第26話



 アーマイゼは仕事に生きる女である。今まで家族を養うために働いてきた経験が実を結び、今ではこの国のために必要な書類の整理をしている。


(少しでも、クモ姫さまのお役に立てるのならば……)


 スムーズに仕事がしやすいように、この書類はこっち。あの書類はあっち。一人でモクモク作業。別に夜遅くまでクモ姫にこきなんか使われません。ブラックじゃありません。土日含む週7日。……あ。アットホームな職場です。


「あら、これ、サインがされてない」


 この書類なら、わたしのサインでもいいはず。アーマイゼはそう思い、クモ姫の机の引き出しを開けた。


「ペンは確かここに……」


 ……裏返された紙が底に埋まっている。アーマイゼはきょとんとして、その紙を掴んで、表にしてみた。そして、その内容を見た瞬間……アーマイゼは顔色をぞっと青く染めた。


「こ、この紙は……!」


 なんてこと。


「離婚届!!」


 アーマイゼに衝撃が走る。雷が落ちる。アーマイゼの体が恐ろしさで震え始め、片手で口を押さえ、瞳を潤わせた。


(わ、わたし……嫌われたの……?)


 ああ、なんてこと!


(クモ姫さまのところ、サインがされてる!!)


 ちゃっかり印鑑まで押されてる。


(わたしがサインをして……提出したら……)


 離婚確定。


(わたし……とうとう姫さまに……嫌われてしまったのね……)


 アーマイゼが崩れ落ち、さめざめと泣き始めた。そこにやってきたハチがアーマイゼの涙を見て、首を傾げた。


「にゃー」

「ああ、坊や。たいへんよ。クモ姫さまったら、離婚届なんて隠し持っていたの。ああ、たいへんだわ。わたし、なにかしてしまったのかしら」

「にゃー?」

「でも、そうよね。確かに、わたしはここに来てから上等なドレスを着せていただいて、上等なご飯をいただいて、与えていただいているものにすがりつき、甘えすぎていたかもしれない。ハチだって、ここの生活がなければ引き取れなかったわ」

「にゃー」

「ああ、たいへんよ。坊や。わたしのせいで、わたしが知らぬ間にクモ姫さまがわたしとの離婚を考えていらっしゃるわ。たいへんだわ。今のわたしに、まだ抗えることはないかしら」


 アーマイゼは図書室へと駆け込み、夫婦の危機について勉強を始めた。つまるところ、夫婦で離婚率が高い最もな原因は、倦怠期である。


「倦怠期……!?」


 アーマイゼはタブレットで検索し始めた。


「セミナーがあるわ! ハチ、わたし、お出かけしてくる!」

「にゃー」

「ああ! たいへん! たいへんだわ!」


 クモ姫さまに嫌われてしまった。


(でも、諦めない。まだやれることはあるはず!)


 あの笑顔をもう一度見たい。

 あの声で、もう一度でいい。


 愛していると、言ってほしい。


(……姫さま……)


 アーマイゼは胸が寂しくなり、しくしくと涙を流しながらセミナーへと向かった。そこには、恋人との関係で悩む様々な人が集まっていた。


「もうそろそろなでしこ先輩もわたしを放っておいてくれていいと思うんですよ。いや、別に放置はされてるんですけど、まあ、なんていうか、放置されてるのは家の中だけで、外に出るときはいつどこに出かけて誰と過ごして何時までに帰ってくるかを言わされて、挙句の果てには相手がしおり先輩だった場合にはそれはそれはヤキモチの炎がこうメラメラと」

「浮気性のダーリンを持ってあたくしはなんて不幸者なんだ! 吸血鬼やら笛吹きやら妹やらと四六時中べったべたしおって! こんなに魅力的で可愛いあたくしがいるというのに!! ひどすぎる! ダーリンのバカ! 挙句の果てには幼なじみに抱きついてベタベタしてキスまで求める始末! あいつに嫌がらせメッセージを送ってやる! ざまあみろ!」

「知り合いの女の子の話なんだが、なんだ、その、嘘のような本当の話だ。あの子の頭にはもう一人の自分がいるというか……あー……脳に住み着いているというか……そいつが、食欲がわくとご飯を与え、睡眠欲がわくと添い寝し、性欲がわくとそういう行為に誘ってくるらしい。ヨシコは、あー、その女の子は全力で断ってるらしいが、最近はうなされるまでになっている。挙句の果てにおれと一緒に寝ないとまともに眠れず、その間おれは自分の夢の中で良子、あー、その脳に住み着く女の子と言い争いになる。そろそろおれもヨシコもうんざりしている。だれか、解決策を知ってる者はいないか?」


(まあ、みなさまも深刻なお悩みを。たいへんなのは、わたしだけではないんだわ)


 セミナーから帰ってきたアーマイゼは、今、自分がやるべきことを考えた。クモ姫から嫌われたのであれば、無理に愛を取り戻そうとするべきではない。そうすれば、きっとクモ姫は逆に引いてしまう。


(ああ、姫さま……。愛しのかた……)


 悲しいけれど、これが最善策だという行動をアーマイゼは選択した。


「使用人さま、今日からわたし、別室で食事をいただきます」

「あれ、どうしたんですか?」

「また喧嘩したんですか?」

「そうじゃないんです。……そうじゃ……ないんです……」


 泣きそうなアーマイゼを見て、使用人たちは思った。あー、クモ姫さま、また何かやらかしたんだな。


「わかりました。別室ですね」

「クモ姫さまにも伝えておきます」

「はい。お願い致します」


 ――一方、窓辺にもたれ、青空を眺めながら、何も知らないクモ姫はキセルの煙をふかしていた。


(……アーマイゼ……)


 今朝も寝ぼけた顔が可愛らしかった。


(……アーマイゼ……)


 部屋に来たときに気付いた。書類がきっちりきれいに整理されていた。このきっちりな几帳面さ、間違いない。アーマイゼが気配りからやってくれたのであろう。


(アーマイゼ……)


 働き者の、わたくしの愛しい妻。


(会いたい)

(抱きしめたい)

(あの小さな耳に愛していると囁いて、顔を真っ赤にするあいつの恥ずかしそうな黒い瞳が見たい)

(ああ、……アーマイゼ……)


「クモ姫さまー」

「アーマイゼさまが、今晩の食事は別室でいただくとのことですー」

「……ん?」


 別室?


「理由は?」

「聞いてません。ですが、アーマイゼさまがそうしたいと」

「……ふむ」


 たまには一人で食べたいときもあるのだろう。


「コックに伝えておけ。デザートに砂糖を使った菓子を出すのを忘れるな、と」

「御意」


(……食事の部屋が別でも、寝るときに会える)


 アーマイゼ、愛しい妻。


(……会いたい……。……アーマイゼ……)


 しかし、夜になってもアーマイゼはクモ姫に近づこうとはしなかった。


「本日は別室で寝ます」


 枕を抱えたアーマイゼが廊下できちっとお辞儀した。


「おやすみなさい。クモ姫さま」

「……ふむ」


 ……そうか。たまには、……一人で寝たいときもあるのだろう。


「……おやすみ」


 クモ姫が身をかがめ、愛しい人の頬にキスをした。


(……あっ)


 アーマイゼがサッと顔をうつむかせた。


(わたしったら……)


 クモ姫に、頬にキスをされただけで、こんなにも顔が熱くなってしまう。


(すぐにこうやって……とろけてしまうんだから……)


 目の前にはなによりも愛しい人がいる。しかも優しいキスをしてくれる。


(……嫌われてる……なんて……思いたくない……)


 胸が絞めつけられる感覚。

 苦しい。痛い。キスをされるたびに虚しくなって悲しくなる。

 アーマイゼはクモ姫に想いを寄せている。

 彼女にとって、こんな想いは初めてだ。

 だからこそわからない。

 何が正解で、正しいのか。クモ姫が何を考えているか。


(……愛してます)


 愛しい人だからこそ、嫌われたくない。引かれたくない。こんな熱い眼差しで見てくれているように見えるのに、ほんとうはとても嫌われてるなんて、思いたくない。


 だったら、近づかないほうが良い。

 離れたほうがお互いのためだ。


(愛してます)

(……あなただけを愛してます……)


「……おやすみなさい。クモ姫さま……」


 アーマイゼがかかとを上げて、愛しいクモ姫の頬にやわらかな唇を押し付けた。その瞬間、クモ姫がぴたりと固まり、ゆっくりと見下ろす。その先には、愛おしいアーマイゼが、自分の髪と同じ色の紫の寝間着を着て、――自分だけを愛おしそうな、切なそうな目で見つめている。


 そんな目で見られたら――。


「……アーマイゼ」

「あっ」


 頬に手を添えられて、アーマイゼが慌てて顔をそらした。


(いけない)


 きっと、わたしに合わせてくださっているんだわ。


(これ以上一緒にいたら……クモ姫さまの優しさに甘えてしまう……)


 もっと嫌われてしまう。

 なのに、愛されたいと願うなんて、どれだけ自分は強欲なのだろう。アーマイゼは自分の浅はかさに背徳感を感じた。

 好きな人から嫌われることが、こんなに胸が苦しいことだなんて。


(どうにかなってしまいそう)

(クモ姫さま)

(どうか)


 そんな愛しい目で、醜いわたしを見ないでください。


「アーマイゼ?」

「っ」

「……ほんとうに別室で寝るのか?」

「……は、はい」

「わたくしは今日、朝から真面目に執務を行った。その褒美があってもいいと思うんだ」

「……そうですね。……姫さまはいつも真面目に働いていらして……今日は、特に書類量が多かったのに、それはそれは真剣に働いておられてました。……わかりました。でしたら、わたしが出来る限りの、精一杯のマッサージを……」


 クモ姫がひょいとアーマイゼを腕に抱えた。


「きゃあ! 姫さま!」


 クモ姫は思った。なんて軽くて、小さな体なんだ、と。ちゃんと食べているのか? 今日は食べてるところを見てないから心配だ。……ちゃんと食べたのだろうか? 食べてるなら、なぜこんなに細いんだ? わたくしの糸が絡まれば、その足も腕も、ぽっきり折れてしまいそうだ。


 クモ姫がアーマイゼをいつもの寝室へと連れて行く。


「姫さま、いけません、わたし……!」


 クモ姫がアーマイゼを丁寧にベッドに下ろした。


(あっ……)


 上から自分を見下ろしてくるクモ姫は、今夜も一段と美しく、月の光に当たった彼女は、まるで夜の女神。


(……姫さま……)


「アーマイゼ」


(あ……やだ……その声……)


 その声が耳の奥に響いただけで、胸がどきどきしてしまう。クモ姫の長い髪の毛がアーマイゼに垂れる。アーマイゼが深く息を吸った。ゆっくり吐き出される。胸が動く。肩が動く。動くアーマイゼをクモ姫が観察する。熱い眼差しがアーマイゼの隅々を眺め、見つめ、近づく。


(……あっ……!)


 唇がつんと、アーマイゼの唇についた。


「んんっ……!」


 また、つんつんと突かれるように、唇がつく。


(そんな……焦らすようなキス……)


 アーマイゼがこくりと唾を飲んだ。


(とろけてしまう……)


 クモ姫が身を沈ませる。


(やっ、姫さま、わたし、姫さま、……姫さま……っ)


 そんなに大切に抱きしめられて、こんなに甘いキスをされたら、


(とても、悲しくなってしまいます)


 あなたがわたしを嫌いになってしまった事実から、目を背けたくなってしまう。


(姫さま、あの離婚届はなんだったのですか?)


 唇が重なる。


(わたしと、離縁するおつもりですか?)


 ……やだ。


(わたし……あなたと離れたくない……)


 キスをする。唇を重ねて。首の角度を変えて、お互いの唇が重なり合う。LOVEが見える。そこにはLOVEが存在する。確かに存在しているのに、同時にHATEが見え隠れしているかのよう。


 わたしの愛しい奥さま。なにを考えていらっしゃるのですか?


「……姫さま……」

「……アーマイゼ、こちらを見なさい」

「……はい……」

「……良い子だ」


(あっ)


 クモ姫が糸を操り、アーマイゼの寝間着の紐を解いた。


(あ……そんなっ……)


 はだけられていく。


(恥ずかしい……)


 未だに慣れないこの行為。


(……恥ずかしいのに……)


 クモ姫だけに見られて、嬉しいと感じる自分が存在している。でも、……やっぱり恥ずかしい。


「……っ、あまり……見ないでください……」

「ん? ……なぜだ?」

「こんな貧相な体を……あなたさまにお見せするのが……恥ずかしくて……」

「なにも恥ずかしいことはない。……わたくしたちは夫婦ではないか」

「……え……?」


 なぜそんなことを言うの?


(あの離婚届はなんだったのですか?)


 言えない。

 言ったら全てが終わってしまうような気がして。


「……」

「夫婦は愛し合うものだ。……そうだろう?」

「……はい」

「恥ずかしがる必要はない。お前は、ただわたくしに、その身を委ねれば良い」


 きっと、これで最後。

 クモ姫が自分に触れてくるのは、これで最後。

 だから、こんなにも優しい言葉をかけてくれるのだ。

 だからこそ、こんなにも欲しくてたまらない言葉をかけてくれるのだ。


「アーマイゼ」


 クモ姫が美しく微笑む。


「愛してる」

「……わたしも……」


 これ以上ないほど、


「愛しております。……姫さま……」


 二人の唇が重なった。アーマイゼの手を、クモ姫が握りしめる。


 あの離婚届は何?

 アーマイゼはきけない。好きな人とまだ離れたくなかった。その覚悟がなかった。


(クモ姫さま、……姫さま……)


 その体に触れる。自分が彼女の体に吸収されていくように。


「……姫さま、もっと……」

「ん?」

「もっと……痛くしてください……」


 いつか離れなければいけないのなら、この体にあなたという傷痕を刻みつけて、いっぱいになりたい。


「姫さまに抱かれた、証拠が欲しいのです」

「……今日のお前は、なんだか変だな」

「……こんなわたしは……いやですか……?」

「……いいや?」


 クモ姫はいやらしいほど口角を上げる。


「大胆で、たいへん良い。……興奮する」


 よかろう。その願いどおりにしてやろう。お前を抱いた証拠を、その体全体に刻んでやろう。だれもお前に近づくことがないくらいに。


「あっ、……姫さま……、もっと……」

「アーマイゼ」

「んっ、姫さま……」


 そんな甘いキスなんてだめ。

 もっと痛くして。

 もっと傷つけて。


「っ……!」


 クモ姫の歯が首筋に食い込み、アーマイゼが目を開き、足の爪先をピンと立てた。


(……あ……)


 クモ姫さまに、噛まれてしまった。


(……お願い……。……どうか……そのまま食いちぎって……)


 いっそのこと、


(もっと、痛みを……)


 そうは願っても、痛みの後には必ずわたあめのような甘さが待っている。クモ姫の甘さに、アーマイゼは全身を溶かされていくように感じた。


(……っ……そんな触り方……だめ……)


 まるでお酒を飲んだように頭がくらくらしてくる。クモ姫に酔う。弄ばれる。翻弄される。


(姫さま……)


 頭がぼんやりする中、触れている人の熱を鮮明に感じる。なんて温かいぬくもりなのだろう。なんて安心するぬくもりなのだろう。ずっと触れていたい。抱きしめていたい。


(いっそのこと、この身がどろどろに溶けて、あなたの一部となれたら……)


 クモ姫がアーマイゼの手の甲にキスをし――熱のある目を愛しい人に向けた。


「……なにを考えてる?」

「……あなたさまの、ことを……」

「……そうか」

「……お嫌……でしたか……?」

「何を言う。……もっとわたくしに夢中になってしまえ」


 唇が重なる。


「わたくしのことだけを考えていろ」


 クモ姫が、中に入ってくる。


「アーマイゼ……」

「あっ、ひめ、さま……」

「ふふっ、……お前はここが好きだな」

「あっ……! ……んっ、……姫さま……」

「ん……。……どうした?」

「んんっ! ……はっ、……姫さま、あっ、……わたし、ばかりでは……」

「わたくしのことを思うのなら、……素直に翻弄されていろ」

「はっ、あぁ……姫さま……あっ……!」



 夜は更けていく。



(*'ω'*)



 アーマイゼが目を覚ました。

 まだ、部屋は暗い。日は昇っていないが、……起きてしまったようだ。


(……今、何時……?)


 ぼうっとする意識の中、時計を確認しようとして――アーマイゼがはっと気がついた。


(あっ)


 裸のクモ姫が、後ろからアーマイゼの頭を腕に乗せ、もう一方の手は……大切に彼女を抱きしめていた。


「……っ」


 アーマイゼがゆっくりと深呼吸を繰り返し、寝返り、愛しい人の寝顔を覗いた。


(……あどけない寝顔だこと……)


 いつもきつめの目の力が抜けて、口を少しだけ開けて、まるで赤子のような寝顔。なんて愛おしい。


(姫さま)


 あの離婚届はなんですか?


(……姫さま……)


 アーマイゼがクモ姫の頬にキスをした。そして、……そこから抜け出し、寝間着に着替え……寝るはずだった別室へと静かに歩いていった。


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