冬の痕

 この日にすると決めていたのに、ぐずぐずと躊躇ためらううち、夕日が空に滲み広がる。


 秋人が重い腰を上げた頃にはすでに黄昏が村を覆い、雪までが舞い始めた。


 冬が長い。


 春が来ればこの村から離れて新しい生活が始まるのだ。

 だが、そんな日が本当に来るのだろうか?


 さくり。さくり。


 道を逸れると、処女雪が足を柔らかく受け止める。今は空き地となった村はずれに廃小屋はあった。

 忌まわしい小屋だ。誰もがその存在が消えることを願い、視界と記憶から弾き出した。


 扉を叩くと、酷く軋んだ。

 暗く冷たい場所だった。氷の温度を宿すコンクリの床に、隙間だらけの木の壁と天井。昔は物置だったはずだが、今は何も残っていない。吐き出した溜息が白い塊となって昇る。


 十年前の今日この日、美冬はここで命を落とした。六歳だった。


 あの日、冬の夕方のかくれんぼ。最後のはずの一勝負で、真先に美冬に見つかった。鬼で終わるのが嫌で、もう一勝負と駄々をこねた。


 そして秋人は美冬を見つけられなかった。


 飽きて帰ってしまったのだろうと安易な判断をして、秋人たちは帰路に着いた。


 美冬は家には戻らなかった。


 普段は施錠されている村はずれの廃小屋が開いているのを見つけて、丁度良いと隠れたのだろう。それと知らずに小屋の持ち主は鍵をかけてしまった。美冬の両親は娘が帰らないと人に言うことを躊躇ちゅうちょした。……そして、秋人は美冬を探さなかった。


「……十年、か」


 吐く息の白さを不思議がって捕まえようとした幼馴染の姿を思い出す。吐息にも増しておぼろげな姿にしかならない。美冬のことを、秋人はもう忘れているのだ。歳月が彼女を風化させる。


 美冬の両親はどこかへ行ってしまった。彼女が六年間を生きた家は人の手に渡り、新しい家族の色に染まっている。

 彼女の痕跡はもうどこにも残っていない。誰もが積極的に避け、忘れようとし、そして忘れている。秋人も同じだった。


 忘れているというのに、秋人は美冬に縛られている。


 好きな料理が食卓に並んだ時。同年代の子供たちと遊んでいる時。気になる女子と目が合った時。雪が綺麗だと思った時。

 日々のちょっとした喜び、幸せを感じる度、それを見つめる冷たい視線を意識する。喜びも幸せもあってはならないものだ。彼女を見つけられなかった罪は、どこまでも秋人を追いかけて来る。


 あの日かくれんぼなんてしなければよかった。駄々をこねずに鬼で終わっていればよかった。彼女を最後まで探せばよかった。彼女を見つけられなかったことを大人に話せばよかった。

 後悔が生み出す限りない仮定はどれも些細なもので、可能性をことごとく取りこぼした秋人を一層責め立てた。


 ほんの少しでも歯車が違えば、消えない罪を背負うこともなかったのに。

 そんなことを思ってしまった自分の醜さは、幼い心を深刻に傷付けた。


 やがて秋人は罪悪感を心の奥にしまい込んだ。決して見ない、考えない。そうするうちに、いよいよ目を向けるのが怖くなった。常に存在を気にかけているくせに向き合うこともできず、窒息しそうな日々を過ごしてきた。


 あれから十年。


 春には故郷を出て新しい生活も始まる。これが節目だと思った。


「お別れを言いに来たんだ」


 過去の幻想に向けて秋人は言葉をかけた。


「志望校に合格してね。村を出るんだ。……まだ引っ越しには間があるけど、君に報告するなら今日しかないと思って」


 指先が冷たい。両手を擦り合わせて息を吐きかける。指と指の間に生じた熱が皮膚の下でむずむずとうごめいた。美冬はもっと寒かっただろう。


「僕はずっと君に縛られて来た。だけどやっぱり、先に進まなきゃいけないと思うから」


 秋人は美冬を見つけることができなかった。その事実は永劫変わらない。


「助けてあげられなくてごめん」


 それでも前を向かなければならない。


 気が付けば秋人の手は祈るように折り合わさっていた。

 言葉にしたいことはたくさんあった。だがどれほど言葉を尽くしても、心の丈には満たなかった。


「さようなら」


 万感込もった単純な言葉を懺悔に換えて、後悔の象徴たる小屋を後にする。


 廃小屋跡地に積もった雪を、月の光が照らしていた。どこからか運ばれた風花が、秋人が刻んだ足跡の上に落ちる。傷を労わるかのように。


 冷たい空気を吸って、熱い息を吐いた。胸に詰まっていたものが少し軽くなったような気がした。


 体幹の熱を体の隅々に送り出そうと張り切る血の流れが、秋人の頬を赤く染める。


「……寒いな」


 言葉は体温と同じ熱を持っている。

 生きているというだけで、秋人の身体は熱を生み出し続ける。肌に貼り付いた雪はすぐに解けて頬を伝った。


 冬は間もなく終わる。

 春が来れば秋人は住み慣れた故郷を離れて、新しい世界を開く。


 春はもうすぐやって来る。



*****



 優しい青を湛える空から、柔らかな熱が降り注ぐ。風に同居する冬と春の匂いが胸を満たすと、不思議な郷愁を掻き立てた。

 故郷の山を振り仰げば、若々しい緑が輝いている。


 古い車が音を立てて稼働すると、排気ガスの臭いが立ち昇った。母が秋人を呼んだ。小さな村から都会へ旅立つ若者を見送ろうと集まった村人たちが口々に祝福を述べ立てる。秋人は穏やかに笑んでそれを受けた。


 ふと、秋人は廃小屋に目を向ける。小屋を閉ざす純白に、少女が佇んでいた。瞬き一つで彼女は消えて、ただまっさらな雪原が残された。


 秋人を乗せて車は走り出す。


 故郷が遠ざかってゆく。道路上の残雪が途切れると、移動速度も上がった。秋人は来た道を振り返る。


 雪の上に黒く刻まれたタイヤ痕は故郷へと繋がっている。車の進む先には未来がある。


 雪の中の廃小屋は、後ろへ後ろへ、流れ去る。


〜Fin 雪を溶く熱 Sorrow Snow 〜

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雪を溶く熱 SS 文月(ふづき)詩織 @SentenceMakerNK

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