5章 CROSS † DREAM

5章 CROSS † DREAM その1

「わたし、あなたが助けてくれたことを絶対に忘れないわ」

 そう言って帰った本月はその25日後、彼女の記憶から風に吹かれた雨雲のようにすっかりどこかへ消え去っていた。


 失意の谷底から空を見上げていた。

 白い灰色の雲から雨が降っている。

 その光景だけを素直に切り取れば、腕のいいカメラマンなら芸術的な光景に昇華させるのかもしれない。

 しかし真っ当な教育を受けている者ならば、それは大気汚染された酸性雨もどきの身体に有害な物質であることは重々承知しているはずだ。

 この世には視覚で得た印象以上に心身へ悪影響を与えるものが多い。

 だから人はそういったものから無意識に、あるいは意図的に目を逸らして生きていこうとする。その努力が実を結ぶかどうかは別として。


 いつまで立ち止まっていても仕方がない。

 俺は溜息を吐いて、歩き出そうとした。


「待って」

 背後から声をかけられた。

 別に足を止めてやる義理はない。聞こえないふりをしてこのまま歩き続ければ、諦めるかもしれない。そのまま去ってくれれば好都合だ。

 だけど俺は律儀に立ち止まり、振り返って声の主を見やった。

 本月だ。胸に手をやり息を弾ませている。傘をさしているにもかかわらず服や髪が少し濡れていた。


「ねえ、さっきのどういう意味?」

「どういう意味って?」

「だから、カフェでお茶をしたとか、バーで一緒にカクテルを飲んだっていう話」

「お前は覚えていないんだろ?」

「……ええ。だってまともに話したのは今日が初めてじゃない」

 本月の言っていることは間違っちゃいない。

 6月1日。今日は俺と本月が初めて出会い、言葉を交わし、愛を誓い合った日。

 だがそれはもう2週前の6月のことだ。

 1週前の今日は彼女に忘れた傘を届けた。

 そして今回の本月は、そのどっちの6月のことも覚えていなかった。


 自分だけが覚えていて、本月は全て忘れていく。

 そのことにいい加減、疲れてきた。


「もう終わりにするよ」

 俺は吐き捨てるように本月に言った。

 彼女は首を傾げる。無理もない。講義室でしか会わないような接点の薄い男からこんなこと言われたって、意味わからないだろう。

 だけど俺は決別として、彼女に告げなければいけなかった。


「本月、お前とはもうかかわらない」

「……わたし、沖田君に何かした?」

「いいや。別に」

 本月は何もしていない。

 今回の彼女は生まれたばかりの赤ん坊に等しい。5月までの記憶は有しているかもしれないが、そんなものを持っていたところでこの永遠の6月の世界で、なんの役に立つというのだろう?

 この無限反復世界で真に必要なのは、薄っぺらい過去の思い出ではない。幾重にも繰り返される6月の記憶こそが重要なのだ。


「ねえ、今日の沖田君……何か変よ」

「変? いいや、変なのはお前の方だ」

「わたし?」

 眉間にしわを寄せ、首を傾げる本月。

 俺はうなずいて、言い放つ。

「本月……お前はこの世界では生きていないに等しい」

「意味が理解できないんだけど」

「人は記憶を継続して持ち続けることで生きている。そうしてできあがるのが自我だ。それが必然的に周期的に途切れて、しかも自覚症状がないとしたら、ソイツは人間として認められない」

「……哲学? それとも、宗教かしら?」

「いいや、現然たる事実だ」


 本月は呆れたようにため息を吐き出して言った。

「人の思想や信条にとやかく文句をつけるのは好きじゃないんだけど、学友として忠告させてもらうわ。変な宗教に入るのはやめておきなさい。時間の無駄よ」

「宗教になんて入ってない」

「なら、そのよくわからない言説はなんなのよ?」

「厳然たる事実だ」

 本月は額を押さえてかぶりを振った。


 雨脚が強くなる。

 本月の姿が段々と煙っていく。

 俺は彼女に何か言おうと思った。けれで雨音に掻き消されてしまったかのように、その言葉はたちまち消えてしまった。

 本月も何も言わず、地面を眺めてその場に立ち尽くしていた。


 気の遠くなるような、長い時間が経過した後。

 俺は本月を視界から外し、ゆっくりと背を向けた。

 コンクリートの地面に目を落とし、彼女から遠ざかる。

 もう声はしない。振り返ると本月はまだ足元を見つめて突っ立っていた。

 視線を前へ向け、足を速める。だが後ろ髪を引かれるような思いは心にこびりつくように残っていた。

 地面を蹴って走り出した。

 傘が防いでいた雨が体にかかってくるが、構っちゃいられない。口の中に水滴が入って何度も咳き込んだが、脚は止めなかった。ひたすらに雨中(うちゅう)を走った。

 どこからか雷の轟きが聞こえてきた。


   ●


「お帰り、お兄ちゃん……って、わっ。びしょ濡れだね」

 家に帰るなり、パジャマ姿の雪奈が出迎えてくれた。

「傘、持ってたんでしょう? ささなかったの」

「……風に煽られたんだよ」

「んー……、風なんて吹いてたっけ?」

「家の中にいたから、気付かなかったんじゃないか」

「あー、そうかも」

 俺は靴を脱ぎ、びしょびしょになった靴下も指でつまんで脱いだ。


「あ、お風呂入る? 雪奈が沸かしてあげるよ」

「……いや、いい」

「ダメだよ、そのままじゃ風邪ひいちゃうよ」

「……サヤに行く」

 雪奈は目を丸くして「えっ?」と声を上げた。

「まだ集合時間までたっぷり時間あるよ?」

「少しでも探索進めないと、ずっと永遠の6月にいることになるだろ」

「危険だよ。6人そろってからじゃないと、コイグチの外の探索は……」

「街の中なら、一人でも大丈夫なはずだ」

「だけど……、万が一ってこともあるし、って、ちょっと待って!」


 式台に上がろうとしたら、慌てて止められた。

「そのままじゃびしょびしょになっちゃうよ。待ってて、タオルとか持って来るから」

 雪奈はどたどたと風呂場の方へ走っていった。

 その後姿を見て、少しだけ気が緩むというか、胸のもやもやが晴れた。


 シューズボックスについている鏡を見ると、濡れ鼠になっている自分がいた。

 よくイケメンを水も滴るなんとやらと言うが実際の有様を目にすると、ただ近づきがたいだけだった。雪奈に身だしなみを整えてもらった方がよっぽどまともに見える。

 少しして彼女が戻ってきた。

「お待たせ。吹いてあげるから、じっとしてて」

「ああ」


 雪奈が近づいてきて、まず髪をタオルで拭いてくれた。もどかしくなるぐらいゆっくりと、じれったくなるぐらい優しく。

 冷え切って熱に餓えた体は眼前にある雪奈の温もりを垂涎するかのごとく渇望していた。

 いや、もしかしたらこの全身から垂れる水滴が涎そのものなのかもしれない。

 だとしたら俺は、どれだけ雪奈のことを求めているのだろう……。


「どうしたの、呆けた顔して」

「あっ、いやっ。なんでもない、なんでもない」

「なんかこう、お腹空いたなーみたいな顔してたよ」

「そういや、昼飯食べてないな……」

「じゃあ、雪奈が用意してあげるよ」

「ほう。メニューは?」

「……ラーメンとカレー、どっちがいい?」

「ラーメンで」

 おそらく3分で出てくることだろう。




 円柱型のカップ麺を食べ終え、俺は食後のコーヒーを啜っていた。

 向かい側でタブレットを操作していた雪奈がふと「あれ?」と首を傾げた。

「おかしいなあ……」

「今日は6月1日だから、昨日までのデータは消えてるぞ」

「ううん、そうじゃなくて」

「じゃあ、なんだ?」


 タブレットを置いた雪奈が、難しい顔で天井を仰いだ。そこでは円い照明が白い光を居間に投げかけている。

「数字がね、合わないの」

「数字って、家計か?」

「ううん。世界総人口」

「……世界総人口? それって、世界中の人間がどれだけいるかってことか?」

「うん。なんとなく調べてみたら、予想外の数字で、変だなあって」

「予想外って、どんな感じに?」

「うんとね、ループする前の数字より一千万人は少なかった」

 頭の中でいっせんまんにんが一千万人に変換されるまで少しばかり時間を要した。


「それ……死にすぎだろ!?」

「普通なら、一日の平均者数って大体15万人程度だしね。第二次世界大戦の死者数だってこれより百万人近くは少ないよ」

「マジか……」

「SNSもニュースも、そのことで持ち切りだよ」

「もしかして……バタフライ・エフェクトの影響か?」

「うーん……」

 雪奈はメトロノームのように左右に頭を傾けてうなっている。


「まあ、さすがにわからないか」

「もうちょっと調査しないと、なんともね」

「原因不明の大量の死者……。今回の6月はなかなかハードみたいだな」

「うん。現実世界にいる時も、十分に注意しないと。……あ、そういえば」

 一旦言葉を切り、口元に人差し指をやり雪奈は首を傾げた。


「どうしてさっき、こんな早い時間にサヤに行こうとしてたの?」

「それは……」

 俺は宙に言葉を見つけるがごとく、視線を泳がせた。


「……まあ、なんだ。こう何度も6月を繰り返してると、じめじめした空気がイヤになってきてな」

「ふーん? それにしてはかなり暗い感じだったけど」

「はは……気のせいだろ」

つうっと背筋を冷たい汗が流れる。

「で、どうするの。行くの、サヤ?」

「いや……。いいかな、別に」

「そっか」

 スマホのロックを指紋認証で解除し、時計を見やる。

 13:43だった。


「時間はまだたっぷりあるし、何するかな……」

 そのままスリープモードにして、ズボンのポケットにしまう。

 雪奈は意外そうにちょっと目を見開いた。

「ソシャゲはやらないんだ?」

「イベントもキャラも同じだと、やる気がなぁ……」

「ふぅん……。お兄ちゃん、変わったね」

「変わった?」


 伸ばされた細い人差し指が、虚空に一本の透明な線を引く。

「断絶された6月と7月。原因は未だ不明瞭だけど、それゆえにいつこの永遠の6月が終わりを迎えるかはわからない。だからこそお兄ちゃんが本当にソシャゲを大事に思うのなら、今この時も休まずにプレイし続けなきゃいけないんだよ」

「まあ、デイリーミッションとかあるしな」


「すごいね、お兄ちゃん。ゲームの中毒性に打ち勝ったんだ。もっとも他にも中毒症状を起こすものはいくらでもあるけど、世界で最初に研究用に注目されたのがゲームだったんだよ。ソ連が開発した世界的人気ゲームの『テトリス』。医者のウラディミール・ポキューコっていう人はこれを中毒性の実験に使えるんじゃないかって考えたぐらいだからね。ある人なんかオンライン要素もない携帯機のテトリスだけを一ヶ月近く延々とプレイし続けたらしいよ」

「い、一ヶ月……? いや、さすがにそれは無理だろ。だってあれ積み上げて崩していくだけの単純なパズルゲームだぞ。孤独にやってたらすぐに飽きるって」

「それはお兄ちゃんが、ハイクオリティな映像演出に慣らされて態勢ができてるからだよ。だから現代芸術技術レベルの水準、ソシャゲの虜にはなっていたでしょ」

「可愛いイラストのキャラと声優さん、それに超カッコイイエフェクトにアニメーションもあるからな」

「でもソシャゲ自体は面白くないよね? 延々と周回するだけだもん」

「……大抵のタイトルはそうだな」

「単調な作業でも、演出次第で人間の脳はどうとでもごまかせる。それにギャンブル要素を加えたのが、ソーシャルゲームの正体だよ」


「だけど……テトリスは奥深いぞ。ルールは単純だけど」

「そう、基盤がシンプルっていうのが大事なんだよ。単純なほどとっつきやすいし、繰り返しプレイする負担が減って集中力が長続きする。結果的にどんどん沼にハマっていくの」

「……聞いていると恐ろしくなってくるな」

「別に脅すつもりはないんだけどね。ただゲームをしていると鬱になりにくくなるっていう科学者もいるから、まったくの害悪ってわけじゃないよ」

「毒にもなるが、薬にもなるってことか」

「じゃあそういうわけだから、雪奈と一緒にゲームしようよ!」

 にこっと笑って、雪奈は立ち上がった。


 突然の話題転換に俺は面食らってしばし呆気(あっけ)に取られていた。

「……もしかして、ただ遊びたかっただけか?」

「えへへ。お兄ちゃん最近一人遊びばっかりしてて構ってくれなかったから」

 ふっと肩の力が抜けて、なんだか頬が緩んだ気がした。

「そっか。じゃあ、俺の格ゲースキルを久々に見せつけてやる!」

「えへへ、負けないよー」

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