ACT.5
『私は、もう誰も恨んでいませんし、憎んでもいません』
篠宮香苗は髪を元に戻すと、少しうなだれたまま、囁くような調子で言った。
『私がこうなったのも、私自身のせいだと思っています。弟もあの後しばらくして点に召されました。今はこうしてご縁があって、こちらで主にお仕えしながら一人静かな生活をするようになって、そのように考えが変わったのです。今更何を望みましょう』
『ということは、相馬氏とお会いになるつもりはない、と・・・・』
彼女は何も答えず、首を左右に振った。
『相馬先生にはお世話になりっぱなしで、後足で砂をかけるような真似をして、本当に申し訳ないと思っています。でも・・・・』彼女の目から涙があふれ、膝の上に落ちる。
仕方ないな。
これ以上無理強いは出来ん。
『では、これで失礼します。依頼人に報告してから、また伺うかもしれません』
『お役に立てませんで・・・・』
彼女の言葉には『何度来られても同じだ』という響きを感じ取れた。
『そうか・・・・ということは私は振られたわけだな』
あのアトリエで対峙して、俺の報告を聞き終わった相馬氏は、ため息とともに言葉を吐き出した。
『分かりました。彼女の心の中にまで土足で踏み込むような真似は出来ませんからな。』相馬氏はそう言ってデスクの引き出しを開け、そこから封筒に入ったものを取り出した。
『ご苦労さんでしたな』
俺が中を改めようとすると、
『いや、その前にもう少し骨を折ってくれませんか?』と言った。
『私のことはもういい。しかし彼女の傷をそのままにしておくのは、何とも気の毒だ』
俺は、相馬氏の気持ちが何となく理解できる。
『分かりました。引き受けましょう』
翌日、俺は関西一の大都市であるところのO市にいた。
(なんでまたそんなところに?)
あんた、俺の事件簿を読んでくれてないのか?
関西のO市、傷を負った女、この記号だけで分かりそうなもんだがね。
新幹線を降りると、運よく、本当に運がよく、
『やあ、探偵の大将やおまへんか?』
気のいい声が俺にかかった。
振り返ってみると、タクシー乗り場の一番端っこに、おんぼろの(いや、本当にそうなんだから仕方がない)セダンが一台停まっていて、運転席から日本人離れした東洋人の中年男が愛想笑いをしていた。
『よう、あんたか。儲かってるかい?』
『ボチボチでんな・・・・といいたいとこやけど、このところさっぱりあきまへんわ。ケタ落ち続きで、どむならん』
俺は何も言わずにバックシートのドアを開けて乗り込み、福澤先生を一枚出した。
『大将がここで用があるといえば、あっこしかおまへんな。ちゃいまっか?』
『ご明察、ちゃっちゃと頼むぜ』
『しゃあないな。いつもの橋のとこまででっせ!』
おっさんは福澤先生を受取ると、わざとらしく苦い顔をして、車を発進させた。
時刻は午後3時、当然ながらこの時間だから、周囲はまだ明るい。
しかし、流石は『東洋のサウス・ブロンクス』だ。
そこだけぽっかりと明かりが落ちていて、ぽつりぽつりとしか街灯がついていないのがはっきりと分かる。
『大将も物好きやねぇ、何が面白うてあんなとこに度々行かはるのやら』
『物好きだからじゃない。仕事』
俺はそう言って、車から降り、橋を渡り始めた。
『気ぃつけなはれや!無事に出てきはったら、ケータイを頼んまっせ!』
おっさんはそう言うと、タイヤを軋ませて車をUターンさせた。
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