第3話

あの先へ連れて行く。五十メートルのその先へ。その約束はここから始まった。〉


『車ひき逃げ 容疑者を起訴』

 暑い外気から電車内に避難するとスマホニュースが私にそれを報せた。月白さんはあのあとシャワーを浴びて、すっきりしたがどこか浮かない表情をしている。先輩はもっと浮かない顔をしている。ごめんなさい、隣同士に座らせて。

 ローカル線なので、車内はガラガラ、おまけに冷房も強の強といったところだ。

千葉某所の海岸、月白さんに連れられて二、三十分。一度も会話しないまま。

「着いてしまった……」

 これ、帰りを想像すると辛いなー、なんて思いながら私達は駅を出て、目的地へと歩いていた。

「立花ちゃん、水分補給は大丈夫?」

「あっ、大丈夫です……!」

 先輩は、会話のないあの空気が苦痛だったのか。些細なことで気にかけてくれる。

 移動にだいぶ時間を食ってしまった。もう日が沈みかけている。

 凪いだ海、沈む景色。それを背景に月白さんが切り出す。

 潮の匂いがツンと鼻についた。

「二人は、先に僕に何か訊きたいことでもあるかい」

 私と先輩は目を合わす。

「特には」と言ったのは、私だ。

「あの時は、ああ言ったけどさ、俺は月白を憎み続けるべきなのか?」

 ふっと嘲笑したような息を吐いて、

「好きにしなよ。君は僕のことなんて一生わからないよ」

「なんでわかるんだよ」

「わかるよ。僕と君は違う。前にもこういうことあったろ。あの時は僕が助けたけどさ」

 私には二人が何の話をしているのかわからない。二人はどこまで遠く繋がっているんだろうと思うと胸が痛んだ。

「ところでさ。立花さん、だっけ?」

「あ、はいっ」

「小説、書いてる?」

「書いてます! でもなかなかいいものが書けなくて。これだ! っていうものがないんですよね。だから、掲載もまだまだで」

「あとで読ましてよ」

 じっと私の瞳を見る月白さんは、とても魅力的に見えた。もちろん、人として。じっくり観察をするような瞳なのに、嫌悪感を抱かない。オーラのある人間って、こういうものなんだろうか。それより、読んでくれるというのがまた嬉しい。

「わかりました……下手ですけど」

「うん。立花さん、小説を傑に教わったりしている?」

「いえ」

「うん。それが賢明だよ。こいつに教わるべきではない」

「おい」

 先輩が横槍を入れる。「ははは、冗談だよ」とうまい具合に躱す。

「こいつには才能があるからね。教え方が下手なんだ」

「さっきからなんだよ」

「なんでもないよ。じゃあ、そろそろ。僕の話でも」

「お願いします」

「まっ、特に話すことはないんだけどね。そうだなあ。ここは、彼女と約束した場所だったんだ」

 月白さんは当時を思い出すように空を仰いだ。

「僕が彼女と出会ったのが、この近くで。ここで僕は彼女に最高の小説を贈ると決めたんだ」

 素敵ですね。その言葉をぐっと飲み込む。「でもこの約束も形なしだ」

 月白さんの声が震える。鼻を啜る。

「なあ、傑。僕はこの先僕が何をしていけばいいのかわからないんだ」

 風が強く吹いて、波が荒れる。

「なあ」

 その声音はとても弱々しくて。

「なよなよしてるなよ」  

 先輩がそんなことを言った。

「なよなよって……」

 月白さんが、嘲笑する。

「僕は、凜々花が全てなんだぞ? 凜々花も僕が全てだったはずだ! お前は、ほんと何もわかってないよ……」

「わかってないかもしれないな。でも八知さんはそんなこと思わないと思うぞ」

「怒ってるのか?」

「怒ってない」

「違う。あのときのことだ。恨んでるんだろ。僕のせいだって裏では思ってるんだろ。これも、こういうことだろ」

 月白さんは思い出したようにスマホを取り出した。充電が未完了のまま家を出たため、スマホはもう虫の息だ。

 月白さんは、先輩とのトーク履歴を示す。

『僕は凜々花が読んでくれるから楽しいよ。傑の小説も好きだし』

「あっ」

 画面の最上にはそのメッセージがあった。私がその上を見るには気が引けて、見なかったやつ。それを月白さんはスクロールする。直前の先輩のメッセージが表示された。

『小説を書くのをやめたい』

「これだよ。あのとき僕が、小説を書くのを勧めたから、こうなってしまったわけで、君は小説を書きたいわけじゃないんだ。だから恨んでるんだろ」

「そうだよ」

 先輩は簡潔にそう答えた。重いその一言を言い終えて、先輩はすっきりした顔つきになる。これを言うために、先輩はどれだけの労力を費やしたのだろう。なかなか書くのをやめられない状態にあったのだから。と同時に思い出す。私は、あの言葉を。信じてきた一つの言葉を。

『立花ちゃんは、才能あるよ。小説を書く才能。だから頑張って。書き続けてればわかるよ。俺も書くからさ。だから才能ないなんて言わないで』

 縋っていた言葉が、少しずつ砂になって消えていくようだった。もう嫌だ。私の理想が、憧れが、どんどん消えていく。先輩はそんな人じゃない。先輩はもっと……。

 誰かがなにかを言うたび、誰かの心が折れていく。そんな中、月白さんは意識を別の何処かにやりながら言った。

「だから僕は決めたんだよ。もう僕は小説は書かない。もう存在証明をする必要もないしね」

 月白さんが言うと、なんだか実感がわかない。とても悔しそうだから。ぜったい諦めてないから。

「この世界には絶望したんだよ」

 取り付けたようにそう言う。

「もう僕も終わりだ」

「それは自殺するってことですか? あ」

バカみたいな質問をしてしまった。月白さんは、気にも留めず、

「しないよ。血が苦手なんだ。リストカット、してみたかったんだけどね。犯人に復讐も無理だよ。勝手に死んでくれればいい。僕がやったところで無駄だ」

 月白さんは、言葉を発していくたびに無理な望みを口にしていく。先輩はなにも言わない。

「この世は才能のないことが多いよ。人はもし何かの才能を持っていたとしても、大抵その才能は見つけられない。見つけられないんだよ傑」

「わかってる」

 先輩の返事はシンプルで、なのに反発の無い同意は心にすっと入ってきた。

「ごめんね、立花さん。こんなことに巻き込んでしまって」

「いえ」

「君を見てると昔の僕を思い出すよ。一途な目、上手くいかない辛い現実を抜け出そうともがいてる感じ。君も楽になれる日が来るはずだよ」

「はい、ありがとうございます」

 妙にピンとこない一言だったが、覚えておこう。

「さて、帰ろうか。もう日が暮れる」

 とその時、先輩のスマホに電話がかかってきた。電話の相手にたじろぐ先輩。何やらブツブツと話し込んでいるが、会話の内容までは聞こえない。

「あの、月白なら今ここにいます」

 月白さんのことを訊かれたのか、先輩はそういって月白さんに手渡した。

「相坂っていう蓮の編集者」

「そうなんですね」

 私たちのこそこそとした会話には目もくれず、月白さんは相手と棘のある口調で遣り取りを重ねていく。

次第に語気に怒りが含まれていって、

「もう僕は小説を書きません」

 そう言い切って、通話を切った。そして自分のスマホの電源を切る。その徹底ぶりに私は感心した。もう覚悟は決まっているんだな。

 憧れの人が一人消えた。そこで失ったものは、私にはあまりにも大きかった。

「八知凜々花」とは一体どういう人物なのだろう。

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