけれど、もしやと思って竜泉閣の中庭、日本庭園の隅にある祠に新鮮なキュウリをお供えしてお願いしてみたら、翌日には小川の温度が急上昇、適温の足湯になっていたというわけだ。

 まさか高い方にも調整できるとは知りませんでした、と本来のお供え担当である板長もこの結果にはとても驚いていた。どうやらいままでその発想はなかったらしい。私も半信半疑ではあったのだけど、なんでもお願いしてみるものである。

 ただ板長が言うには、お湯が流れるようになってから次郎吉にある変化があったとのこと。


「河童の皮膚の色って、普通は緑色じゃないですか」

「まあ、そうよね」


 よく漫画などで描かれる絵ではたいてい河童の皮膚の色は緑色で描かれている。次郎吉だって最初に私が遭遇したときに調理台の下から伸びてきた手は緑色をしていたように思う。


「どうやら今の次郎吉の肌の色、赤くなっているみたいなんですよ」


 海老か。こちらからお願いしておいてなんだけれども、そんな状態で次郎吉は平気なのだろうか?


「見た限りではわりと元気そうでしたけどね。たしか河童って赤い奴もいませんでしたっけ?あれはもしかして水温で皮膚の色が変わっているのかもしれませんね」


 日々接している板長が言うならまあ大丈夫か、と私は無理やり自分を納得させる。もしかしたら私たちは河童の意外な生態を発見してしまったのかもしれない。


 最初はおそるおそるな様子で足をつけた田沼氏だったものの、小川は冷えた手足を温めるのにとても適した温度になっている。徐々に緊張がほぐれて寛いだ様子になっていく。


「これは……なかなかいいお湯じゃないか」

「ありがとうございます。大浴場のお風呂もぜひお楽しみ下さい」


 私は田沼様が履いていた靴を袋に入れて持つと、足ふき用のタオルを手渡す。田沼様はすっかり血行の良くなった足先をタオルで拭いて、こちらが準備しておいた屋内履きに履き替えた。私が目配せすると控えていた莉子ちゃんがするするとこちらへ近づいてきて、靴を受け取ってから私と交代で田沼様をご案内する。


「それでは、お部屋へご案内させていただきます」


 莉子ちゃんがにこやかな笑みを浮かべながら先に立って、廊下を進んでいく。田沼様もその後に続いて、客室へと続く長廊下に足を踏み入れた。

 すると。

 廊下の両脇、等間隔に閉じた状態でずらっと立てて並べられた和傘が二人が通るのに合わせて順番にぱたぱたと開いていく。それはまるで合図に合わせて花が咲いていくようだった。開いた傘の内側には桜色の紙吹雪や色とりどりのちりめん飾りが仕込まれていて、くす玉がはじけたような賑やかな雰囲気を演出してくれている。まるで歓迎パレードが通っているような廊下を、半ば呆けたように見とれながら田沼氏は歩いて行った。

 私はそれをロビー側から眺めつつ、一番手前の和傘に向かって親指を立てて「大成功!」のジェスチャーを示す。和傘の内側に、唐傘お化けのきょろりとした目が浮かんで嬉しそうに目尻を下げると、すぐに消えた。


 チェックインが遅めの時間だったので、夕飯の時間まではすぐだった。日も沈むのもまだ早く、さっきまでは日が差し込んでいた廊下も、太陽の光が差し込まないとすぐに薄暗くなってしまう。

 私は引き戸になっている部屋の扉をノックすると、「どうぞ」という返事を受けてそっと扉を開ける。ゆったりとした浴衣に着替えた田沼様は部屋の一番奥に立ち、窓から外をじっと眺めている。


「失礼いたします。お食事のご用意が出来ました」

「ああ、もうそんな時間かね」


 私の声を受けて初めて時間の経過に気がついたように田沼様が振り向いた。


「お部屋からの眺めはいかがでしたでしょうか?この部屋は竜泉閣の中でも一番眺めの良い部屋なんですよ。角部屋なので臥竜山と麓の町並みが一望できますから」

「ああ、楽しませてもらったよ」表情を見る限り、その言葉に偽りはないように思えた。「それは良かったです」私も本心からそう答える。

 田沼様を促して薄暗い廊下に出ると「ちょっと足下が暗いですが、すぐに明るくなりますので」と言って、「?」と不思議がる田沼様の前で、私はぱん、と手を叩いて合図を鳴らす。

 その合図と共に、ぱぱぱぱぱ、と手前から奥に向かって天井からぶらさがっている提灯に灯がともっていく。夜行する大名行列のような光景の中を、田沼様をご案内しながら食事処に向かって歩いて行く。

 提灯の中に入っているのはただの電球のはずなのに、まるで蝋燭の炎がともっているかのように、どこか幻想的に揺らめいている。柔らかい明かりに照らされた田沼様の表情も、どことなくリラックスしているように見えた。

 これは当然、提灯お化けの仕業である。食事処の入り口まで辿り着くと、最後の提灯に目が浮かび上がってウインクするのが見えて、私も小さくウインクを返したのだった。


 食事処には、すでに見目華やかな前菜が用意されていた。しかしこの中で一番のインパクトを持っているのは一見地味に見える、冷や豆腐なのだ。箸を掴んで最初に何気なく口に運んだ途端、驚きで田沼様の目が見開いたのが分かった。私はすかさず声をかける。


「いかがですか、その冷や豆腐はうちの特製なんですよ。私も大好きなメニューなんです」

「これは……驚いたな」


 おそらく高級で豪華な料理に慣れているはずの田沼様が驚きで声を失っている。さすがあやかし風味の絶品冷や豆腐である。


「これ、日本酒にも良く合うんですよ。良い地酒が入っているのですが、良ければお持ちしましょうか?」

「ああうん、それじゃあ頼もうかね」


 田沼様は狙い通りにすっかり冷や豆腐の虜になっているようだった。それに加えて板長が今日の日のために腕によりをかけて準備した料理の数々が、田沼様を満足させていることは、料理をつまんだ箸を口に運ぶたびに緩んでいく口元を見ればよく分かる。

 いつの間にか田沼様の向かいにはお膳幽霊の田中さんが座っていて、朗らかに談笑しながらお酒を酌み交わし合っている。お喋りが盛り上がりながらも、田沼様のお箸の動きは始終止まらず、前菜、お作り、焼き物、煮物、石焼き、酢の物、止め椀、香の物まで一気に進んでいった。内心恐る恐る差し出した、私の作った手打ち蕎麦も、勢いそのままに平らげて、満足した表情で田沼様は食事処を後にする。


 食事の後は当然お風呂だ。これはさすがに私が様子を見るわけにはいかなかったけれど、大浴場から出てきた湯上がりの田沼様の表情を見れば、お風呂にも十分に満足してくれていたのが分かった。

 今日のお湯は竜泉閣自慢の源泉を、河童の次郎吉が調整してくれた川の水でうめてある。川の水の温度をどのくらいにして、お湯を埋める比率はどの配分が一番良いか、この日のために調整を繰り返してきたのだ。

 板長が次郎吉の祠にお供え物をするのと同じように、私も源泉に掲げられている神棚に毎日お参りするようになった。初めて源泉を覗き込んだときに見た大きな影は、あれ以来見えることはなかったけれど、それ以来なにか大きなものが見守ってくれているような気持ちでいるようになった。


 田沼様が部屋に戻ってしまうとあまり出来ることはないけれど、最後のダメ押しとして私はおかっぱ頭に牡丹柄の着物を身につけた小さな女の子に「それじゃあ、よろしくね」とお願いをする。お華ちゃんはちいさくこくりとうなずくと、いつものように黒猫を連れて、くすくすと笑いながらすっと消えていった。


 翌朝、朝食の席に訪れた田沼様はとてもすっきりとした顔をされていた。私はお華ちゃんに心の中でありがとう、と感謝しながら、食後のお茶を入れる際に田沼様に尋ねてみる。


「いかがですか、昨夜はよく眠れましたでしょうか?」


 なんとなく、お華ちゃんと初めて遭遇したころ、童話作家の山田先生が竜泉閣を訪れた時を思い出していた。そういえばあの時もこうやって声をかけたっけ。あの時の山田先生と同じようにとてもすっきりとした顔で田沼様は答える。


「いや、吃驚した。わしはずいぶんと昔から不眠症気味だったのだがね。だからその分仕事にのめり込めたというのもあるが、この年になるとそれもむなしく思えてきてな。……まだ小さいころに親に連れられて訪れたことのあるこの場所に、懐かしさを覚えていたのかもしれんな。昨夜は、その頃の夢を見たよ」

「それはそれは。良い夢でしたか?」

「ああ、そうだな。……良い夢だったよ」


 そう告げる田沼様はまるで憑き物が落ちたような顔をしていた。もしかしたら、本当に何かに取り憑かれていたのかもしれないな、とそんなことを思った。


 お見送りの時間となり、ロビーで荷物をまとめて部屋から出てくる田沼様を待っていると、後ろから肩を叩かれた。不思議に思って振り向くと、そこに立っていたのはなんと、以前のように和服をぴしりと身につけた大女将だった。


「えっ!?大女将、まだ入院予定じゃなかったんですか?」

「そのはずだったんだけどね。お医者様の見立てよりもずいぶん早く腰の状態が良くなったのよ。だから驚かせようと思って今朝早くに退院してこっそり戻ってきたの」

 

 着物を着て姿勢良く立つ大女将の姿は以前のように凜としていて、見ている私も自然と背筋が伸びる気持ちだった。しばらく並んで立っていると、思い出したようにぽつりと大女将がつぶやいた。


「ちょっと前に幸子がね」

「え?」

「幸子が、夢に出てきたのよ。ありがとうね、とひとことだけ言って、遠くへ行ってしまったわ。もしかしたらそのときに、私の腰痛も持って行ってくれたのかもね」

 

 少し寂しげにうつむき、つぶやく大女将。どういう声をかけていいかも分からずに、横を向いてなにか言おうとした私を制するようにして、大女将は目線を上げて前を向く。


「ほら、お客様のお帰りよ。きちんとお見送りしないと」


 その言葉に私も同じように背筋を伸ばして前に向き直る。ちょうど田沼様が荷物を持って出てくるところだった。フロントに立つ継春が部屋の鍵を受け取って精算の手続きをしている。ほどなくして手続きを終えた田沼様がこちらに向かってくる。銀行の会議室で初めて会ったときとは比べものにならないくらいに晴れやかな顔をしていたけど、大女将が私の隣に立っていることに気がつくと、わずかに足が止まった。

 しかし不思議そうに見つめる私の視線に気がつくと、えへんと一つ咳払いをしてから再びこちらに近づいた。目の前に立った田沼様に向かって、私は改めて質問する。


「田沼様。竜泉閣のおもてなしは、いかがでしたか?」

「そうだな……。認めよう、いいサービスだった。今回の話はなかったことにしてやろう」


 それを聞いた瞬間、思わずガッツポーズが出てしまう。様子を伺いにフロントから出てきていた継春も、田沼様の後ろで同じようにガッツポーズを取っていた。

 それまで私の横で黙って事の成り行きを見守っていた大女将が、田沼様に向かってぽつりと言った。


「あら、『真心、誠実、謙虚』がモットーのTNMグループの方にしてはずいぶんと尊大な態度ですね」


 突然に発せられた大女将の意外な言葉に、私は思わず聞いてしまう。


「あの、大女将、ずいぶんと詳しいんですね」

 

 私の質問に対して、平然とした様子で大女将は答えた。


「それはそうよ。だって私、若いころにTNMグループの旅館で働いていたことあるもの」

「ええっ!?」


 私も驚いたけれど、視界の向こうでは継春も同じように驚いていた。どうやら彼もこのことは初耳だったらしい。


「そのとき言い寄ってきた偉そうな奴をぶっ飛ばして辞めちゃったけどね。それから竜泉閣に仲居として来たのがなれそめで……あれ?」


 そこまで言ってから気がついたように大女将は田沼様の顔をじっくりと見つめる。田沼様は先ほどからそっぽを向いて苦虫をかみつぶしたような顔をしていた。


「ああ!もしかしてあのときの?」


 田沼様が竜泉閣に妙にこだわっていたのは、そういうことか。私と継春は納得した顔で二人を見つめる。


「その節は大変失礼いたしました」


 丁寧に頭を下げる大女将に、気まずそうに田沼様が答える。


「……いや。もう腰はいいのかね。入院したと聞いていたが?」

「それもご存じでしたか。おかげさまですっかり回復いたしました。……もしかして、私がいなければ、ここを乗っ取りやすいと思いましたか?」


 田沼様は何も言わなかったが、ぐ、と喉に何かが詰まったような表情が、図星であることを物語っていた。


「それは残念でしたね。竜泉閣には、もう立派な若女将がいるんですよ」


 大女将はそう言って、私の背中をポンポンと叩く。不意にかけられた嬉しい言葉に私は思わず泣きそうになってしまうけど、そこをぐっとこらえて、渾身の笑顔を田沼様に向ける。そんな私の様子を見て、田沼様は「どうやら、そのようだな」と小さくつぶやいて、迎えの車に乗り込んだ。


 車が見えなくなるまで頭を下げて、後ろを振り向くと、いつの間にかロビーには板長や莉子ちゃん、それにその他のスタッフも集まってきていて、心配そうにこちらを見ていた。

 私がガッツポーズを作ってみせると、皆が一斉に喜びの声を上げる。ぐるりとロビーを見回すと、日本庭園の池からは河童の次郎吉の頭が覗いているし、板長の後ろにはこっそりと豆腐小僧がしがみついている。玄関近くに置かれた和傘と提灯にぎょろりと目が浮かび上がって、嬉しそうに笑っている。しれっとスタッフの後ろには田中さんの顔が見え、大女将の裾にはいつの間にか黒猫を従えたお華ちゃんがしがみついていた。幸子さんの姿が見えないのは少し寂しいけれど、皆嬉しそうにこちらを見つめている。


 私は改めて思う。

 あやかしたちも含めて、私はこの旅館が大好きなのだ。


 今日も新たなお客様が竜泉閣を訪れる。


「いらっしゃいませ、竜泉閣へようこそ!」


 私は心を込めて、お出迎えの挨拶をする。ここは竜泉閣、あやかしと若女将のこころからのおもてなしが楽しめる旅館なのだ。

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あやかし旅館奮闘記~怖いものがダメな私が嫁いだ旅館はあやかしが出る旅館でした。仕方ないので若女将として頑張ります~ きさらぎみやび @kisaragimiyabi

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