星読みの巫女

紺野しぐれ

序章

カナリヤは鳴かない

 今宵は満月。

 クスハは、窓際へ円卓を移して手元の小さな蝋燭の灯りを点してしばし、月見を楽しんでいた。

 石造りの塔は城の離れにあり、人の出入りはないに等しい。にも拘らず、入り口の鉄扉は固く閉じられた上に門番が付く有様だった。

 そんな場所で暮らして十年。名ばかりの王位継承権も彼女の名前も存在も、民衆は知らない。

 クスハ・エンデ・クレメイユ。王位継承権第三位にして王族唯一の王女ながら、彼女は王と町人の間の妾腹の子であることを理由に存在ごと秘匿された、童話のプリンセス。

 よく似た物語を彼女は知っていた。もっとも、クスハには迎えに来る王子は居ないのだけれど。

 狭く、高いばかりの塔の中での暮らしは、彼女を本の虫にした。螺旋階段の壁には、後付けの本棚がずらりと並ぶ。幼少の頃、母と呼んで慕った育ての乳母との城下での暮らし以来、いわゆる普通の暮らしからは遠く離れている。

 母親とはほとんど面識がなかったが、母が好んだという星の書籍をはじめ、植物や生き物、そして架空の物語を寂しさを埋めるようにして読み漁った。

 そして、この満月の夜に、クスハは十四の歳を迎える。

「星読みのアルテア。……わたしを産んだひと」

 飾り棚の上に置いた肖像画はいつか、流浪の旅芸人が誂えてくれた唯一の母の姿を留めたものだった。灰掛かりの肉桂色の髪は腰まであり、胸の辺りで束ね、紺地の地味なドレスに身を包んでいる。その翠の瞳も、髪色も、クスハと同じで人に言わせれば瓜二つだと聞いた。絵の中で憂うように微笑むその姿は、星を読み政を助言したというその生業に似つかわしく、どこか、自分の運命を知り尽くしその上で受け入れたようにも映った。

 長い睫毛を伏せ、クスハは溜息を吐く。

 考えてもどうしようもない。思い出は、気持ちを沈ませる。昨日よりも、明日のことを考えるほうがまだいくらか建設的な気がした。

 心地好い風が、窓から窓へと吹き流れてクスハの長くも短くもない髪と、シフォンの生成りのドレスをまるで悪戯でもするかのように揺らして行った。

 鳥も囀るのを止める夜半、静寂を裂いて石畳を叩く足音が聴こえて来る。赤樫の厚い戸を見遣れば、外から錠前を解く音が続き、扉の隙間からひとりの青年が銀の盆を手に現れた。

「こんな遅くにどうしたの、アシュレイ」

「今日が何の日だか忘れたとでも、姫?」

 アシュレイはクレメイユの若き騎士団員であり、またクスハの数少ない友人である。とは言うものの、彼はクスハより軽く五つは年長者であるため、兄妹のように映る。塔の番に就いて四年、塔から出る時は必ずと護衛と言う名の監視を務める義務を負っていたが、極稀にこうして私的に彼女の元を訪れては話し相手になっていた。

 姫、という言葉が飛び出した瞬間、クスハは心の底から嫌悪感を見せるように眉を顰めた。

「やめて頂戴。……冗談が過ぎる」

 拗ねるように視線を逸らし、頬杖を突いてみせるクスハにアシュレイは笑って「すまない」と零す。

 銀の盆が円卓へ置かれ、間もなくふうわりと甘く柔らかな花の香りが部屋に満ちた。

「今年も今日という日に、おめでとう、クスハ」

 白磁のカップソーサーへ注いだ橙の花茶を彼女の目の前へ置いて、アシュレイは笑い掛ける。

「祝いに来るのはアシュレイだけよ」

「だからなんだろうさ」

「なあに、どういうこと」

「そういうこと」

 人の情感に疎いクスハには、アシュレイの言い回しが呪文のようにしか聞こえない。人と触れ合う機会のない環境が彼女を鈍にさせる。それは、いくら書物を読んでも埋まらない部分だった。

 首を傾げるクスハをよそにアシュレイはカップを掲げ、先に茶を嗜み始めたので、クスハも聞き出すのは諦めてカップへ両手を添えて茶を飲んだ。

 毎年、この日にだけ淹れる特別なお茶だった。金木犀の花を乾燥させて炒り、そこへ橙の果皮と合わせたもので、アシュレイ曰く城下で見つけた物を取り寄せているらしい。

「……いい顔されないでしょう、わたしに会いに来ているだなんて知れたら」

「なに、そこはそれ、ばれないようにしているのさ。今日は見張り役を夜勤と交代して来た」

「鎧を脱いで、見張りの番を?」

 思わずクスハは笑いを堪えられずに口許を押さえながらも声を出して笑った。

 日中、務めの間は甲冑を着込み、仰々しさの中に清廉さを備えた佇まいの一騎士団員である彼も、今は鎧うものなく一介の町人に見える。

 それは、王家の血を引きながらにして纏う物こそ相応でありながらそう世に告げることの出来ないクスハとは対照的だったかも知れない。

 誰も彼もが姫、と称して恐れながらも外の世界では存在すら知られていない。ふとそんなことが過れば、クスハの顔からは笑みが消える。

「わたしはこのまま、こうしてこの小さな世界でしか生きられないのかしら。この塔で、誰に会うこともなく。窓から見える世界に、憧れを抱きながら見ていることしか出来ないのかしら」

 助けを求めるように、クスハはアシュレイの瞳を見つめる。

 真っ直ぐな視線に、真っ直ぐな視線が交わされる。アシュレイは避けようとはしない。

「俺はね、クスハ。君のことを思えばこそ、みんな君をここから出したくないのだと思う。君のお母さまのように、狂信的な支持を持たれないためにも」

 それは、幼かったクスハにはぼんやりとした形でしか記憶に残っていない出来事だった。

 一介の町人の娘が、「あの娘の占いは当たる」から「あの女は預言者だ」と評され、王宮へ招かれて王の寵愛を受け政を指示するにまで成り上がったとされる噂。

 狂信的とされる理由は知れずとも、クスハがようやく物心ついた頃に彼女は失脚し、王を誑かし傀儡にせんとしたとして処刑された。

 ここまでが、クスハが耳にした話だった。その真偽も、その理由も彼女は知る由もない。城下で慎ましく乳母と暮らしていたのを突如と城の離れ、塔へ幽閉されたあの日のこともわずかにおぼろげな記憶と化していた。

「特に王の右腕、マルセル様は心底君を恐れているようだ。なんでも、君には秘めたる力があるとか。……姫だけにか」

 今度はアシュレイが、アッハッハ、と笑ったが、クスハにはあまり笑えた話ではなかった。

「過大評価よ、わたしにはアルテアのように先見の明も千里眼も持ちやしないのに。こんな、生まれてこの方塔の中で生きて来た女に、何が出来るというの」

 クスハの語尾が震え、その翠の瞳からはらはらと粒が零れる。

「……マルセル様に嘆願を出しておくよ。君が、もう少し外に出られるように。自由にとはいかなくても、目の届く範囲でなら今よりはよくなるかも知れない」

 アシュレイの指が、クスハの濡れた頬をなぞって拭う。そんな接触には慣れておらず、思わずクスハが身を硬直させてしまうのを、目を細めて彼は微笑った。

 窓辺からは少し冷たい風が吹き込んでレース織のカーテンを揺らした。

 ふと、時刻を確かめるのに月の位置を仰ぎ、アシュレイは席を立ち上がる。

「さて、あまり長居をすると本当に大目玉を喰らいかねん。安心して眠るといい、門は俺が見ているから」

「朝方居眠りしてるとこ、見つからないよう祈ってるわ」

 おやすみ、と見送る背中が一度扉の前で振り返った。アシュレイの手からポン、と何かが放物線を描いて投げられる。

 とっさの出来事に慌てたクスハの膝元に小奇麗に包装された小箱を、どうにか掬い上げて彼女が扉を見遣ると、既にアシュレイは姿を消していた。来た時のように、螺旋階段を降りる足音が少しずつ、今度は遠ざかって行った。

 小箱の中身は、指輪だった。黄金色の四枚の花びらに同素材の細い縁周り。クスハは特に悩まずに右の薬指、左の薬指と嵌めてみたものの、いずれも少々サイズが大きかった。その後、すべての指を試した後、指輪は右手の中指へと落ち着くのだった。

 翌朝目覚めたクスハは、ようやく思い出す。男から女への指輪の贈与は、婚礼の約束を意味したはずだ、と。

 しかしその表情には喜びには程遠い悲哀だけが浮かぶ。

「……わたしがわたしである限り、物語のような幸福は望めないというのに」

 零す声を拾う人間は居ない。塔の中にはクスハだけだった。これまでも、これからも。

 そっと、クスハは指で金色の花を撫でた。


 ◇◆◇

 

「ご苦労だった。どうかね、星読みの娘の様子は」

「……はい、問題ありません。力の何たるかに興味を示すこともなく、悲観こそしているようですが、かつてのアルテアような思想は初めより持ち合わせていないものと」

 兵舎より呼び出しを受けたアシュレイは夜半の王宮へと馳せ参じ、王の右腕・マルセル宰相の足元へ跪く。

 面を上げず事後報告をするアシュレイの声に、マルセルはふむりと呼気を零して顎ひげを弄ぶ。

「貴君は由緒正しい騎士家系の出だったな。どうかね、近く私が創設する修道騎士団の団長を担う気はないか」

「は………、修道騎士団、ですか?」

 思いも掛けない言葉にアシュレイが顔を上げると、マルセルは冷えた眼差しに口許だけを歪ませていた。

 この国に、宗教は真新しい馴染みの薄い存在であった。だが、修道騎士団と呼ぶからには宗教の存在が不可欠である。訝しさが面に出ないようにと口許を引き結びながら、アシュレイはこの宰相の思考がまるで理解出来ずにいた。

「そうだ。民衆をまとめるにはやはり宗教というものは非常に役に立つ。貴君も幼き頃に一度は聞いたことがあるだろう、星を統べる龍の寓話を。あれを元に我が国の士気を高め、秩序を正し、そうして――」

 マルセルの言葉は続かなかった。咳払いをひとつ。冷ややかな瞳に宿ったかに見えた野心だが、瞬きと共に元の凍る瞳へと戻っている。

「……ときに、星読みの娘には充分に気をつけよ。あの女は人心を操るのが何より上手かった。引き離して育てたとはいえ血は争えん。あまり深入りせん方が身のためぞ」

 まるで知っているとばかりの眼差しと声に、アシュレイはぶるりと背を震わせずには居られない。

「――………はい。ですが恐れながらマルセル様、人の心の貧しさは、虚しさは、あの娘を蝕んで行くのではないのでしょうか」

 いつか虚しさに苛まれ、自ら命を絶ってしまうのではないのか。アシュレイが日頃クスハを気に掛ける一番の理由だった。孤独は人を蝕む。それをどうにか保てているのは、己によるところが大きいと考えていた。

「構うことはない。いずれにせよ、死んでいるのと変わらん処遇だ。父王の手前ああしているだけのこと」

「…………」

「やはり門番の任を解いたほうが良いか。少々、毒されておるのではないかね」

 アシュレイはもう面を上げられそうになかった。目を伏せて、深く呼吸を繰り返した。

「まあいい、どのみち修道騎士団創設の折にはその任を離れてもらうことになる。残りしばらくの時間を楽しむが良い」

 下がれ、と声を貰い、立ち上がったアシュレイの足取りは重く、顔色は優れなかった。悟られまいとしても、きっと既に見抜かれているだろう。

 かくなる上は――。

 兵舎のベッドで夜通し、アシュレイは思考を巡らせた。 


 ◇◆◇


 早朝、鳥の囀る声で目を覚ますクスハは、侍女が運んだ朝食から、硬いパンをすりこぎで挽いて窓際へ器ごと置くのを朝の日課にしている。

 その日も、いつものように器を手に窓際へ立つと、城の方でにわかに歓声が沸き立つのが聴こえた。

 塔の位置からは城の裏手にある兵舎がよく見える。今朝は大勢の兵が並び、規律正しく剣を掲げたり行進したり姿が見えた。パレードの練習のようだった。先頭と最後尾に騎馬に乗った兵士が三騎ずつ並んで国の紋章の入った御旗を高く掲げていた。

 何か、祭事が行われるのだろうか。そんな、民衆の誰もが知り得るようなことでさえ、クスハの耳には届かない。

「どうして、ふつうに暮らせないのかしら……」

 何も贅沢を望んではいないのに。クスハは胸元で手をぎゅっと握り締める。

 しかし一方で、生かされ続け、衣食住を与えられているのは父でもある王が己を案じるからこそなのだとも言い聞かせる。事実、飢えることはなく、暇を費やすための道具はひと通り手にすることが出来ていた。

 唯ひとつ、人との関わりを除いては贅沢といえるのではないか。そんな自問自答をしては、最後に自分の甘えと一喝して心の隅へと追い遣るのだった。

 窓辺から入り込んだ風が、不意に円卓の上の書物の頁を捲った。クスハが目をやると見越したように風は止む。

「――昔々、三匹の龍が枯れた星を駆け、大地と海を作り、人と文明を築きました。人が龍に祈れば、龍は真摯に応え、そうして幾千と文明を重ねてきたのです」

 伝承や口承を纏めた書物の一節だった。それは既に人の間では幼子に語るようなものでしかないが、誰でも一度は耳にした創世神話だった。しかし今やその存在はおろか、文明繁栄への功績すらも信じられていない。人の奢りを避けるために作られた伝説、とされていた。

「もしも、龍が居るとしたら。わたしのように、嘆いているのかしら。知られないことを。語られないことを……」

 重い書物を閉じて、窓辺へ身を乗り出した。

 風が、とても心地好かった。

 裏山の頂上付近で何かが鈍く光るのが見える。きらり、きらりとそれはクスハを呼ぶように二度明滅を繰り返した。

「………あれはなあに」

 よく見ようと目を凝らして更に身を乗り出そうとした左手が空を掴む。

 あッ――と声を上げる間もなく身体は宙を滑って窓から落ちる。

 午後を過ぎた十三時、塔の中はいつもの静けさで誰もその異変には気づかなかった。

 夕食を運びにやって来た侍女が悲鳴を上げ、姫の消息を巡って騎士団は国中を捜索に借り出される始末となった。

 そして、アシュレイは独り、脱走を援助した嫌疑をかけられて牢へと囚われる。

「あの高さから落ちて死体がないのは、生きて居る証ではないのかね、アシュレイ・ハーン。貴君には疑わしい部分があまりに多い。嫌疑を晴らしたいのなら、どうすればいいかわかるかね?」

 冷たい牢越しに語り掛けるマルセルを前に、アシュレイは苦虫を潰したように眉間へ皺を刻みながら俯いていた。

 連れ出せるのならばとっくにしていた、いや、するべきだった。こんなことになるのなら。そんな遅い後悔をしつつ、未だ知れないクスハの消息を案じもした。

 逡巡の後、大きく息を吐き出しアシュレイは面を上げる。

「私が捕らえ、クスハ・エンデ・クレメイユを御前に捧げましょう」

「騎士の誇りを賭けてかね」

「……この身に代えましても」

 跪いたアシュレイにはマルセルの口元がにい、と歪むのだけが見えた。嫌な予感がする。

「生死は問わん、必ず捕らえて参れ。貴君の手で処刑させるも一興だが、まずはその姿を確認せねばな」

 ぞくりとアシュレイの全身を悪寒が走った。恐ろしさに応答も出来ず頭を垂れたが、それは承諾と同じだった。

 クスハが行方を晦ませて一夜が明け、アシュレイは牢から解かれた。 

 城下を巡ると早くも街中では宮中の者に描かせたかクスハの手配書が貼られ「星読みのアルテアの隠し子が反逆の罪に問われている」とまことしやかな噂が広まっていた。

 アシュレイは重い気持ちを引き摺りながら目撃情報を探り歩き、騎士団が国境いの森へ捜索網を張ったと聞いてならば反対側をと所属一部隊、三十余名を引き連れ塔の裏、ウルヴァリ山脈付近を捜索に向かわせ、その報告を待った。

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