第16話

 夫婦にはいろいろある。本当にいろいろある。色んな夫婦がいる。色んな夫婦の形がある。クモ姫とアーマイゼにだって、いろんな事情がある。クモ姫の頭の中はいつだってアーマイゼの笑顔があって、アーマイゼの頭の中にはいつだってクモ姫の美しい姿があった。手を繋ごうと伸ばせば、どちらからともなく触れようとしていて、実際触れてしまえば、思わず手を引っ込めてしまう。クモ姫はハエがいたと嘘をつき、アーマイゼはハチったらいけない子ね。とハチを理由に手がぶつかりましたと言わんばかりの言い訳まがいな行動をしている。けれど、本当は触れたいのだ。温かな美しい手に。温かな小さな手に。もっと近付きたい。くっつきたい。キスしたい。いろんなLOVEがそこには存在した。


 しかし、LOVEは時に恐ろしや。LOVEが積み上がれば積み上がるほど、それは愛ではなく、経験値になっていく。経験値がたまればどうなるか。レベルが上がる。


 それはとある日のこと。それはそれは平和な時間をすごしていた。使用人たちは機嫌の良いクモ姫を見るたびに、アーマイゼがこの城に来てくれたことに感謝した。


 ある日、LOVEが溜まった。


 レベルの上がった二人が、争いを始めた。


「いい加減にしろ!」

「クモ姫さまの、ばか!!」

「……っ、出ていけ!!」

「っ」


 さめざめと泣きながらアーマイゼが部屋から出て行ったのを見て、使用人たちが顔をしかめた。

 嫌な予感がよぎった。窓を見れば、山は噴火し、火山灰が雨のように降り、雷は鳴り響き、地震は起き、火事が起き、地割れが起き、ハエがぶんぶん言って、城下の人々はパニックになって虫のように逃げ回った。


「火山灰じゃ! 火山灰じゃ!」

「鎮まりたまえ!」

「祟りじゃ! 祟りじゃ!」

「鎮まりたまえ!」

「神がお怒りじゃ!」

「鎮まりたまえ!」

「呪いあれー! 呪いあれー!」

「鎮まりたまえ!」


 クモ姫の糸が怒りで震えている。仕事の時間になってもイライラして貧乏ゆすりをしている。大臣たちがびびりながら訊いてみた。


「姫様、何をそんなに怒ってるんですか?」

「わしら、まだ何もしてないのに」

「そうですよ。わしら、まだ何もしてないじゃないですか」

「へい。イライラガール」

「何もしてないのサンバ」


 クモ姫が無言で全員縛り上げた。


「あん」

「やめてくだされ」

「もう嫌になっちゃう」

「チッ」


 イライラクモ姫ちゃんが執務室にこもっている間、アーマイゼも足し算の勉強をしながらイライラしていた。ずっとむくれている。イライラして集中が出来ない。これもそれも、全部クモ姫のせいだ。しかし、クモ姫からしたら、それは全てアーマイゼのせいであった。


(クモ姫様ったら酷い)

(アーマイゼめ……)


 お互いがイライラし合い、使用人たちがおろおろする。一体何が起こったってんだい。ここは優しいアーマイゼに聞くことにしよう。


「アーマイゼ様、一体何がどうしたというのですか?」

「すみません。何でもないのです。気にしないでくださいな」


 いやいや、気にするわー。これは気にするわー。だって君たち見てみなさいよ。この空気。この気圧。この天気。君たちのおかげで城下町は大変なことになってるよ。


「アーマイゼ様、一度クモ姫様と話し合いをされてはいかがでしょうか」

「何をおっしゃいますか。わたし、姫様と話すことなんかありません」

「アーマイゼ様、ランチのお時間ですよ。クモ姫様とお食べになるでしょう?」

「わたし、今日はハチと食べます!」


 そう言って、ハチを抱えて歩いて行ってしまった。なんてことだ。あの優しかったアーマイゼがブチ切れている。一体何をしてしまったの。クモ姫様。


「浮気?」

「クモ姫様ならありえる」

「クモ姫様は何でもお食べになるからな」

「違うわよ。クモ姫様が横暴だから、アーマイゼ様はそれに腹を立てたのよ」

「アーマイゼ様がそんなことで怒るか?」

「どっちでもいいけど、早く仲直りしてくれないと困るよ」

「クモ姫様、失礼いたしますじゃ。そういえばさっき、アーマイゼ様がハチと一緒にランチを楽しそうに召し上がってましたよ。ほほほ」


 使用人全員が大臣を睨んだ。てめえ、なんてことを言ってくれるんだ。ああ、大変! また火山が噴火した! ぼん!!


 このままではいけないと思った使用人がケーキを作った。


「クモ姫様、ケーキはいかがですか」

「アーマイゼ様、ケーキはいかがですか」


 無理やり二人を正面に座らせ、使用人たちがケーキを切り分けて出ていく。

 部屋にはクモ姫とアーマイゼだけが残された。


「「……」」


 二人が甘いケーキを食べた。


「……」


 クモ姫が紅茶を飲んだ。――ふと、アーマイゼが思った。


(……あ)


 はっとして、目をそらす。


(……今日のかんざし、とても素敵……)


 朝はしてなかったクモ姫のかんざし姿に、アーマイゼの頬が赤くなる。また一段と似合ってらっしゃる。素敵なお方。


 アーマイゼが誤魔化すために紅茶を飲んだ。――ふと、クモ姫が思った。


(……あ)


 はっとして、目をそらす。


(……口についてる……)


 ケーキの破片を口元に残しているのを見て、取りたくなってしまう。取ってみせたら、アーマイゼのことだ。きっと照れて、恥ずかしがって可愛い目で見てくるに違いない。わたくしの名前を呼んで、ありがとうございますと、謙虚に言ってくるのだ。お前くらいさ。わたくしにありがとうを言ってくれるのは。


 アーマイゼの目が下を見ている。

 クモ姫の目が下を見ている。


(ケーキのおかわりをしようかしら)

(ケーキのおかわりでもするか)


 二人が手を伸ばし、ナイフを探した。しかし、手に掴んだのは、お互いの手。


「あっ」

「っ」


 アーマイゼが驚いて手を引っ込めようとすると、クモ姫に強く握られた。痛い。


「ひゃっ」

「っ」


 クモ姫が息を呑み、手の力を緩めた。


「……痛かったか?」

「……大丈夫です」


 久しぶりに目が合う。


「「……」」


 また、両者ともに俯く。けれど、手は握ったまま。折れたのはアーマイゼ。


「……クモ姫様」

「アーマイゼ、……少し話そう」

「……はい」


 二人とも、大きく息を吸った。


「そもそもの話は、アーマイゼ、わかっているな?」

「はい」

「ならば、この議題だけ解決させておこう」


 クモ姫が顔を上げた。


「アーマイゼ」


 クモ姫が言った。


「お前に似合う色は、黒だ」

「何度も言ってるじゃないですか! わたし、黒は嫌です! 紫が似合う女になりたいんです! だから、紫の服を着させてください!」

「アーマイゼ、なぜ紫なんだ。お前のように黒を美しく身にまとう女はそうはいない。いいから黒の服にしておきなさい」

「いいえ! わたしは、紫がいいんです!」

「アーマイゼ」

「だって……」

「だって、なんだ?」

「……」

「また泣くのか。アーマイゼ、泣くなら言いたいことをはっきり言ってからにしなさい。泣いて逃げるな」

「……っ……逃げてません……」

「お前には黒が合ってる。だから明日も黒のドレスを着てなさい。お前によく似合ってるから」

「だって……」

「だから、なんだ?」

「紫……」

「なぜそこまで紫にこだわる」

「……それは……」


 アーマイゼが瞼を閉じる。


「クモ姫様の……お色だから……」


 その言葉でクモ姫がはっとした。アーマイゼの目尻から、滴がほろほろと溢れていく。


「……アーマイゼ……」

「クモ姫様の……お色が……好きだから……わたし……紫の服を着たかったんです……」

「……」

「紫を、否定しないでください……! わたしの、好きな人の色を、否定するなら、わたしだって、怒ります……!!」

「……愚かな女め」


 クモ姫が立ち上がり、アーマイゼの側に歩いてきた。そして、両手を広げる。


「おいで」

「っ!」


 アーマイゼがクモ姫の胸の中に飛び込んだ。


「ぐすん……! ぐすっ! ぐすん!」

「んん。泣くな。アーマイゼ。お前が泣いたら、ハチが心配してしまうぞ」

「だって、クモ姫様が、……クモ姫様のお色を、否定するから……! わたし、悔しくて……!」

「しかしな、アーマイゼ、お前はやはり黒が似合うと思うんだ。わたくしは、黒に身を包んだお前に魅了されているのだから」

「……、姫様……」

「けれど、お前がどうしてもわたくしの色が好きだというのであれば、お前に似合いそうな紫のドレスを作ってもらおう。そして、それを着て、わたくしの隣にいなさい」

「……はい……」

「もう泣くな」


 アーマイゼの上げられた顔を見て、その頬に手を添える。


「泣かないでくれ。アーマイゼ」

「……クモ姫様……」


 クモ姫の長細い指がアーマイゼの涙を優しく拭った。アーマイゼの潤んだ瞳がクモ姫を見る。クモ姫がアーマイゼを見つめる。距離がどんどん近くなり、やがて、――唇が重なった。


「ああ! 火山の噴火が止まったー!」

「太陽が! 太陽が見えるぞ!」

「火事になった家が元通りに!」

「地震が止まった!」

「地割れが元に戻っていく!」

「神様が現れたのじゃ! わしらは救われたのじゃ!」


 城下町の人々が喜ぶ頃、クモ姫とアーマイゼが熱い熱いキスを交わしていた。クモ姫はアーマイゼの腰に手を当て、決して離さない。喧嘩をして距離が開いた分を埋めるようにキスをしていく。


(あっ、そんなキス、だめ……)


 アーマイゼの心臓がきゅんきゅん鳴り続く。

 一方、クモ姫の心臓がドクンドクンと鳴り続く。


(アーマイゼ)


 唇をむさぼるように。


(アーマイゼ)


 もっとアーマイゼが欲しい。もっと欲しい。もっともっと。もっと欲しい。


(抱きたい)


 一つになりたい。


(いや、だめだ。まだ、待て)


 仲直りしたばかりで、そんなの良くない。


(……ぐっ……ぅ……)


 なんとか欲をこらえて、アーマイゼのために無理矢理性欲を抑えつけ、クモ姫がアーマイゼを抱きしめた。


「アーマイゼ……」

「……クモ……姫……さま……」


 抱かれる手が熱い。唇が熱い。


(もっと……欲しい……)


 だめ。こんなこと考えるなんて、はしたない。


(だけど……)


 一つになりたい。また、クモ姫と、あの一晩の幸せなひとときのように。


(わたし……)


 あなた様が、大好きだから――。


 アーマイゼからクモ姫に唇を押し付けた。


「……んっ……」

「っ」


 クモ姫が目を見開き、――ふっ、と力が抜けて――優しく抱きしめて、唇が離れて――それでも、視線だけは離さない。


「……怒鳴ったりしてごめんなさい。クモ姫様……」

「わたくしもお前の気持ちを理解せず、悪かった」

「姫様は、何も悪くありません……! わたしが、わがままだから……」

「お前は、わたくしの色のドレスを着たかったのだろう? 可愛いわがままではないか」

「……クモ姫様は……優しすぎます……。少しくらい、お仕置きしてくださってもいいのですよ……?」

「また泣くだろう?」

「わたしが悪いのだから、我慢します……」

「……そうか。では……」


 クモ姫がアーマイゼの顎を掴んで、上に上げ、……美しく微笑んだ。


「わたくしが満足するまで、お前の唇をいただくことにしよう」

「クモ……ひめ……さま」


 使用人たちは思った。すげー。虹が出てるよ。なんて素敵な青空なんだろう。すべてが平和に戻りやがった。もう絶対喧嘩しないで。頼むから。城下町に住むみんなは、再び訪れた平和に感謝して万歳をしていた。


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