3章 疑われる者 エピローグ

 永遠の6月における区切りである、30日。


 12日から俺はほとんど抜け殻のような日々を送っていた。

 本月とは一切顔を合わせなかったし、雪奈とは表面上は普通に接していたが胸中に正体不明の疑念が巣くっているのを意識しない時はなかった。


 そうこうしている内に、俺たちはタイムリミットを目前にしていた。

 今のままでは今回の6月はなかったことにされる。


 だが俺はそのことに、どこか安堵を感じていた。

 そしてある願いを抱いていた。30日を過ぎたら俺の記憶も抹消されろ、と。

 だが猫又の話通りなら、俺たちの記憶はそのまま、新しい6月を迎えることになる。




 23:30、自宅の居間。

 今日はいつもより遅めの時間にサヤに集合することになっていた。

 この最終日になってもなお、俺たちはキーアイテムである七色の鍵を一つすら入手できていなかった。

 今更あがいたところで仕方ない。

日付の変わる瞬間は共にいるということで合意し、今日の探索は中止になった。


「あと少しでまた、6月1日になるんだ。ちょっと緊張するね、お兄ちゃん」

「あ、ああ。そうだな……」

 自分の返事がぎこちないものだということは重々承知していた。

 しかし雪奈は何も訊いてこない。敏い彼女のことだ、俺の様子がおかしいことにはとっくに気付いているに違いないのだが……。


「ねえ、お兄ちゃん」

「……なんだ?」

「雪奈、別に怒ってないからね」

 意味不明な言葉と共に、笑みを寄こしてくる雪奈。


 ……なんなんだ、一体?

 怒ってないって……あの日、外にいたところを目撃したことについてか?

 その瞬間を目撃されるのは、怒るほどにマズイことだったのか?

 一体雪奈は、なんのために外出してたってんだ……?


「……具合悪いの、お兄ちゃん?」

 気付いたら雪奈は背伸びをして、心配そうに顔を覗き込んできていた。

 俺は無理に笑みを作ってかぶりを振った。

「そんなことないぞ」

「でも、顔色悪いよ? ……あ、でもよく考えれば大丈夫か。6月1日になれば、記憶以外は全部リセットされるんだもんね」

「そうだな。今からアイスをバク食いして、腹を壊すか確かめてみるか?」

「ふふ、それ面白いかも。今は冷蔵庫にないけど、次にリセットする時に試してみたいね」

「おいおい、強くてニューゲームでもツユバライを入手できないのか」

「もちろん、全力は尽くすよ。今度こそ、7月を迎えられるといいね」

「まあな。陰気な6月とはおさらばだ!」


 俺が拳を振り上げて言うと、雪奈は目を細めて笑いながらも、少し寂しそうに言った。

「……雪奈は、6月も好きだけどね」

「そうか。でも毎日雨ばっかり降ってると、憂鬱にならないか?」

「雨って、好きなんだ。もちろん外に出ると不便でうっとおしくてうんざりするかもしれないけど、家にこもってると、雨が好きになるの」

「まあ俺も、自分が家にいて他の人たちが仕事とか学校にいる時に雨が降ると、優越感みたいなのが得られて好きだな。雨が降ってるのに俺だけ家の中だ、ひゃっほーってさ」

「うーん。雪奈はそういうのは感じないかな」

「じゃあ、なんで雨なんか?」


 雪奈は窓の傍に行き、水滴だらけの窓にそっと触れた。

「雨はね、全て許してくれそうな気がするの」

「許す、って?」

「どれだけ雪奈が情けなくて、どうしようもない人間でも、雨だけは受け入れてくれる気がする。その音で優しく包み込んでくれて、『いいんだよ』って言ってくれる気がする」

「雨の精とでも会話できるのか?」

「雨の精、か……。そんな存在がいるなら、お友達になりたいな」

「サヤで探すか? 妖怪が普通にいるんだ。探せば妖精の一匹や二匹、きっとみつかるぞ」

「……うん、それもいいかもね」

 冗談のつもりだったが、意外にも雪奈は素直にうなずいた。


 沈黙を雨がさっと埋めていく。

 降りしきる雨を眺めながら、雪奈はふと何かを唱えた。

「もろもろの愚弄(ぐろう)の眼(まなこ)は淑(しと)やかとなり、わたくしは、花弁(かべん)の夢をみながら目を覚ます。」

「なんだ、それは?」

「詩だよ。中原中也の『雨の日』」

「あー、確かに詩人らしい持って回った言い方っぽいな」

「別にこの部分はそこまで婉曲(えんきょく)的な表現はしてないよ。中也がここで表現したいのは、雨が人の心を解きほぐしていく様。日本人は自然と共存し、雨を神の恵みとしていたからね。だからその音に遺伝子レベルで安らぎを覚えるんだよ」

「まあ、小雨程度の音なら、好きか嫌いかで言えば好きだな」

 さっきから鳴っている小降りの雨音は、ふと心の中にも入ってくるように感じた。

 一粒一粒の水滴が、あらゆる負の感情を洗い流していく。その想像に浸っているのはなかなか心地よかった。


「『雨の日』にはもう一つのテーマがあるの」

「一つは安らぎで……、もう一つは?」

「旧懐(きゅうかい)からの哀愁。言い換えれば、記憶の逆行。この詩は雨のうら寂しさをモチーフにして、人の想起の過程を辿る作りになっているんだ」

「ううん……?」

「人は思い出を想起すると懐かしいなって思うと同時に、寂しさを覚えるの。過去っていうのはもう二度と帰れない場所だからね」

「確かにサービス終了したソシャゲのことを思い出すと、もう二度とプレイできないんだって悲しくなるな」

「もー、なんでもゲームに例えたがるんだから……あ、そろそろサヤに行かないとね」


 スマホの画面を見た雪奈に倣(なら)うように俺も同様のことをする。

 23:52。あと8分で、6月30日は終わる。


「ね、お兄ちゃん。せっかくリセットされるんだから、何か一つ本当だったら取り返しのつかないことをやってみたくない?」

「それはなかなか魅力的な提案かもしれないが、もう銀行も銭湯もしまってるし、歌舞伎町はちょっと遠いぞ?」

「国家権力と女とヤのつく人を同時に敵に回すのは、確かに取り返しがつかないことになりそうだね……って、そうじゃなくて」

「ちなみに全財産消費してのガチャ石全ぶっぱはもうやった」

「……別に興味はないけど、結果は?」

「確率って言葉が嫌いになった」

「はいはい、爆死乙だね」

 投げやりな調子でさらっと言われた。


「ねえ、もうちょっとこう、なんかないの?」

「俺は思いつかないが……、そう言う雪奈はどうなんだ?」

 問いかけると雪奈は少し間を置いて、ぽつりと言った。

「……一つだけ、あるんだけど……」

「おお、なんだ?」

「……その、お兄ちゃんの協力も必要なんだけど」

「おお、そうか。俺にできることなら、協力してやるよ」

 雪奈は胸に手をやり、数回ほど深く呼吸した後に言った。

「あの、ね……。目を、閉じてほしいんだ」

「それだけでいいのか?」

「うん、……あの、いやだったら……」

「別に、目を閉じるぐらいだったらお安い御用だぞ」

 俺はすっと目を閉じた。

 視界が暗く染まる。


「……身を、かがめて……」

「こうか」

 俺はゆっくりと腰を丸めた。多分、今は雪奈と同じ高さに顔があると思う。


 ふと既視感のようなものを感じた。

 前にもこんなことがあったような気がする。


 忘れもしない6月1日。カフェでのことだ。

 二人きりの空間で俺は本月に告白した。

 彼女はそれを受け入れてくれた。どういう魂胆だったかは知らないが、とにかくその時の俺はすごく浮かれ上がっていた。

 それから彼女は、俺に向かって目を閉じてほしいと言った。俺はその通りにした。

 静かな店内。流れていたジャズの音楽とコーヒーの香りが蘇ってくる。

 そこで俺は……そう、頬に温かで湿ったものを感じた。

 そう、こんな感触の……って、え?


 目を開く。

 すぐ傍に、雪奈の熱。ふわりと香る、俺と同じコンディショナーの匂い。

 何より、頬に触れている異様に柔らかで瑞々しいなものは……。


 答えが出る直前に、頬のやわこいものが離れていく。それでもな、火のついたような熱が残っていたが。

 雪奈は火照った顔をして、自分の唇を押さえていた。


「ゆき、な……?」

 彼女は熱っぽい視線を俺に向け、気恥ずかしそうに微笑み。

「……リセット、されるから……ね?」

 同意を求めるように首を傾げてきた。

 俺は頭が真っ白になっていて、その問いかけには答えられなかった。


   ●


 23:59

日の変わる寸前、俺と雪奈はサヤに着いた。

「遅いじゃん、二人共!」

 要津が手を上げて俺たちを出迎えてくれる。

「……あれ。暁夜さんたち、どうされたんですか?」

 俺は自身の肩が跳ね上がるのがわかった。

「ど、どうされた……って?」

「……いえ。なんか、お顔が赤いので。熱でもあるのかと……」

 小租田の指摘で、俺の顔はますます熱を帯びていく。

「いや、なんでもない」

「はあ……?」


 ゴーン、ゴーン……


 鐘の音に似た音がチャイムから鳴りだす。

 教卓で丸くなっていた猫又がのそりと起き出した。

「6月30日が終わったにゃ。これから時間が巻き戻されるにゃ」

「おお、いよいよじゃん?」

「はぁ……。ボクが会社でこなした仕事も、全てなかったことにされるのか」

「……大丈夫かしら、うちの子供。それに妹も……」

 みんなが身の回り心配を口にする中、俺と雪奈、浦野、それに猫又は無言でスピーカーを眺めていた。

 錆びた鉄のような金属音。それ以外には、なんら変化も起きない。

 ……いや。周囲を見回し、その認識が誤りだったことに気付く。

 みんなの着ている服、その形と色が少しずつ変化し、初日に着ていたものに少しずつ変化していってた。


 やがて服の変化が完全に終わる頃、チャイムの音が途絶えた。

 猫又は振り返り、八重歯を覗かせたチェシャ猫スマイルを浮かべて言った。

「これで巻き戻しは完了したにゃ。全ての事象はは6月1日時点に戻ったにゃ」

「え、もう終わりなわけ?」

「……実感がありませんね」

「それはそうだろうさ。なんせ、時間は触れることができないんだから、それに変化が起きたところで、体感的には何も感じないんじゃないかい」


 黒木の言葉に雪奈はちょっと首をひねって。

「……それはどうだろうね」

「なっ、なんだい?」

 すっかり雪奈に苦手意識を持っている黒木は、ちょっと動揺しながら訊き返す。

 特にそれには構わず、雪奈は言う。

「新陳代謝に、生理的現象。様々な変化が日々、体には起きている。それを一瞬にして1ヶ月も巻き戻してるのに、何も感じないのは不思議だよね」

「……こうは考えられないか?」

 俺は自身の思い付きをみんなに述べた。


「全ての事象が巻き戻っても、俺たちの記憶だけは6月1日に引き継がれる。だから事象のリセットの時には俺たちの記憶もとい意識はどこかに隔離されている状態で、外部からの影響を受けなくなってるんだ」

「面白い仮説だね。第六感が完全に遮断されていたなら信憑性(しんぴょうせい)が高かったと思う」

「ああ、そっか……。時間が巻き戻ってる時も、視界や聴覚とかはそのままだったもんな」

「おみゃあ等、雑談は結構にゃが、ツユバライのアプリの正規版の契約更新は忘れない内に済ませておくにゃ」


 猫又はそう言って、また教卓の上にくるんと丸くなった。

 言われて俺はスマホを取り出し、ツユバライのアプリを開いた。

 例の利用規約と、同意するのボタン。

 二回目と言うこともあり、俺は規約を読まずにボタンを押した。

 するとステータス画面が表示される。

 数値自体はほとんど大差ないが、職業などは変わっていた。

 職業、武士。武器、降血丸。必殺奥義、閃光斬。

 まるっきり同じだ。ステータスは前よりマシになったような、そうでもないような。

 前回の反省を活かし、今回は見終えたらスマホの画面をスリープにしてさっとポケットにしまった。

 他のヤツ等は自分のスマホを見ていて、誰も俺に注意を払っていなかった。


「みんな疲れてるだろうし、探索はまた明日からにしようか」

 雪奈は慣れた調子でこれからの指針を決定する。

「……でも大変ですよね。今まで集めた情報も、記録に残っていないとなると……」

「ああ、それなら大丈夫だよ。大体のことは雪奈が覚えてるから」

「そうかい。ボクはもうくたくただから、お言葉に甘えて休ませてもらうよ」

「……あ、ちょっと待って」

 帰りかけた黒木を雪奈が呼び止める。


「今回の6月はコイグチの外の探索も進めようと思ってるから、みんながどんなステータスなのか知っておきたいんだ。だからその詳細を雪奈に報告してから帰ってね」

 黒木の表情に警戒の色が浮かぶ。

 彼は小租田と要津に目配せし、暗にどうする?と問いかけていた。

 要津はしばしじっとスマホを見ていたが、やがて肩をすくめ、その画面を雪奈に見せた。

「……ほら。これでいい?」

 雪奈はちらっとその画面を見てから、自身のスマホで撮影した。

 それから要津にむかって微笑みかける。

「ありがとう」

「じゃ、もう帰っていい?」

「うん。明日からまたよろしくね」

「はいよ」

 要津はうんと伸びをしてからスマホを操作し、現実に帰っていった。

 それから浦野、俺、小租田、最後に少しイヤそうな顔をしながらも黒木も雪奈にステータス画面を見せた。

 その全てを雪奈は自身のスマホに記録した。


 俺と雪奈以外の全員が帰り、猫又の姿がなくなっていることを確認して訊いた。

「どうだ、今回のパーティーは?」

 雪奈はスマホの画面を見やりながら言った。

「大分いい感じだね。これなら、望み通りに行くかも」

 意外な答えに俺は驚いた。

「まだ一回もまともに戦ったりしてないのに、そんなことわかるのか?」

「あれ、言ってなかったっけ。雪奈と浦野さんで、コイグチの外に何度か出てるんだよ」

「おいおい、そんなの初耳だぞ……。勝手に危ないことするなよ」

「えへへ、心配かけてごめんね。……あと」

 雪奈は俺の胸にぎゅっと顔を埋めて、腰に手を回してきた。目と鼻の先、きれいに梳かれた髪からコンディショナーの香りが漂う。

「ありがとう、お兄ちゃん」

 胸元に湿った温かい息を感じる。

 ……サヤに来る前の、頬への口づけが蘇ってくる。


 かっと全身の熱くなり、それを接している雪奈に悟られる羞恥が相乗してさらに体温が高くなり、頭がのぼせ上がっていく中、雪奈は言った。

「帰ろう、お兄ちゃん。雪奈たちの家に」

「あ、ああ……」

 俺は記憶を頼りに右手のスマホを画面を見ずに操作し、現実へ帰還するためのボタンを押した。

 視界が暗く染まり、温もりが消え失せる。


 しばし闇の空間に置き去りにされた後、我が家の居間の光景が視界に広がる。

 雪奈が抱き着いているのも、サヤにいた時と同じままだった。

 なんとなしにスマホの画面を見やった。

 6月1日0:00だった。

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