或る男の書置

宮古遠

或る男の書置

 

 

     1



 私が初めて作品を完成させたのは、十代の頃だった。『夕陽の中を彷徨う男と少女』の話だ。幼い日に見た美しい夕陽に着想を得たものだった。「向こう側へ行きたい」と思った事を、今でも覚えている。

 私は父から譲り受けた古い銀の万年筆を用い、買ってきた四百字詰めの原稿を沢山犠牲にし、書き上げた。然しそれは小説ではなく、殆ど台本に近かった。

 その頃の私には、世界のなにもかもが輝いて見えた。なにも見えていなかったからこそ、ぼうっと毎日を生きていたからこそ、世界のなにもかもが輝いて見えたのだろう。

 気付くと二十年が経ち、私も三十半ばに差し掛かろうとしている。

 父母も既に七十を過ぎた。

 私は五年の上京生活の後、酷い精神疲弊に陥り帰郷した。暫くの養生の後、父が定年となったので、私は町内の新聞に載っていた仕事に就職した。精神の安定した私は、日中は仕事をし、帰宅後に小説を書くようになった。

 勤務先では最初、上京について問われることがあった。が、よい思い出が全く思い出せない為に、何も話せなかった。それは結局のところ、自分自身の行動不足に原因があった。上京しておきながら、考え無しに一つの場所へ固執し、こもって、日々を凌ぐだけだったのである。馴染もうという努力すらせず、ただ、言葉の紡がれるままに精神をすり減らし、取り繕った良い顔を見せるだけだった。

 父は目を悪くし、運転ができなくなった。だから私が運転をした。

 外出の為に、墓参りのために、今迄父が行っていた事象を、私が行う。送迎役として、決まった日時、決まった時間に行為を行う。それは一種の仕事だった。私には苦痛だった。

 私は父母を愛していた。無性に苦しくなり、壊したくなる衝動とは別に。

 苦痛はいつも、予告無しに私を襲った。



     2



 私は現実から逃げるべく小説を書き続けた。だから小説の中に現実に近しいものを書くのが心底嫌だった。だから私は、現実に起こりそうに無いことばかりを、小説として書くことが常だった。

 そのせいか、私の書くものはいつも、どこか現実味のない薄っぺらい代物ばかりだった。いや、これは現実非現実に関係なく、今ここに存在する私そのものが、薄っぺらい人間であるからなのだ。籠もり続ける人間ゆえに、想像力の欠如した人間ゆえに、日々をこなすだけの人間ゆえに、私は、こうした一つの末路に至った。

 考えが凝り固まってはいけないと思い、たくさんの本を読んだ。映画をみた。図書館へ行った。好きなものが何なのかを理解すべく努めた。然し、私の書くものはさっぱり駄目だった。

 愚かであるからこうなるのだと、私は考えた。小説の世界に、独りよがりに、自分の為に没入する、何かを見ているようで決して見てはいない、愚かなる盲者であるが故に。

 そんな或る日、母が迷子になった。



     3



 私は母を自宅で看病した。それは父が、母を愛する故に、施設へ入れることを反対した為であった。然し父は体を悪くしていたから、母の介護は殆ど、私の仕事だった。私は仕事を辞めた。

 穏やかだった母は、次第に怒りっぽくなった。私を見ては、私の事を否定し、自分の家、実家に帰りたいとうめいて、私の知らぬ男の名で私を呼んだ。そのうち私は、目の前にいる女性が母と思えなくなった。

 涙が出た。そして悲しくなるたびに、私はあの日見た夕陽を思い出した。遊園地から帰る道。幼い私と美しい母が、父の運転する車に乗り、車内から見た、地平線の向こうへと沈む、あの――美しくも空しい夕焼けを。

「向こう側へゆきたい」

 だが、私は今も『こちら側』にいる。いつまでたっても向こう側へとたどり着けずに。

 私は追いかけ続けているのだ。

 小説という装置を用いて、あの日見た夕陽を。

 全く見当違いの方向へ走っているとも、気付かずに。

 そして母は死んだ。

 向う側へ行ってしまった。

 私はなにもかもが嫌になった。虚構さえも満足に創り出せぬ私を。

 だから私は小説や映画をすべて燃やした。

 私の書いた、嘘の世界と共に。



     4



 その日の夜、私は起きても覚えている夢を見た。

 夢の中に現れたのは、私が初めて書いた小説の中に登場する、〈夕陽の中の少女〉であった。

「キミは」

 私は思わず呟いた。

 彼女は銀の髪を揺らし、笑っていた。

 その笑顔は、どこか在りし日の母に似ていた。

 私は彼女とともに、夕陽の中を彷徨い続けた。どこへゆくのかも判らなぬまま、永遠に。

 そのうち私はへとへとになって、その場に座り込んだ。

「どこまでいく気だ。歩き続けて。キミは、いったい――」

 すると、彼女が云った。

「燃やしてしまったのは、貴方よ」

 私は戸惑った。だから彼女の手にすがった。 

 然し彼女は、私の手をふりほどくと、

「貴方は自分で捨てたのよ。私と共に、何処へでもゆける切符を。だから今日が最後なの。私はいつまでも彷徨い続けるの。こちら側にも、向こう側にも往けず。夕陽の中を永遠に。貴方の所為で」

「俺の、所為」

 呆然と彼女を見る私に、彼女は云った。

「そうよ」 

 青の瞳に、茜色に光る涙を漂わせ、夕陽の中の少女は、ただ一人、夕陽の向こう側へと潜ってゆく。

「貴方の所為よ。貴方の所為よ。貴方の、貴方の。……」

 夕陽の中から永遠と、彼女の声が響き続ける。

 夕陽の中から永遠と、私の心を揺らし続ける。

 私は取り残された。永遠に向こう側を見ることのできぬまま。ただ一人。ここで。

「まってくれ」

 私は叫んだ。虚構の中の現実に。

 私は目を覚ました。



     5



 眼前に、私の腕が伸びている。

 頬を涙がすべり、枕の丘に消えてゆく。 

「判りもしないのに、何処へ行くんだ」

 消そうと思った。殺そうと思った。

 だから燃やした。

 なのに――消せなかった。

 それは永遠に、私の心にこびりつく光景として、私の中に残るのだろう。どこへも往けぬまま彷徨い続ける。死ぬこともできずに。

 だのに私は、いつまでもこちら側に残り続ける。生き続ける。向こう側へゆく術を手に入れることなく、気付くことなく。

 途端、私は思った。

 ここに生きている私こそが『死』なのだと。

 私が『死』であるからこそ、ほかの全てが『生きる』のだと。

 引きずり込んではならない。

 彼らを、彼女らの導を奪ってはならない。

 だから向こう側へ送るのだ。

 『死』の世界から『生』の世界へ向かう導を。

 『死』の世界にいる私が、彼女を向こう側へ、最後まで努めて、『生』の世界へ送り届ける。

 それが私の、せめてもの役目なのだ。

 完全かどうかではなく、彼女にとっての導を届ける事が。私の。

「死ぬのはその後でも、いい」

 こうして私は起きあがった。机へ座り、使い古した銀の万年筆を手にすると、再び、原稿用紙に文字を綴り始めた。

 彼女に導を示す為に。

 夕陽の向こう側へと送る為に。

 唯一夢への干渉を許された、何もかもを現実にする、銀の鑰を手にして。

 私は私の言葉で、彼女の為に。

 愚かなる虚構の先を、綴り続ける。







   了

 

 

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