第4話

「昨日は本当に済みませんでした!」


 目の前で頭を下げる、私より一回りは年上の女性に私は困惑しながら手を伸ばした。

「いえ。私のほうこそ、つい感情的になってしまって……」

 この人は、しがないWEB小説家の私を拾い上げ、書籍の出版にまで導いてくれた大恩ある編集者だ。

 閉所恐怖症の上、乗り物酔いが酷く長距離の移動ができない私のために、わざわざ野を越え山を越え私の地元まで打ち合わせに来てくれている。


 昨日は一本の長編を書ききったあとの初めての打ち合わせで、次回作に対する私と彼女の考えが真っ向から対立し、かなり険悪な雰囲気で別れたのだ。

 仕切り直しの今日、お互いに頭を冷やし、それぞれの言い分と現実的な問題との擦り合わせを行い、方針を決めていかなければならない。こんな辺境の地に、忙しいこの人を何泊もさせるわけにはいかないのだ。

 まだ早朝と呼んでも差し支えない時刻、駅中の喫茶店で顔を突き合わせた私たちは、互いに頭を下げ合い、打ち合わせを始めた。

 それでも私の頭は、ぼんやりと昨晩の記憶を反芻していた。

 目の前の彼女の言葉も、それに応える自分の言葉も、半透明になって頭をすり抜けていく。


『東京に行くことになってさ』


 彼はそう告げると、ゆっくりと含むようにしてマグカップの中身を飲み干し、帰っていった。一人残された私は、ぽかんとしたままベッドに座り込み、たっぷり一時間ほど固まっていた。

 聞けば彼のバンドが契約したレコード会社は、音楽事情に詳しくない私にも聞き覚えがあるほどの大手で、そりゃあそんな会社と契約したうえで活動拠点がこんなド田舎というわけにはいかないだろう。


 東京。

 長距離の移動が難しい私にとっては、そんなのニューヨークや月面と変わらない。

 きっとこれまで以上に、会うことは少なくなるだろう。

 いや、ひょっとしたら、これっきり……。


 どうにかこうにか起き上がった私は、ほとんど自動運転状態で着替えと化粧落としを済ませると、思考を完全に停止させて就寝した。

 そして、今現在にいたるまで私の思考回路はショートしたままで、流石に昨日喧々諤々にやりあった相手の様子がおかしいことくらいはすぐに分かるのか、担当さんは「一息入れましょう」と言って、ホットココアを注文してくれた。


「ああ、また降って来ちゃいましたね」

 柔らかな湯気越しにかけられたそんな言葉に、私が窓の外を見てみれば、明け方には降りやんでいたはずの雪が、またちらほらと舞い始めていた。今日は少し風もある。

 そして、私は見た。

 眼下の駅のホーム、急行待ちの人の列の中に、昨日見送ったときそのままの姿で佇む、一人のロックミュージシャンの姿を。


 本当は、分かっていたはずだ。

 彼の才能がこの町に収まる程度であるはずがない。両親だって世界をまたにかけるアーティストなのだ。彼自身、いつかは遠い世界に旅立っていくだろうことは、私にだってわかっていたはず。


 けど、そのは、いつだって今日じゃないいつかのはずだったのに。


「美冬さん?」


 慌てたような担当さんの声に我に返ると、視界が熱くぼやけていた。

 頬に何かの伝う感触。

 掌に、雫が落ちた。


「ど、どうしました?」

 そんな彼女の声が、どこか遠くに聞こえる。


 ああ。

 この感情に、なんと名をつけよう。


 テーブルの上の紙ナプキンで手を拭えば、まるで雪を溶かすように、熱い染みが広がり、すぐに冷えていく。

 私の脳裏に、見渡す限りの広大な雪原が見えた。

 私の流した涙は、雪を溶かし、地面に吸い込まれ、緑を芽吹かせる。

 果てない荒野。

 往く人は、遥か遠く。

 私はただ、この場所で涙を流す。


 そうだ。

 そんなこと、とっくの昔に分かってた。

 とっくの昔に、心に誓ったはずだ。


Change the涙の理由 reason of tears変えよう


 こんな感情もの、ただの、創作の糧じゃないか。


「あの。新作、こういうのはどうですか」

「え?」

 素っ頓狂な声を上げた担当さんに、私は熱に浮かされたようにアイデアをぶちまけた。


 それは、歌で世界を切り拓く物語だ。

 着の身着のままで異世界に放り出されたミュージシャンが、ギター一つで世界を渡り歩き、闇夜に飲まれそうな人の心を救っていく。

 剣を突き付けられても、魔法の嵐にさらされても、彼は歌うことを辞めない。

 自分の歌に何の意味があるかなんて、彼は気にしない。

 ただ、歌うだけだ。

 それが彼にできる、唯一のことだから。


 譫言のような私の話を丁寧に聞き込んでくれた担当さんは、私の両手を握り締めて、力強く頷いた。

「やりましょう、美冬さん」

「いいん、ですか?」

 正直、彼女の出してきた要望とはかなり食い違う作品になると思う。出版社自体の希望とも。それでも、彼女の目には、強い光が宿っていた。

「通します。売ってみせます。任せてください」


 それは、私のよく知る誰かさんの目にそっくりで、私は思わずくすりと笑ってしまったのだった。



 秋人は、きっと向こうで活躍するだろう。音楽なんて興味ない私の耳にも聞こえるくらいの曲を、この陸奥の町まで届けてくれるだろう。

 だから私も、小説なんて全然読まないあいつの目にさえ留まるくらい、もの凄い小説をぶっ書いてやろう。



「美冬さん。新作のタイトルはどうしましょうか」

「ううん……」


 そんなの決まってる。

『雪を溶く熱』?

 やだな。それはさすがに安直すぎるでしょ。


「『雪を溶く歌』」

「いいですね」


 それはきっと、一面の雪原を溶かし尽くすくらい、熱い物語になるはずだった。



                  了

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雪を溶く熱 lager @lager

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