第一章

奉られる者 捧げられる者 

ㅤ時は遡り、クスハ失踪の数時間前。

 クレメイユ国は最北部、ウルヴァリ山脈を越えた先にある田舎村・フロラ。そこは農耕を中心に畜産・酪農で生計を立てる、豊かな緑に守られた平穏な土地だった。鳥が唄い、風の囁くこの場所で生まれ育ったケヴィン・タラークは放牧地を駆けて回り、羊の面倒もそこそこに草の絨毯でまどろんでいた。空を流れる雲の速度は何時になく速い。これは日が傾く前に羊たちを戻した方が良さそうだ、とケヴィンは考える。

 それまであと一刻は眠っていてもいいだろうか。太陽の位置を目安に確認すると、両足を投げ出して橡色の双眸を伏せた。

 とても平穏な時間だった。こんな日々が、もう幾年と続いている。思春期にはやんちゃを重ねたケヴィンも十九を迎え成人として今は落ち着いてこの村で足の不自由な父親に代わり、羊追いの役を肩代わりして暮らす覚悟は出来ていた。心の奥底、僅かには田舎を出たい気持ちもあったが、こんな暮らしも悪くない。冒険やロマンの類は本で読むのが手軽でいい。そう言い聞かせていた。

 意識が夢を拾う頃、空気を裂くような喚声が一帯へと響き渡った。ケヴィンも驚いて上体を起こす。

 上空で大鷲が一羽、大きく羽根を広げて弧を描きながら喚声を轟かせている。明らかな警戒を呼びかける呼び声だ。高く、長く、つんざくようなその声に応えるよう、森から大鷲が一羽、二羽と飛び立つのが見える。

「……何か、嫌な予感がする。早めに切り上げた方がよさそうだな、この感じ」

 ふと見渡すと、羊の群れが消えていた。流石に、ケヴィンは慌てる。木彫りの犬笛をひと吹きすると、毛むくじゃらの白い中型犬が大急ぎで駆けつけた。

「リード、集めろ」

 名前を呼んで一帯を指差すと、一目散に犬は駆けて行く。来た道を戻りながら羊の姿を探すが、まるで見当たらない。まさか狼なんてそうそう出たものじゃないぞ、と最悪のケースを考えつつ先に羊舎へ戻ると、奥の一角へ身を寄せ合ってじっと息を潜めるような羊たちの姿がそこにはあった。背後で、リードが吠え立てる。

 ケヴィンは、犬の頭を優しく撫でた。

「ご苦労さん、先に帰ってたみたいだ。……そんなのは妙だってお前も言ってるんだろうけどな」

 ご褒美にと腰下げの皮袋から屑肉を干したものを与えて、家の中へと戻った。

 父親の書斎を訪ねると、慌しく本棚から書籍を積み上げてあれこれと頁を捲っている最中の父親に出会わす。ケヴィンは、ひと呼吸落ち着けてから声を掛けた。

「……親父。外の様子がおかしい」

「星読みが違えるはずがないと、誰も信じなかった。信じていたのは私だけだった。星読みが潰えて十年、予言通りならば今――」

 父親はまるで息子の言葉が聴こえていないようで、紙を撒き散らして半狂乱的に独白を続けている。息子、ケヴィンにとってはあまり珍しい光景でもなかった。王国錬金術師として十年前まで城で働いていた父親は、根っからの研究肌であり、それは現在に至るまで変わらないままだった。

 ただひとつ妙であるのは、錬金術を学んだはずの彼が傾倒する分野がいつしかより魔術寄りになっていることだ。その影響か、人は遠巻きに彼を「頭がキレるばかりに常人には理解出来ない域まで達してしまった奇人」と呼ぶ。

「聞こえてるのかよ、親父。……羊も鳥も脅えてる。オレにわかるように説明してくれよ。わかるんだろ?」

父親の進路に立ち塞がったケヴィンは、その手から書物を奪い取る。広げられた頁いっぱいに描かれているのは星の創世神話の挿絵。三匹の龍が星を長い尾に抱くようにして絡み合っていた。

 それは、ケヴィンが幼少の頃から寝物語に使用された古い書物である。

「脅えるさ、成す術のない奴らは。だがどうだ、人間はもっと愚かだぞ、何も気付きやしないで世を儚む間もなく、唐突な終わりを感じさえしないだろう」

 目をぎらぎらと光らせる父親の様子は珍しくないのだが、毎度毎度見ているのが憚られた。そっと目を逸らした散らかるテーブルの上、今度は長文の手紙が見える。末筆にアルテアの名が記されているのが目に入った。

「星読みのアルテアって確か、親父と同じで王宮つきだった魔女だろ、オレが九つの時に死んだんだっけ」

「アルテアは今日と言う日を予測していた。十年、いや正確には三千六百五十一日目だ。語り部としての巫子を失くした龍が人間の驕りを裁き、全てを初めから作り替える節目と」

 父親の言は酔狂な物語にしか聞こえなかったが、アルテアの手で書されたであろう手紙には、同じことが記されていた。星読みである自分の亡き後十年の時間が人間に残された試練の時であると。締め括りの文には、来る日まで祭壇の管理を任せたい、とあった。

 詳細は書かれていなかったが、記された祭壇が村と城下町を繋ぐ経路にそびえるウルヴァリ山脈の山頂にある崩れた遺跡のことであるのだけは察することが出来た。

 子どもの頃から父親に連れられた場所。そこに神が宿ることを教えられ、何気なく祈りの真似事をしたものだった。思春期を迎えた後は神なぞ馬鹿馬鹿しいと祈ることこそなかったが、足を悪くした父の代わりと週に一度は訪れて荒れることのないように目を配っていた。

「…………遺跡に行ってくる」

 胸騒ぎの正体が、そこにある予感がしていた。父親に背を向け、家を出ようとするケヴィンだったが、その背中に重い衝撃がぶつかる。

「――ンがぁッ!」

 ぼすり、というよりはごすり、という音。

 勢い余って蹴躓き、振り返るそこには一冊の書物と懐へ下げるサイズの皮袋が転がる。そして、松葉杖で移動する父親の姿が見えた。

「私は今日という日のためにお前を村に留め置いたんだ。持って行きなさい、アルテアの残した予言通りならば……、そう遠くない未来に次なる星読みが生まれる」

 ケヴィンは落ちた書物を拾い上げ、薄く被った埃を払った。先ほど広げられていた龍の伝承の書物だ。傍目には父親の言動はとち狂っているとしか言いようがない。子ども騙しな空想の絵本と、魔女裁判に掛けられた人間の予言を盲信しているのだから。

 書物を携え、皮袋を持ち上げる。袋はじゃらりと音を立て、それが硬貨であるのがわかった。

「……ともかく、遺跡を見てくるから。夕飯までには戻る、……と思う」

 父親は旅に出ろとでも言いたいのだろう、とケヴィンは解釈する。が、そんなつもりはさらさらなかった。足の悪い父親を残して遠くへは行けない。ましてや、おとぎ話のようにファニーな予言のためになんてことは、現実主義のケヴィンにとってはあり得ない。

 ひとまず斜め掛けの帆布バッグをコート掛けから下ろし、書物と皮袋を詰めた。

「行って来ます」

 本当の万が一の事態にだけ備え、刃渡り三十センチ程の小剣を鞘ごと腰ベルトへ固定した。農作業用に使用しているものだったが護身用にも充分活用出来る代物だ。

 ここまで用意周到にしてみせれば、とりあえずと文句は言われまい。大人しく、家で帰りを待っていてくれるだろう。そうしてケヴィンは家を出、丘を下って一路遺跡のあるウルヴァリ山脈の麓へと向かうのだった。

 時はクスハ失踪の時刻へ交わろうとしている。

 それが、本当の始まりだった。


   ***


 何もかもが奇妙だった。時刻は十三時を回った頃だったが、空には黒い雲が泳いで生暖かいばかりの風が強く吹きつけた。まるで、嵐が来る手前のようだった。

 ケヴィンはブーツの紐を固く結び直し、崖を登りはじめる。遺跡への道はいくつかルートがあるものの、まともに歩けば日が暮れてしまうので、随所にショートカットを挟んだ。慣れた道だ、すいすいと崖を登ったケヴィンは獣道を駆け上がり急いだ。

 奇妙なことはまだあった。あれだけ騒いでいた大鷲の声も、普段なら聴こえたろう鳥の囀りも聴こえない。静まり返った山中の森からは、刺さるような視線だけが感じられた。

「気味が悪いぜ……監視されてるみたいだ」

 ぼやくも、こんな山中に態々と足を運ぶのは村の人間ぐらいで、そこかしこから感じられる視線はそんなものとは違う。獣の気配だ、とケヴィンは思った。

 びりびりと肌に感じる威嚇のような気配の中を進むと、見慣れた石畳の敷かれた道に出る。遺跡の壁画が坂道の先にちらりと見えた。ようやく、とひと呼吸吐いて額の汗を拭い空を仰ぐその瞬間。とんでもない突風がケヴィンの背後から追い越すように吹き荒れた。

「――…………ッ!」

 ケヴィンは目を疑って大きく何度も瞬きをした。

 目と鼻の先に先ほどまでは居なかった、蹲る少女の姿が見える。幻でも見ているのだろうか、と駆け寄って手を伸ばしその華奢な肩に触れれば伝わるのはしっかりとした感触。

 少女の灰茶色の髪は、ふわりと風に揺らめいていた。一見して村の人間でないことだけは確かだった。膝を抱えるようにして蹲っていた彼女は、ゆらりと立ち上がりまるで死霊のように生気を感じさせない足取りで壁画の前まで歩きはじめる。声を掛けようと唇を開いたものの、その横顔さえも色を失くしている様子に何か尋常ではないものを感じてケヴィンは圧倒される。

 壁画は山肌を削った場所へ態々と巨大な岩板を嵌め込んだ上に描かれている。読み解けない文字が並び、蜥蜴に羽根の生えた生き物のようなものが描かれているのだが、少女はその前に立つとすく、と膝を折って祈るように手を組み合わせた。風が少女の周りで渦を巻くように舞い、木の葉や花弁を散らし始める。一緒に砂塵まで巻き上げられ、ケヴィンは両腕で視界を覆った。

「地を……這い……空駆ける龍の……」

 少女の声か、小さく唱えるような囁きが風に攫われる。

その声に応えるよう、まるで稲光でも落ちたかの如く光の爆発が起きた。

 雷鳴のような轟きはない。腕の隙間から様子を窺おうとしたケヴィンの目はちかちかと眩んだ。

 スローモーションのように少女が身を反らせて倒れる。あッ、と声を上げるより先にケヴィンは両腕を差し出していた。腕に抱き留めた少女は気を失っているらしく、ぐったりとしていて華奢であるのに重い。

「何、だったんだ今のは。……町の子、かな……村じゃないのは確かだ。送って行ってやった方がいいんだろうなァ、やっぱり」

 独りごちるケヴィンを前に少女が目覚める気配はない。白磁の肌やその華奢振りからして、陽を浴びた健やかな暮らしからは縁が遠いことをわからせた。纏ったシュミーズドレスは膝下の長さで、編み上げリボンシューズが覗いている。村の女連中に比べれば質の良い素材が使われていた。着衣の他にめぼしい持ち物はなかったが、左腕に嵌めているというには大きさの余る、金の装飾に深い森の色を映した透輝石が嵌った腕輪がいやに目に付いた。

 ケヴィンは祭壇を一瞥したが、そこにはどんな変化も見られない。先程の光は祭壇が、というよりは少女自身が放ったものに見えていた。不可思議に首を捻っても、目の前の少女にも周辺にももう何一つとしておかしなところはなかった。

「いいとこのお嬢さん、とかかねえ……妙なことに巻き込まれるのはごめんだが」

 かと言って、放る方が更なる災厄を呼び込むかも知れないとも思えた。このまま目が覚めるまで待つのも手だったが、日の暮れまでには村に戻りたい。ケヴィンは、少女を背に負ぶるといち早く城下町へと届けることにした。

 町へはおよそ一時半ほどで着く予定だ。その頃には目も覚まして何故こんな山中の祭壇に居たのか、どのようにして自分の前に現れたのか、あの光が何であったのか、全てを聞くことが出来るだろう、そう考えていた。

 下山後フロラと町を結ぶタル平原で通り掛かった荷馬車を運良く拾い、ホッとしたところで荷馬車を駆る中年が驚きと安堵混じりの声を零す。

「フロラから城下町までいつもならとっくに着いている時間なんだがね、馬が言うことを聞かないものだから随分遠回りをしちまったよ。……そこへあんた方を拾った訳だがなんだい、急に馬が大人しくなった気がするよ」

「……そういや、行きはあんなに感じた嫌な気配がまるで感じられなかった、ような……。昼ぐらいから、うちの家畜も何かに脅えているようだったんだ」

 後ろ向きにフロラへの道を見やりながらケヴィンも首を傾いだ。すっかりと意識の外にあったが、無視出来るほどあの野生の眼差しは甘くはなかったはずだ。振り返る先、荷台を引く馬の様子はごく穏やかに見える。

「何かの前触れでなければいいがね」

 中年が右手に拳を作って胸元へ当て祈るのを横目に、ケヴィンはそこまで事態を重く捉えてはいなかった。

 何、親父の言うアルテアの予言なんてのがただの与太話だっただけのこと。

 そう考える方がケヴィンには、ずっとしっくり来たからである。


***


 城下町で降ろしてもらったケヴィンは、再び少女を負ぶって町の門を潜る。城下町とはいえ、王宮の門前以外の警備はないようなものだった。

「さてとォ、……貴族街でも当たりたいとこだけど」

 荷馬車のおかげで一時ほどで着いたとはいえ、未だ目覚める気配のない少女のことがケヴィンも気になりつつあった。ちょっとばかり、彼女を背負うことに疲れていたのもある。ひとまずは宿にでも寝かせて、目覚めるのを待って別れるのが最善じゃないか、と考えていた。

 町を訪れるのは一年振りと久々だったが、初めてではない。何度か利用したことのある手頃価格の宿を訪れ、さっそく部屋の手配をする。他国からの貿易商や、地元からの商いの人間が多く宿泊する場所だった。

 が、ケヴィンが宿泊台帳へサインをしようとペンを下ろす紙面は白紙と言っていい状態。閑古鳥が鳴いているようだ。

「……なんだい、これ。やけに入りが少ないじゃないか」

「国境を封鎖しちまってからどれだけ経つと思ってるんだ。半年だよ、それからずっとだぜ。まったく、こっちはそれで食ってんだから堪ったもんじゃないよ」

 だから、と前置いて宿屋の主人は料金の上乗せを渋い顔で告げる。その額、従来の一・五倍。ケヴィンは顔を蒼くした。

「じょ…冗談だろォ……」

「負からんよ」

 きっぱりと返され、仕方なしに代金を前払いする。父親の持たせてくれた金がまさかここで役に立つとは。

 やれやれと息を吐いて、ケヴィンは次に主人へ尋ねる。

「国境閉鎖も気になるけどさ、その前に……あの娘、見たことないか?ウルヴァリで倒れてたのを連れてきたんだけど」

 親指で、後方来客用ソファへ寝かせた少女を指すと主人は丸眼鏡を掛け直してジッと彼女を観察してみせたが、すぐさま首を横へ振った。

「知らんね、なかなかいい身分のようにも見えるが。最近は物騒なもんでさ、貴族の間でも重税を厭って亡命だのお抱えのメイド売り払ったりだの耳にするから……何処ぞから逃げた娘かも知れんな」

 ケヴィンは気のない返事で返した。

「……それにしてもフロラってのはやっぱりど田舎らしいな、国境閉鎖も知らんとは。まあ、こんな情勢じゃあ知らぬ方が神の慈悲ってもんかも知れんが」

「うるさいな、そんだけ平和ってことだろ」

 田舎者扱いを受けて眉を寄せるケヴィンに主人は悪気のない笑いと共に部屋鍵を渡す。ケヴィンはふん、と鼻で一蹴すると部屋鍵を先に開けてから戻り、少女を姫抱きに抱えて寝台の上へと横たえるのだった。

 掌で額の熱を測る。……熱くはない。細い手首を取って脈を測る。……規則正しい脈拍。素人目ではあるが問題は、ない。

 外傷の有無を確かめたかったが、そこまでは出来なかった。思春期の異性の身体に触れることそのものが後ろめたかった。

好いた惚れたも経験済みではあったケヴィンだが、少女に限っては予想も付かない。何かの拍子に彼女を傷付けるような誤解を生んではいけないと思ったのだった。

 水差しへ水を汲んで、枕元の出窓へと置く。

 そうしてようやく自分の荷を下ろし、一人掛けのソファへ身を沈めることが出来た。どっと疲れが押し寄せるのがわかる。少しぐらいは休んでもいいだろう、そう思って目を閉じた。うっかりと、そのまま眠り込んでしまった。

 自分のいびきで目を覚ましたケヴィンが次に目を開いた時、寝台の上はもぬけの殻になっていた。出窓から覗いた空は仄紅く、太陽が地平線へ沈む時刻を報せていた。

「あちゃあ……でも、ま、いいか。家に帰ったんだ、家に」

 自分の足で帰ってもらう方がきっとずっと安全だろう、この町まで来れば。もう少し、彼女のことが知りたかった気もしたが、ケヴィンはすんなりと現実を受け入れることにした。短時間ながら一睡したことで多少体力が持ち直したところで、市場を巡ってから村に帰ろう。そう考えた。

 ロビーへ出るなり、宿屋の主人の視線がさっと向き、ケヴィンはその表情の険しさに面食らう。

「おい兄ちゃん、外で配ってる号外もらって来い」

「……号外?」

 主人が顎で外を指し、ケヴィンはのろのろと表へ出た。

 大声で号外の声を掛けて紙を配っているのは、何とクレメイユの兵士だった。ばら撒くようなその最中、風に吹かれて足元へ運ばれて来た一枚を拾い上げる。

 読み上げる間もなく、飛び込んで来たのは思い違いでなければ――先ほどまで一緒に居たはずの少女に似た、似顔絵。

「指名、手配、…………アルテアの娘、クスハ」

 掛かる報奨金は、五年余りは難なく暮らせそうな額だ。ケヴィンはゾッと背を震わせ、宿へ戻る。

「兄ちゃんが連れてた嬢ちゃん……、一時前にふらっと出て行ったんだがよ、まさか……なあ、まさかだよな?」

「オレは知らないよ、アルテアの娘なんて……まさか、あの娘がそうだなんて思えない」

 口振りとは逆に、ケヴィンは嫌な予感しかしなかった。はいそうです、と口にする理由がなかった。アルテアの娘、その言葉を知ってしまった以上は。

「なあ、アルテアに娘なんて……居たのか?」

 手配書を見下ろしながら、ぽつりと問う。

「知らないね、噂にも聞いたことがないよ。だもんで、こいつは大体の人間にゃ二度びっくりする代物だ。騎士団の連中が血眼になって号外まで配ってるってことは……このアルテアの娘、捕まったら生きて帰れんかも知れんな」

「…………」

 主人は意外にも、報奨金には興味がないように見えた。ゴシップのひとつのように号外の紙を丸めてくずかごへ捨てると、紙巻の煙草を吹かして台帳を捲っている。

「言っとくが、誰も彼もがこうじゃないぜ。報奨金目当てに走る奴はいくらでも居る、気に掛かってるんなら早いところ嬢ちゃん捜してやんな。……ウチじゃ匿えんがね」

 主人の言い分に、ケヴィンは急いで部屋に戻り、身支度を整える。確かに、ただの他人ではある。が、顔見知りで、名前を知り、父親が親しかったアルテアの娘であることがわかった以上は他人の振りは出来ない。巻き込まれるのはごめんだとは思っていたが、それ以上に身知らぬ素振りなど出来そうにもなかった。あの、華奢な少女を前には。

 宿を大急ぎで飛び出したケヴィンは、街中を駆け回って少女の姿を探しながら人々の声に聞き耳を立てた。

 人々はみな号外を手に、ひそひそと声を立てている。クレメイユ騎士団が国中へ向けて捜索隊を派遣している噂、マルセル宰相がアルテア生前からずっと彼女を疎んでいた噂。明朝第二騎士団が町を発ち隣国・リュシヲン公国に向かう噂。どれもあまり役に立つ情報ではなさそうだった。

 歯痒い気持ちでケヴィンが思い切って町の入り口まで出ると、夜闇が近付く中白いドレスを揺らして走る少女の姿が目に入った。まだ、誰も気づいてはいないようだった。怪しまれないよう、ゆっくりとした歩調で町をさり気なく出たケヴィンは遅れて駆け出し、もう姿の見えなくなった少女・クスハを追った。行き先には、森が行く手を阻む。国境の手前に広がるその森は通称「影踏みの森」と呼ばれ、昼間でも鬱蒼としていると文献で目にしたことがあった。森へ入ってしまえば、恐らく人目を逃れることは容易だろう。ただし、それはケヴィンが彼女を見つけることが困難になることも意味していた。

 アシュレイ率いる小隊がクスハが影踏みの森へ入ったことを知る由は、この時点ではない。運命には奇妙な捩れが生じていた。

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