泥濘のチコ

松風 陽氷

泥濘のチコ

 寒気のベールが優しく僕を殺そうとした。

 薄ら目を開けると眼前には見慣れた灰色の高反発素材。足癖の悪さ故、ハーフパンツから顕になった冷たい生脚。どうやら僕はリビングのソファで眠ってしまったらしい、という事実に気付いたような気付いていないような。まぁ、とにかく酷くぼんやりとしていてハッキリしないという事は明らかだった。上体を起こすと右腕と首が酷く痛んだ、首はきっと寝違えたのだろう拭い切れない違和感だ。皮膚はどこもかしこも冷え切っていて、何時間この冷気に晒されていたのだろうと考えると腹痛を起こしそうになった。時計の針は右斜め上向きの「く」の字を作り出していて、頭上の照明は勿論消えていて、だから、僕は、誰も居ない一人の空間だと、実に勝手に早合点した。それはもしかすると無意識のうちにそうであって欲しいと願っていたからなのかもしれない。あの人が僕の寝ている側に居ないで欲しい、と。しかし、リビングの暗い静けさの中、一台のスマートフォンが大きな掌に包まれてぽっかりと浮かんだ様に光を放っていた。その光源をもつ人型は猫背で気怠そうに画面を指で撫でていた。人の存在を確認した途端、僕は動けずに固まってしまった。空気の吸い方や吐き方を忘れてしまった様だった。右手は勿論の事、痺れていなかったはずの左手でさえガタガタと勝手に振え、両の脚は寝ている間に鉛か石にでも変えられたのかと思う程重たく、どれもこれも、僕の身体は全く使い物になってはくれなかった。この冷たい感覚の名前を僕は知っている。今迄散々味わってきた、僕が生きる世界の空気。

 僕の生は主に恐怖の感覚が支配している。毎日毎日、何かに怯え、逃げ惑いながら、尚も未だ、勝手に脈打っているこの心臓を放置している。僕は知らないわけじゃないんだ。本当は知っている。この脈の動きを意図的にでも力尽くでもなんでも止めて仕舞えば、恐怖という名の独り舞台に幕を降ろすことができるという事を。そして、僕は実は、幼い頃から切にそれを望んでいたりする。終演を望み続けている。しかし、それを悪だとして許さないのが世間様らしい。全く何も知らない癖に。

 恐怖のその対象はソファとテレビの間に居たのだが、こちらが上体を起こした事に全く気が付いていない様だった。彼は耳が悪いのだ。そしてそれがまた尚のこと僕の恐怖心を増幅させた。知らん顔。あの日と同じで重なる様なその態度が、僕に耐え難いほどの不安感と猜疑心を与えた。鼓膜が心臓と同期しているみたいだった。とても、寒い、とても、痛い。

 僕は今晩何もされていないのだろうか。僕の身体は無事だろうか。どこをどういう風に触られたのだろうか。どういう風に悪戯されたのか。僕はどこまでさせられたのだろうか。この身体は今晩一体何処まで穢されてしまったのだろうか。

 眠ってしまった自分自身を酷く憎んで嫌悪した。ああ、気持ち悪い。とてつもない恐怖である。

 僕にも幼少期というのはある。その頃の僕はゲーム好きの父と一緒にゲームをする事が大好きで堪らなかった。普段、寡黙で仏頂面でよく怒鳴り、鉄拳制裁と言って事あるごとに拳骨や蹴りが日常的に飛んでくる様な父であったが、唯一、一緒にゲームをする時は僕に笑いかけてくれた。父はいつも正しかった。卑怯な事をしたらハッキリとそれを叱ってくれた。人の陰口を言わなかった。弱音を吐かなかった。その背を見て格好良いと憧れていた。僕も父のような立派な人になりたいと思っていた。母は、ゲームの何処が面白いのか分からないという人だったのでそんな僕らをあからさまに軽蔑していた。別にそれでも良かった。軽蔑されても、それでも、そんな事がどうでもいいと、目に入らなくなる程に、僕らはゲームが好きであった。いや、若しかするとゲームが好きだったのではないのかもしれない。一緒に楽しく笑ってゲームをしてくれる父が好きだったのかもしれない。


 それは八歳の冬休みの事だった。連休という事もあり、その日もまた僕らは夜遅くまでゲームをしていた。マリオギャラクシーというWiiのゲームである。夜中の二時を回った辺りで僕は堪えきれずそのまま眠ってしまった。だって普段は九時か遅くても十時には寝ている子供だもの。気が付いた時僕は父と母の寝室である和室で父の布団に寝かされていた。隣では母がこちらに顔を向け、古木のように深く温かく眠っていた。父は横を向いて眠る僕を背中から抱き締めていた。動かない様に、閉じ込めて我が物にするかの様に。でも、父は眠っていなかった。起きていたのである。それを教えてくれたのは、父の大きくゴツゴツとした逞しい掌であった。その手は僕の寝巻きの下をふらりと潜り、ゆらゆらと柔肌を曲線的に滑っていった。何をされているのか、八歳の子に理解なんて出来るわけがない。優しい愛撫、それなのに、ただ野生の勘の様に実に哀しいほど本能的に直感的に「親が我が子を慈しむ仕草ではない」そう思った。何故だろう?

 気持ち悪い、気持ち悪い、分からない、気持ち悪い、嫌だ、気持ち悪い分からない、嫌だ、気持ち悪い嫌だ、なんで、嫌だ気持ち悪い、嫌だ気持ち悪い、気持ち悪いどうして気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い

 両の胸に存在する僕にとって無価値な筈の飾りを愉しそうに弄ぶその右手が随分と分厚くて大きくて熱を帯びているから、肺が押し潰されたかと思った。爪を使ってカシカシと引っ掻いたり、指の腹で押し潰したり、二本の指で挟んだり、掌で包み込んだり。じっとりと湿った父の手は僕の柔肌に、めっとりと、厚かましく、感覚を刻み込んだ。それでもやっぱり、僕には理解出来なかった。


 母は以前、僕にこう言った。


 「お父さんはね、愛情表現が苦手なのよ。だから、お父さんがあなたを叩いたり蹴ったり殴ったりすることは別にあなたが嫌いだからしているんじゃないのよ?あなたが好きで、可愛いからしているのよ。そういう人なの」

 成る程、だからこれは虐待じゃないと、そういうことか。愛があって、笑ってさえいれば、床に蹲る幼子を足蹴にしてもいいのか。圧倒的暴力が許されてしまうのか。愛ってなんだろう。でもやっぱり、痛いのはあんまり好きじゃないなぁ。


 愛ってなんだろう。

 此の謎の接触も父の苦手な愛情表現の一環なのだろうか。これも又、殴る蹴るの痛みと同じ、愛なのだろうか。分からない。それにしたって、この気色の悪さは尋常じゃない。生まれて初めてこんなに理解不能な感覚を覚えた。何故だろう。別に痛いとかいうわけではない。寧ろ、ゆっくりそうっと優しく触れられている。愛でるとかいう触れ方に近しい。なのに、なんでこんなにも吐き気と目眩がするんだ。分からない。そうこうしているうちに、父の左手がするると下りていった。ギョッとした。これは駄目だと思った。流石の僕でも、それは駄目だと、違うと、分かった。こんな事、分かりたくなかった。

 嫌だ、嫌だ、嫌だ、いやだ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、イヤだ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、やだ、嫌だ、嫌だ、イヤだ嫌だいやだ嫌だ嫌だ嫌だヤダ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だヤダ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だイヤだ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ

 駄目だ、それ以上は、駄目な気がする、愛されている? 分からない、違う、僕は、僕の父さんは、違う? 違う! 駄目? 駄目! なんで? 分かんない!

 父の右手が不意に僕の小さな片手を包み込んだ。熱い。父はその小さな掌に自分のモノを当てがった。熱い。僕の身体はもう僕のいうことを聞いてはくれない様だった。されるがままだった。文字通りの無力だった。反抗の意思なんて沸かせられる訳がない。何をされているのかさえ分からないのだから。でも、左耳に掛る吐息は湿っぽくて、もう流石にうんざりした。

 何も信じたくなかった。何も知りたくなかった。何も理解したくなかった。

 ふと、母の寝息が聞こえた。「助けて」と叫びたい衝動に駆られた。助けてと、救いを求めてしまいたくなった。

 そして、僕は、その小さな口を堅く閉じた。

 今、僕が母に助けを求めたらどうなる。

 母は昔から小さな音でも敏感に起きる人だから、きっと一言叫ぶだけでこちらに気付いてくれるだろう。しかし、その後はどうなる。助けてくれるだろうか。この不可解な布団の中から僕を救い出してくれるのだろうか。僕を父から守ってくれるだろうか。若しかしたら、自分の息子に手を出すなんて信じられない! と言って、離婚してしまうかもしれない。でもそうしたら僕らは生活が出来ない。母は専業主婦だ、父に生かされているのだ。何にせよ、母を困らせてしまう。母は感情的な人なのだ。ヒステリーでも起こすかもしれない。この状況を見て狂乱する母が、悲しいことに安易に想像出来てしまった。自分のせいで狂い啼き叫ぶ母なんて見たくない。自分のせいで母の人生を壊してしまいたくはない。自分、たった一人のせいで。また、とても寂しく、考えたくもない程残酷で最も現実的な可能性。若しかしたら、気付かないふりをされるかもしれない。普段、父から蹴られている時の僕にしているみたいに。

 そうしたら……どうなる?

 母の見て見ぬふりをいいことに、父は僕を殴るだろうか。それこそ愛情なんかほっぽって殺意を剥き出しにして「お前ええ加減にせえよ」と、僕の心臓が黙るまで蹴られるかもしれない。御免なさい、なんて言っても聞こえない程に怒鳴り散らかされるかもしれない。

 殺される。

 愛して貰えなくなる。

 僕にはまだ、愛されることが必要なんだ。二人から愛されていたいんだ。例えそれがどんな形でも。痛くても、苦しくても、気持ち悪くても、なんだっていい。

 愛されないよりはずっといい。

 僕は幼かったのだ。

 そして、まだ、幼いままで居たかった。


 死んだ様に冷たい僕と、生きる様に熱い父さん。僕らは今、俗に言う「仲良し親子」なのだろうか。一緒の布団で互いに胸の鼓動の速さを感じているこの時間は、これは、これで、良いのだろうか。

 ねえ、父さん。

 僕の、格好良くて、強くて、頭が良くて、威厳のある、僕の大好きな、父さん。

 僕の中で、「僕の父さん」が盛大に音を立てて崩れていく。今までの日常が表裏を翻す。幼かった「僕」が色を塗りたくられていく。世界が大人になった。僕は、大人になったのだ。無理矢理大人にさせられたのだ。こんなの残酷すぎやしないか。静かに涙を堪えた。しゃくりあげそうなのを我慢して眠っている振りをした。それには諦めに似た感覚が必要だった。自分の身体はただの人形であると洗脳させた。あちこちがピリピリと痛くなってきた。

 ふと、全身の束縛が熱と共に闇に消えた。父さんは廊下にあるトイレの電気を付けて扉の向こうに消えてから中々出てこなかった。

 チャンスだと思った。

 未だ僕の中に「チャンス」という概念が存在していた事が、奇跡に近かった。

 これを逃したら、僕は一体どうなって仕舞うのか。父さんが帰って来たら、またあの不可解なコミュニケーションが再開するのだろうか。また再び全身をまさぐられ、撫で繰りまわされるのだろうか。


 嫌だ。


 僕は一目散で父の布団から抜け出した。必死だった。生命の危機に瀕した気分だった。まるで僕は熊に捕まえられたウサギの様だった。熊はウサギを捕まえ首筋に噛み付き巣穴まで運んだ。動く気配の無い死体の様なウサギに安心したのか、地面に置いて辺りを確認するためにウサギから目を離した。しかし、ウサギは死んでなどいなかった。ウサギは恐怖で震える己の身体を地面から剥ぎ起こした。熊に気付かれ無い様に、熊から逃れる様に、殺されない為に、静かに走った。上手く動かない自分の脚を恨みながら、少し湿った自身の内腿に嫌悪感を抱きながら、自分の安心出来るところまで駆けていったのだ。


 気が付けば、自分は自室のベッドの上で蹲りながら横になっていた。何故か、両の肩がいつにも無く速いテンポで上下しており、丁度目の下、頬骨の辺りが自覚出来るほど熱く、手脚が末端に行けば行くほど死体の様に冷たかった。

 恐怖。

 そうか、僕は、怖かったんだ。

 大好きな父の掌が、幼い自分の世界の崩壊が、熱い接触が、熊の巣穴が、殺される事が。怖くて堪らなかったんだ。血も、涙も、声も、何も出てこなかったから、分からなかった。こんな恐怖、生まれて初めてだった。寒い、寒い、寒い、寒い。全身がガタガタ震えるのに顔が茹ゆだるほど熱いもんだから、より一層、寒い、と思った。眠ってしまいたい。それ程まで強くそう願った事は生まれてこの方一度も無かった。眠って、深く眠って、そのまま目なんか覚めなければ良い、本気でそう思った。この現実は、八歳の少年が受け入れるには、少々残酷過ぎた。

 暗い混沌の様な静寂の中、少し離れた扉の開く音がした。起きている人間が動いた音。その音は僕の小さな心臓を大きく跳ね上がらせ、清々しささえ感じる程ピリッと混沌を凝固させた。足音はゆっくりと、静かに、それでも確かな威圧感を持って和室に向かって行った。いよいよ寒さが酷く感じられた為、一つの音も出さないよう、息を潜め、細心の注意を払い、柳の様な手付きで布団を被った。震えながら、自分で自分の身体を抱き締めた。自分の身体を抱いてやれるのが、自分しか居なかった。

 独りだった。何もしないよりマシ、そんな程度だった。

 こんなにも人の足音が鋭く聴こえたのは後にも先にも、無い。一歩一歩の空気感が小さなこの体に重くのしかかり、纏わり付いて離れなかった。父が廊下を歩く度に床板が小さくギィと鳴いた。音の響く度に、自分の肺も同じテンポでにギィと、軋む様に痛んだ。

 ギィ……ギィ……ギィ……ギィ……ギィ……ギィ……ギィ……

 あぁ、頭が可笑しくなってしまいそうだ。いや、もう既に手遅れかもしれない。頭は沸騰する鉛の様に、酷く、重だるくぐちゃぐちゃだった。横になっているはずなのに、これまで感じたことの無い程の酷い眩暈に襲われた。呼吸の度に歪む視界。東尋坊の心地。吐き気のする浮遊感。さながらアリス・イン・ワンダーランド。

 和室へ到着したと思われる足は数秒間、何の音も発しなかった。するとまた再び静寂が訪れた。それはアラスカの海底のような、冷たく重い絶望の色をしていた。

 何処かで聞いた事がある。「小さな子供にとって、家庭は世界である」と。それは、未だ幼かったその日の僕にとっても同じであった。家庭は世界で、その世界のルールは父であった。この家にいる限り、そのルールに抗うことはおろか、逃げる事など不可能だった。近付く床板の軋み。不意に自室の扉が開かれた。ゆっくりと忍び寄る足音。心臓の音がうるさい。覆い被さる様に近づく大きな気配。瞼が震える。軽く掛かる鼻息。息が出来ない。耳元で囁かれた一言。

 「……お前、起きとったんか?」

 ああ、父さん。正解って、一体どれなの。僕はそれに何と答えればいいの。

 人間から久し振りに声を掛けてもらった様な気分だった。不覚にも、その声に信頼的な安心感を寄せてしまった。狡いくらいに、低く優しい声だった。慰められている様な錯覚に陥った。

 頷いてしまった。とても小さく、ゆっくりと、静かに。そして、わぁっと泣きそうになりながら乾いた目を開けた。暗闇の中で、父さんの顔が視界に大きく映った。その瞳は、少し混乱している様だった。初めて見た情けない表情。父さんは直ぐに僕からチラと目を逸らして手短にこう言った。

 「このことは誰にも言うなよ。内緒な」

 僕は父さんを見ながらコクリと首を動かした。誰かに身体を操られている様な感覚だった。まるで自分の身体が自分のものじゃないみたいな、そんな感覚。父さんは「おやすみ」と言って僕の唇に濡れたキスをした。……殴られなくて済んだ。痛い事は嫌いな筈なのに、何故かその時、殴られた方がよっぽどマシだと思った。

 扉が静かに閉じられて、日常的な夜の風景になった。ベトベトな唇をゴシゴシと袖口で拭う。気付けば袖口が赤く染っていて、少し鉄っぽい血の香りがした。心臓の痛みと呼吸困難で、眠りにつくまでに時間が掛かった。その間、僕は明日について考えていた。厳密に言うと、考えたくも無いのに考えさせられている様だった。考えざるを得なかった。

 明日、どんな顔で起きて行けば良いの。どんな顔をして父さんに「おはよう」と言えば良いの。父さんは怒るかな。それとも、優しくなるのかな。明日なんか、一生来なければ良いのに。今日なんか、一生来なければ良かったのに。昨日死んでたらどんなに幸せだったろう。


 朝。小鳥の鳴き声。リビングのカーテンの奥には清々しい晴天の景色。生まれて初めて、青空を見て頗る嫌な気分になった。その美しさが不愉快だった。恐らく僕は、空色の純潔さに嫉妬をしたのだろう。寝ぼけ眼で自室から出て廊下を歩き、やっとこさ辿り着いたリビング。なんだか夢を見ている様な気分だった。昨日がまるで思い出せない。セーブをせずに電源を切ってしまったゲームみたいだ。一昨日迄のデータは有るのに、昨日のデータだけがポッカリと見事な程綺麗に陥落していた。

 あ、あれ、あれ、あれ、おかしいなぁ。

 バグった言動が許されるのは起きて直ぐだけだ。そうでなければ母から構ってちゃんだと言われウザがられる。さっさと起きなければ。それでもやっぱり、何か引っ掛かる。食パンをトースターに投げ込んでも、顔を冷や水で洗っても、トイレで用を足しても、今日着る洋服を準備しても。

 「チィン!」

 トースターの事をすっかり忘れていた。目を離した隙に黒焦げになったに違いない、そう思いながら手に持っていた洋服を床へ投げ捨て急いで台所へ向かった。案の定、トースターは口から煙を吐きながら四角い板状の炭を堂々と出してきた。なんだかついてないなぁ、頭の中でそう呟いた。指でつまんだ熱々の炭をゴミ箱に投げ入れ、袋から食パンをもう一枚取り出す。もう焼くのは面倒臭いから生で食べちゃえ。

 そんな事をいつも通り考えていたその瞬間。ぬろぉっと、蛹から羽化したばかりの出来損なった揚羽蝶の様な父さんが起きて来た。刹那、僕の目玉は乾かんばかりに見開かれ、道路で引かれそうになっている子猫の様に、ガクブルと震え動けなくなってしまった。急に食欲が減退した。いや寧ろ吐き気さえしてきて、食欲の「しょ」の字も見えなくなった。

 嗚呼、思い出した。昨日僕はこの人からヘンナコトをされた。

 水を飲み飯を食う為、父さんは僕の居る台所に入って来た。台所の狭いのをこんなにも呪うことになるとは。父さんが入った瞬間、淀んだ気流がゔゅわりと感ぜられて、それだけでもう狂ってしまいたくなった。狂えないのが一番苦しい、狂ってしまえたらまだ楽なのに。でも、昨日の晩は、内緒だって言われたから。手に取った食パンをいつもより随分と大きい皿に極めて真剣に丁寧に乗せ、水を汲もうと水道のレバーを上に押し上げる。しかしその手にコップは無く、水音を聴いて忘れたことに気付く。背伸びをして棚から取り出したグラスのサイズは普段の二倍近くあり、母親のグラスだとぼんやり気付いていながら、水をその半分注ぎ込んだ。そしてその注いだ水を、何を思ったかシンクに流す。「あぁ、」と呟きながら再び、今度はグラスに並々と水を汲む。運びにくくなるため少し水を減らす。そうして僕の両手には馬鹿みたいにでかい皿に貧相に1枚だけ乗った質素で味気ない食パンとびちゃびちゃになった大きなグラスが存在する事となった。それらをダイニングテーブルの上に無造作に並べ椅子に座る。食べることはなく、ただ座るだけ。汲んだ水は一口飲み込んだ。一口飲んで初めて自分の喉が酷く渇いていた事に気が付いて、グラスの水を全て飲み干した。自分で作った茶漬けを片手に僕の前で椅子を引く父さん。母さんは今、別室の化粧台の前だ。溝水に蔓延る藻の様な、ぬかるんだ沈黙がずるずると喉に詰まって行く。滞る。肺が痛い。いや、痛いのは心臓か? いや、どっちもか。苦しい。肌が覚えている。触れられた箇所が順々を辿って蘇る。感覚が植え付けられている。静かに、それでいて熱く力強く根を張り、侵蝕されてゆく。誰も彼も、自分さえ触れた事の無い、未開の筋繊維の奥深い所まで。拭い取れた物じゃない。洗って落ちるものでもない。きっと全身の皮を剥いだって駄目だろう。この穢れはどうやったって取れやしないだろう。

 別に希望を持った訳でもないのに、何だか絶望に似た感覚を覚えた。別に誰かから責め立てられていると云う訳でも無いのに、何だか逃げ出したくなった。僕はきっとこの時、酷く混乱していたのだろう。自分がどう動くべきか、どうすればこの苦しみを軽減させる事が出来るのか、冷静な判断がつかなかった。僕は父の顔を伺うように見たのだ。父のキリッとして真っ直ぐだった顔は酷く腐乱して見えた。何だか臭いような気さえした。これが正しい行動だったのかどうか、未だに僕には分からない。若しかしたらこの瞬間の選択肢には、正解なんて無かったのかも知れない。不正解しか存在しなかったのかも知れない。父は僕の視線に直ぐ気が付くと、いつもの様に変わりない仕草で視線を逸らし、いつもの様に無言であった。知らん顔。ずぞぞぞっと云う下品で薄汚い茶漬けの音が、静かに僕を拒絶しただけだった。

 所詮はその程度だったのだ。

 いつもと何ら変わりない日常。僕だけが異常だった。誰も何も知らないみたいで、自分だけが知ってしまったみたいな。孤独だった。

 僕は夢でも見ていたのだろうか、昨晩のあれは、夢だったのだろうか。何だか夢だった様な気がする。うん、そうだ、きっと僕は昨晩悪夢を見たんだ。そうに違いない。


 僕があの一夜の父を単なる悪夢だと思えていたのは、再び父から襲われた時迄の、短い期間だけだった。その後だって、何度も僕は慰み物にされた。もう「悪夢」だ何だと云う様な継ぎ接ぎハリボテ御都合主義的言い訳も矛盾に満ち、使い物にならなくなった。僕の父は、僕のことを性的な目で見ている。紛うこと無き事実だ。だから僕は今現在も尚、父を警戒する様に出来ている。父の僕に対する性的な目を警戒して生きている。そんな風に育った。変な話だ。なんと育ちの悪いことであろうか。又、父だけではない。僕は昔から度々、気色の悪いジジイ共から狙われる事がある。何故だろう。どこかで聞いた話、そういう目に合う人間は決まっているらしい。襲われる側の人間はどこまで行っても襲われやすいのだと。そんな事が幼い頃から度重なってきたからだろうな。何時からか僕は

「男なんてケダモノだ、穴が有れさえすれば女だろうが男だろうが動物だろうが食べ物だろうが、皆等しく欲情出来るんだろう」

だなんて子供らしくない荒み方をしていった。そして、それと同時に自分の性別が男であることを酷く嫌悪した。ケダモノ等と同じ性別であると自覚する事から死に物狂いで逃げて生きてきた。でも別に女になりたいわけでもなかった。必然的に男らしくない男の子になっていった。

 大人になりたくなかった。自分が大人の男になることが恐ろしかった。年頃になり、周りの奴らは急にガタイが良くなってきたが、僕は依然色白で華奢なままであった。しかし、それでも僕の身体はちゃんと年相応に成長していたようで、何時からか僕の股からは白い液体が出るようになった。初めてそれを見た僕は、思わず吐き気を催した。目の下の、丁度頬骨の辺りがぶわわと熱を孕み、その熱は、耳、首筋、首筋から脊髄、脊髄から四肢へと、あっという間に全身を侵していった。幼い頃、こっそり父のチョコレートボンボンを初めて口にした時の様に頭がクラクラとして、心地好い浮遊感と少々の疲れを感じた。目の前が、僕の明日が、これからの人生が、汚れた白に塗り潰されて真っ黒になった。自分の身体を信じたくなかった。気持ち悪くて仕方が無かった。それに相反する残酷で強烈な程の満足感。まるで、巨大なジグソーパズルの無くして仕舞った一欠片を何年越しか大掃除の拍子に本棚の奥底から見つけて、それを悠々と嵌め込んだ時の様だった。快楽を求め、独り無様に小さく喘ぐ自分が、大嫌いだった。こんな事、したくないのに。こんな気持ちの悪いこと、大嫌いなのに。気持ち良い、そう思って仕舞う自分が酷く恥ずかしくて、幾度となく爪で全身を引き千切りそうになった。何度も壁に頭を打ち付けた。 そして、快楽の度に僕の左腕は真っ赤な物差しの様になっていった。手の中で粘って糸を引く生温かい白濁が僕に「お前も所詮アイツ等と同じなんだ」と言った。満足感を覚える事が、どうしても、忌々しいケダモノである事の証明の様にしか思えなくて、独りでに震える肩を抱えた。だぁれもすくっちゃぁくれないよ。誰にも言えなかった。言えるわけないこんなこと。だって僕は昼間の父さんが好きで、母さんを大切にしたくて、ちょっと温かみには欠けるけど保っているこの家を壊したくなくて、普通でいたいのだから。それに、内緒だと言われて頷いてしまった。僕らは共犯者だ、僕ばっかり被害者面出来ない、父を悪者にして吊し上げるなんてそんな、僕にはとても無理だ、そんなことしたくない。

 頭の中で四方八方から暴力的に響き渡る様々な声。その声は全て「怖い」と叫んでいた。しかし、果たして何がそんなに怖いのか、僕にはよく分からなかった。それはまるで無色透明な猛毒ガスの様に、実体のない、如何ともし難い、為す術が見い出せない、日常的な、苦痛であった。


 午前二時の冷たい真夜中。暗闇の中、父がこちらを見ることは無い。あぁ、またその知らん顔か、何事も無かったみたいな白々しい態度。あんたらしいや。うん、知ってるよ、分かってる。僕は黙ったまま少し猫背になって二の腕を強く掴みながら、今直ぐ気狂いみたいに走ってこの場から離れたい衝動に駆られた。自分の心臓が大きく膨らんだ風船になったみたいだ。どんどんどんどん、危険を募らせながら膨らんでゆく。ソファの軋む音に細心の注意を払いながら、足音を立たせないよう猫歩きにして父の後ろを通る。父の背中は見下げる位置に有っても尚、僕の恐怖心を増幅させる。僕はそんな父の背中から何故か目が離せないでいた。項から背中にかけてゴツゴツと規則的に突き出た骨。首元がよれてボロボロにすすけたTシャツの虫食い穴。僕の両の目はぼんやりと暗い路地裏の奥を眺める時の様に、ただ漠然と父の背を見下した。興奮で鳩尾の辺りがゾクゾクした。「今なら、きっと、しくじりさえ、しなければ、殺せる」なんて、非現実的な事を考えながら。刹那、赤色がチカっと瞬く。きっと、まだ僕は寝惚けてるんだ。そうに違いない。頭の中に広がる赤色。どろどろと蠢く臓物。あぁ、駄目だ、喉が渇いたな。ふと、ソシャゲの操作をしているゴツゴツとした指が視界に入って、そのチョイチョイとした小さな動きから思わず目を背けた。ああ云う小さくて小刻みな動きは嫌いだ。思い出す。ぞわぞわして気持ちが悪い。急に、目頭が痛い程熱くなってしゃくりあげて仕舞いそうになったから、右手で口元を覆って下唇をぐぎゅうと噛んだら奥歯がガチガチと音を立てた。肋骨を裏側からろろろっと撫で降ろされている気分で、吐き気がする。取り敢えず、リビングから出なくては。自分の部屋へ、行かなくては。このままずっとこの部屋の空気を吸っていると内臓が溶けて仕舞いそうだ。あぁ、もういっそこの場で溶けて白骨化でもすれば良いのに。そんな事が出来れば、どんなに良いだろう。今ならどんな死の苦しみも矮小なものに感じられそうだ。暗闇をすうすうと音を立てずに歩く。軋む床板の位置が直感的に分かった。生きる為に自然と身に付けたスキル。情けない、恥の様なスキル。身に付けたくないもんだ。人生に於いて、出来る事なら使いたくないスキル。最短距離で部屋に辿り着くと、ノブを降ろしながら扉を閉める。そうするとガチャンという音を立てなくて済む。僕はそれを知っている。そうして閉じた扉は、背を凭れさせる為に存在する。僕はそれも、知っている。

 一人の空間。孤独が酷く安心した。砂漠で発見した井戸って云うのはきっとこんな感じなのだろうな。喉奥からハァッと空気の塊が押し出されて初めて、自分が今まで呼吸をしていなかった事に気が付いた。上下する肩を震える手で掴んでみたが、上手く力が入らないうえに酸欠で身体の感覚が軽く麻痺していた為、実体の存在さえよく解らない。僕は今ちゃんとここに居るのだろうか。僅かばかりであった脚の力がもう全て抜けて仕舞って、すすすっと背中が落ちて行く。脚を限界まで畳んで胴に寄せて両腕できつく纏め上げた。顔を埋めると少しずつ呼吸が落ち着いていった。呼吸だけは辛うじて平常に行なう事が出来る様になったが、別に唯それだけであった。顔を少し上げてはぁ、と云う霞んだ声を空気に溶かすと、泥濘んだ悪夢から覚めた時の様な感覚に陥った。部屋の壁に在る本棚。お気に入りの本達。背表紙。太宰治、ヘルマンヘッセ、村上春樹、志賀直哉、皆、ぐにゃりと歪んで見える。祖母から貰った硝子のオルゴールに被った埃が、やけに目立って見えて泣きたくなった。でも直ぐにそんな事どうでも良くなった。このまま死んで仕舞おうか、と頭で誰かが囁いた。それは宛ら悪魔の囁きの様で、とても甘美な誘惑だった。途端、ハハッと笑いが込み上げてきて背中が跳ねた。馬鹿馬鹿しい、全て何もかもどうでも良いなんて、こんなに楽しい事なんて、嗚呼、下らない、死にたい、殺されたい、殺したい、動きたくない、全部楽しい、だから、苦しくて苦しくて堪らないんだ。

 心臓がギリギリと鋭く痛んだ。途轍もなく痛かったが、それが何だか妙に笑えて、これこそが客観的不幸主観的幸福の究極だろうと思った。


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