第7話 遠くで見ている僕より
「先輩! なに見てるんですか」
放課後の部室に、微笑ましそうにスマホを見ている先輩がいた。夏の暑さもそろそろ溶けて、涼しい季節がやってくる。扇風機の首を先輩は私の方へ向きを変える。
「蓮が抜けたグループライン。二人とも心配してたから、近況を教えてあげたんだよ」
「でも、月白さんってもう小説を書かないんじゃ」
「本人はそう言っているけどな。大丈夫、きっといい方向へ行くよ」
「そうなんですか?」
「ちょくちょく連絡をとりなおしているんだ」
「よかったです。ということはなにかいい報告でも?」
「近々例の本が出るらしいぞ」
「おおっ! 先輩も負けてられないですね」
「……」
先輩は首をぽりぽりと掻く。そして照れて、
「立花ちゃん。君に、俺が小説を書く理由になってくれないか?」
「理由、ですか……」
私が「理由」にある。私が? まだ何者でもない私が?
先輩の小説には、勿論多くのファンがいる。私よりも先輩の小説を愛していて、小説で先輩を見ているファンがいるだろう。私はそれを上回れるのか。
月白先輩にとっての八知さんのように、私も先輩にとっての「何か」になれるのだろうか。
「どう……なんだ?」
ゆっくりと確かめるような物言いに、先輩は私が「理由」になってもいいと、認められるだろうか、という恐れがあるのを感じた。私は先輩の全部を肯定してあげたい。それが伝わっていないのが悔しかった。
「嬉しい、嬉しんですよ、先輩。でも──」
私はその時、否定の言葉を口にした。先輩はそうか、と残念そうだった。
それ以来、私は先輩に話しかけ辛くなった。次に先輩とゆっくり話したのは、先輩が月白さんに連絡をもらった時だった。一ヶ月くらい間が空いていた。
出版関係で東京に出ると言うので、久々に話さないか、というのがきっかけだったらしい。
「やあ、久しぶり」
東京まで来てファミレスか、私は少し呆れながらも待ち合わせのファミレスへ行った。月白さんはドリンクバーの紅茶を飲みながら、柔らかい雰囲気を湛えて佇んでいた。
目の下の隈がひどくなったのは、仕事のせいらしい。
「元気そうでよかったです」
私はレモネードを飲みながら、月白さんの肌の白さを見る。
「おかげさまで元気だよ」
頬杖を付きながら月白さんは、冗談を返す。
「まあ、世間話はこのくらいで。今日はこれを二人に。直接渡したかったんだ」
月白さんは二冊の本を紙袋から取り出す。
「改題して、『遠くから見ている僕より』」
「おお〜、本になるとまた違いますね〜」
「でしょでしょ。表紙絵がまた素晴らしんだよなあ。傑もそう思うだろ?」
「ああ、羨ましいと思うよ」
「ほんとか〜? まあいいや。どうせお前もすぐこっち来るんだろうし」
先輩の顔が曇る。
「まあまあ、先輩は先輩のスペースがありますから!」
「天才だもんな」
それともう一つ、と言い直して、
「これも見せたいんだ」
紐で結われた厚い紙束。
「これは来月載る小説」
「えっ。小説書かれたんですか?」
「なんとかな。辛かった。とても。何度も逃げたくなったし、何度も破り捨てた。その度に傑が助けてくれた」
にっと先輩が笑う。
「仲いいんじゃないですか。心配して損した〜」
「「そんなわけないだろ」」
「ふふ、息ぴったり」
「じゃあ、読むぞ?」
「ああ」
「あれ、読んでなかったんですか?」
「あくまで俺は蓮を励ましてただけだからな」
「雑な励ましだったよ」
「文句いうな。読むぞ」
物語は、三十くらいの女性が郵便物をポストに投函するところから始まる。その女性は、いつも何かの存在を忘れているような気がしていた。それを思い出せず、喉につっかえた魚の小骨のように何かがつっかえているような、そんな生きづらさを感じていた。
またある時、自宅のポストで郵便物を受け取る男性がいた。女性の郵便物と男性が受け取ったそれは、別物で、二人は生まれも食の好みもスポーツも趣味も何一つ噛み合わない、そして互いに互いの存在を知らない。
けれど、二人はそれなりに幸せで、それぞれの幸せがあって、二人は死ぬまで出会うこともない。
男性の唯一の後悔というか、人生の失敗は、未だ見つからない運命の人を信じていることだった。それが男性の生き辛さの原因だった。
男性は、少年の時一瞬だけ、運命に近い人を探した。答えは意外と近いところにあって、すぐに見つかる。男性はそれで妥協した。その人と人生をともにすることを決めてしまった。
女性は子供の頃夢に出てきた男の子に恋をした。それ以来まともな恋をしたことがなく、たまに見るフィルムの焼ききれそうな夢で安らぎを得ている。
「タイトルは?」
「ないよ。こんな小説にタイトルなんてつけられない」
物語はそこで終わっている。あっけないと言うか、あっさりしている。
「でも、載せてもらえる小説なんですよね? なにか理由があるはず。だったら何でもいいからタイトルがないと」
「じゃあ……『無題』で」
「月白さんらしいです」
「ありがとう」
「先輩は──」
ふと先輩の顔を見る。先輩の整った顔は、何一つ崩れず、月白さんの小説のラスト三ページを行ったり来たりしている。
「そろそろ時間だ」
月白さんが切り上げる。じゃあねとまたねで別れを告げて、私達は帰路へ着く。
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