4章 よすがのソナタ エピローグ

「さっきはありがとう」

 本月は机上のカクテルを見つめながら言った。

「当たり前のことをしたまでだ」

「いいえ。あの場には十人近くの人がいたのに、助けてくれたのはあなただけだったわ」

 彼女はグラスを持ち上げ、軽く振った。透き通った硬質な音が鳴る。

「わたしもバカよね」

「バカって?」

「合コンがどういうものか、ちょっと想像力を働かせればわかったはずなのに。自分から参加を承知したくせに、場の空気を悪くして……」

「気に病むことはない。それに、キスの強要はやりすぎだ」

「あの場じゃ、それが普通なのよ」


 端麗な顔がこちらを向き、微かに眉間にしわを寄せて目を細めた。

「ごめんなさい……。ケガをさせてしまって」

 その目は俺の前腕に向けられていた。

 俺にキスの邪魔をされたモヒカンはブチギレて、顔面目掛けて殴りかかってきた。それを防いだ際に軽い痣ができてしまったのだ。

「大丈夫だ。これぐらいなら放っておけば治る」

「でも……」

「体の傷は治っても、心の傷は癒えない。そうだろう?」

 本月はくすりと笑った。

「意外とキザなのね」

「この店の雰囲気のせいかもしれない」


 たまたまみつけたバー。店名はなんだったか……、紙ナプキンを見ると『Luna』と書かれていた。

「ルナ……月かな?」

「店の名前?」

「そう」

「あってるわよ。でもルナじゃなくて、ルーナね」

「ルーナ?」

「そう。イタリア語」

「へえ」

「わたしが今飲んでいるのも、イタリアのカクテルなの」

「そうなのか?」

「ええ。ベッリーニって言ってね。ルネッサンス期の画家、ジョヴァンニ・ベッリーニの描いた聖人のトーガの色に由来してるの。ほどよく桃が溶けた後の、ピンク色がね」

 本月の手にあるグラスには、茜空のようなプロセッコというワインが満たされ、そこに夕日のように淡く白いピューレのされた桃が入っている。

「ヴェネツィアにあるハリーズ・バーが発祥だそうよ」

「ほう。ヴェネツィアっていうと、またお洒落だな」

「そうね。水と共に生きる人々。日本の失った文化を、今も引き継いでいるんでしょうね」


 本月は細いストローでグラスの中をかき混ぜた。桃がゆっくりとワインに馴染んでいき、色が変わっていく。

「本月はアルコールが苦手なのかと思ってた」

「そんなことないわよ」

「でも合コンじゃ、ビール飲んでなかっただろ」

「あそこは、ふさわしくなかっただけよ」

 サーモンピンクの唇がストローを挟む。グラスの中の水位が少しずつ下がっていく。

「ふさわしくないって?」

「お酒を飲む場所に」


 俺はスプリッツという、すっきりとした赤色のカクテルを飲んだ。甘くしかしどこかほろ苦い。つまみとしてついてきたしょっぱいオリーブの実をかじってから飲むと、ちょうどよく感じられた。


 会話が途切れると、ピアノの奏でる、どこか物悲しい音色に心を引き寄せられた。それはまるで風のない日の雪のように、響きの一つ一つが体の中に降り積もり余分な熱を吸い取っていくかのように感じられた。

 その音楽に耳を傾けていると、本月がぽつりと言った。

「ピアノソナタの『月光』ね」

「この音楽の名前?」

「そう。ベートーヴェンの」

「ああ、顔が怖い人の」

「肖像画一つで、印象を決めつけるのは感心しないわね」

 苦笑しながら本月は言った。


「でも、あの表情には確かにベートーヴェンの人生の一端が鮮明に描かれているわ」

「あの怖い顔に?」

「ええ。誰だってあんな人生を送ったら、呪いたくなるわ。何もかもを」

 ピアノの打鍵が急激に荒々しくなり、急流のごとく音を連ねた。

「ベートーヴェンは才能面は同時代の人にも褒められたけれど、人格は度々酷評されることが多かった。ただその性格を形成するにあたる幼い頃の家庭環境を見ると、そういった人柄になるのも納得できるわ」

「家庭環境?」

「ベートーヴェンは父親から虐待を受けていたの」

 本月はぽつりと言って唇を結んで束の間、ピンク色に満たされたグラスを眺めていた。


 一度大きく息を吐きだし、彼女は話を再開した。

「けれども彼はそれと引き賭けに、音楽の才能の地盤を築くことができた」

「それは、どうして?」

「スパルタ教育よ。……音楽のね」

 本月はグラスをカウンターに置き、サンドウィッチの切れ端をつまんで、中のベーコンやトマトを見せ隠しした。

「彼の不幸は続くわ。父のせいで家計を己の身一つで支えることになり、二十代後半で聴覚を失った」

「音楽家が難聴?」

「そう。さすがのベートーヴェンも自殺を考えたそうね。だけど彼はそのまま生きる選択をして、作曲家として後世に多くの名曲を残した」

「いい話だな」

「当事者じゃなければね」

 本月がストローをついばむようにしてベッリーニを飲んだ。次に口を離した時にはグラスは空になっていた。


「ベートーヴェンの一生は幸福だったと思う?」

「……答える前に一つ質問をしてもいいか?」

「どうぞ」

「ベートーヴェンは人生で恋や結婚を経験できたのか?」

 ちょうど『月光』の演奏は終わりを迎える。


 次に流れてきたのは笛の音だった。

 前奏が終わると、男女の外国語の歌唱が聞こえてきた。


「できなかったわ」


 かなりの時間が経ってから、本月は言った。

「結婚はね」

「結婚はってことは……」

「ええ。恋はしていたの。たくさん」

「でも報われなかった?」

 本月はゆったりした音楽に合わせるかのように、緩慢にうなずいた。

空になったグラスを下げに来たバーテンダーに彼女は「梅雨の酔い覚ましを一杯」とオーダーした。彼は苦笑しつつ「シェイクして?」と訊き、それには首を横に振って「ステアで」と返した。


 それからこちらを向き、すっと目を細めた。

「沖田君は、恋することは幸せだと思う?」

「人によると思う」

「あなた自身は?」

 俺はグラスの中のスプリッツの水面が揺れる様を眺めて言った。


「山あれば谷あり」

「うん?」

「自らつかみ取りに行くこともあれば、勝手に落ちることもある」

 女性特有の甘い鼻笑いが聞こえた。バカにしているという感じではなかった。どことなく今の本月にはリラックスしているような雰囲気がある。


「恋をするのに、わざわざ山を登るの?」

「そういう労力が必要なこともある」

「高嶺の花ということ?」

「あながち間違っちゃいない」

 ふうんと本月は首を軽く傾け、じっとこちらを見てくる。

 俺はどこかぼんやりした心地で続ける。


「山に登る恋は確かに大変だけど、決して悪いことばかりじゃない」

「もっと詳しく聞きたいわ」

「足場が悪いし、危険もある。空気も薄くなっていく。ここが本当に自分の居場所かわからなくなることだって少なくない」

 本月は真面目な顔で耳を傾けている。

 俺の口は夢遊病者にでもなったように勝手に動き続ける。


「だけど山頂に着いた時の気分は最高だ。雄大な光景は目に努力の成果を訴えかけ、風は地上のものより確かな質感をもって吹き抜けていく。眼下の雲を眺めているとここが別世界のようにさえ思えてくる」

 黙って聞いていた本月が口を開いた。

「沖田君の口ぶりからは、達成感は伝わってくるわ。でも好感がないような気がする」

「山の景色の話だ。頂上に咲く花は力強いはずなのにそれを誇示せず、謙虚に静かなたたずまいで日を受け、ただ可憐に咲いている。その姿を目にした途端、今までの疲れが吹っ飛んでいく」

「その花の名前は?」

「赤いゼラニウム」

 急激に本月の顔がゼラニウムのように色づいていく。


「その、えっと……」

「花言葉は、言った方がいいか?」

「……本気?」

「もちろん」

 俺は黙ってうなずいた。


 本月はバーテンダーが静かに差し出したマティーニを受け取り、そのグラスの表面を何度か指で撫でて言った。


「あ、あなたがゼラニウムなら、わたしはデージーになるわ」

「ありがとう」

 俺はスプリッツのグラスを持ち上げた。

 本月も同じくグラスを近づけてくる。

 カツン。触れた二つのグラスの中で、それぞれの色の水面が揺れる。

 だが何よりも濃かったのは、本月の赤面だった。


「……夢みたい」

「俺もだ」

 三度目の6月、二度目の成就。一度の破局。

「夢ならこのまま覚めないでほしい」

「わたしも、そう思う。時よ止まれ」

 もう一度グラスを触れ合わせ、本月はマティーニを一口含んだ。

 彼女は知らない。本当に時が止まっているような、今の状況を。


 その時音楽が止まった。しばらく静寂が続く。

 ふと気になって俺は訊いた。

「今の曲の題名もわかったりするのか?」

「ジュゼッペ・ヴェルディの『Guarda che bianca luna』」

「luna……月か」

「そうよ。訳すと『見よ、あの蒼白い月を』」

「この店、名前通り月で一貫してるな」

 言ってから、ハッと思い当たった。

「そういえば、本月の苗字にも月が入ってる」

「ふふっ、気付くの遅いわ。わたしは店の名前を見てここを選んだのかと思った」

「いや、偶然だ」

「あるいは奇跡かも」

 俺は笑ってうなずいた。

 それからグラスを空にして訊いた。


「……なあ、本月は運命ってあると思うか?」

「もちろん」

「それはどんな?」

「そうね」

 本月はすっと自分の分のマティーニをこちらへ押してきた。

 カクテルグラスには二本のストローがささっていた。

 そしてその二本どちらにも、リップの薄い跡がついていた。

 俺は本月の顔を見やった。

 彼女は下顎辺りから、マニキュアで薄く色づけられた爪の先で自身の唇を指差した。


 俺が自分の唇を指差すと、本月は今日一番の笑顔を浮かべて小首を傾げた。


 三曲目の音楽が流れ出す。

 穏やかでいて、どこか情景的な広がりというか、雄大さが感じられる曲だった。


 俺は唾を飲みこんでストローを見やった。

 ブラックのプラスチックの表面に、桃色が煌めいている。

 別に俺は今更そんなことに気恥ずかしさを感じる必要はないはずだ。

 けれども、体はガチガチに緊張していた。

 身体は感情によって支配されるという。ならば逆に、身体が感情の手綱(たづな)を握ることもあるのかもしれない。


 俺は汗で湿った手で、マティーニのグラスを引き寄せた。

 透き通った白い水底にチェリーが沈んでいる。

 そこから伸びた二本の黒いストロー。どちらを選んでも、同じ結末が待っている。

 自由意思で選んだと思った選択も、実はどちらもあらかじめ定められた結果である。雪奈の言葉がふと頭に浮かんだ。

 飲まないという選択肢もあるのかもしれない。だけどそれは、今の俺にはあり得ないことだった。


 グラスを持ち上げる。ストローに顔を近づけていく。

 触れた。微かに本月の温もりが残っているような気がした。リップの後も、俺の唇に少しうつっているかもしれない。

 ふわっとバニラの柔らかな香りがした。

 ストローから少しだけマティーニを吸い上げる。甘い。しかしただ甘いだけでなく柑橘系の爽やかさで口の中が澄み渡り、後味がさっぱりしている。馥郁(ふくいく)としたバニラの風味も楽しい。


 これが、本月が俺と共有したい味なのか。

 グラスを置き、彼女の方を見やる。

 さっきよりもその笑みは親密な温かさを持っていた。




 後で三曲目の音楽の名前を聞いた。

 オットリーノ・レスピーギのローマの噴水一番、『夜明けのジュリアの谷の噴水』らしい。

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