3章 疑われる者 その3

 6月12日、2コマ目の講義前。

 1コマ目にその部屋で講義がなかったので、俺は早くから毎度座っている席に陣取って真琴が来るのを待った。


 だがヤツが来たのは、講義が始まって5分経ってからだった。

「遅いっ!」

「うぉっ、び、ビックリした」

「そこ、静かに」

 近代文学専門の竹内教授に注意され、俺は渋々続く言葉を飲み込み、浮かしていた腰を椅子に戻した。


 真琴は隣の席に腰を下ろし、小声で言ってきた。

「例の話を聞きたかったんだろ?」

「そうだよ、あれは一体……」

「待てよ。それは講義が終わってからにしようぜ。レッドカードで退場しちゃ、わざわざ講義に来た意味がないだろ?」

 もっともな正論に俺は憮然としながらもうなずき、ホワイトボードを見やった。

 だがやはり、講義の内容は頭に入ってこなかった。




 大学から少し離れた場所にあるファーストフード店。

 先に席を取っていた俺は、真琴のことをじれったく待っていた。


「ほい、お待たー」

「で、本月のことだが」

「おお、いきなり本題か」

「本当なのか、海外の大学に転入ってのは」


 席に座った真琴は「ああ」と肯定の返事を寄こして話し始めた。

「昨日、先輩の家で酒を飲んでた時に聞いたんだけどな。大学の事務室で、本月が手続きの話をしてるのを聞いたんだとさ」

「だけど大学の転入学ってのは、一年以上在籍してないとできないんじゃなかったか?」

「本月の親父はウェントゥス製薬のCEOだぜ? 抜け道に忖度(そんたく)、なんでもござれだ。転入学の決まりなんてもん、上層部にちょっとお願いすれば気を利かしてくれるだろうさ。噂じゃ、うちの大学にも寄付金をたんまりくれてるそうだしな」

「……世の中、金か」

「家の貧富が子供の学力や就職先に大きく影響するって研究報告もあるぐらいだ。つまりはそういうことなんだろうな」


 真琴の言葉の意味を十分に咀嚼して、俺は尋ねた。

「つまりうちの大学程度じゃ、本月の将来の糧(かて)としては不十分ってわけだ」

「偏差値自体も大したこともなく、優秀な卒業生もいない。世間じゃロクに名前も知られてない学校。資産家がそんな所に子供を通わせたいって思うか?」

「じゃあなんでうちに入学してきた?」

 真琴はかぶりついたハンバーガーを飲みこんでからかぶりを振った。

「そこまで知らねえよ。ただ転入学した先で学ばされるのが経済とかマーケティング関係ってのは聞いたな」

「……親としては、望んだ進路じゃなかったってことか」

「まあ、だとしてももうちょっと偏差値の高い所に行けたと思うけどな。高校の頃の成績とかはよくわからんが、それこそ金でどうとでもなりそうだ」

 本月の話をしているのに、結局最後は金に行きつく。


「ったく、イヤになるな」

「暁夜だって俺っちからすれば、十分に金持ちだぜ。バイトもしてねえくせにスマホ四つも持ってんだろ」

「よせよ。せいぜい中流階級程度だ」

「一般庶民からすれば、ひがみにしか見えないって話だ」


 ハンバーガーの残った欠片を食べ、真琴は包みを丸めながら言った。

「で、とある問題が一つ浮上する」

「なんだよ、問題ってのは」

「転入学をしようってヤツが、どうして彼氏を作ったのかって話だ」

 俺は心臓が生み出す動揺をどうにか抑え込んで訊き返した。

「……彼氏、ってのは?」

「三文芝居はよそうぜ。時間は有限だ」


 真琴は決めかかって続ける。

「なあ、どっちからだ?」

「主語がないぞ、文学科」

「わかってんだろ。お前と本月、どっちから告白した?」

「……強いて言うなら、最初から相思相愛だったってことだ」

「とある筋からの情報だと、6月1日に本月が暁夜を呼び止めたのを目撃している」

 自身の顔が不愉快ゆえに歪むのがわかった。

「いい友人を持ってるんだな」

「おめえも含めてな」


 真琴は紙コップの蓋を開け、ストローを抜いて直接呷(あお)った。

 口を手の甲で拭い、話に戻る。

「で、だ。推測するに、きっかけを作ったのは本月の方だと思われる」

「彼女は俺の調子がおかしいと思ったから、心配して駆けつけてくれたんだ」

「庇わなくてもいい」

「事実を言っただけだ」

 ふんと鼻を鳴らし、真琴は顔を近づけてきた。


「友人として忠告してやる。暁夜は、あの女に遊ばれてる」

「何を根拠に」

「よく考えろよ。海外に行こうってヤツが、なんで男を作る?」

「転校の前に、想い人に告白する。一昔前の青春ものなら定番の展開だ」

「なあ、本月はお嬢様だぜ。現代の貴族の令嬢だ。そんなヤツが、なんでお前なんぞに惚れると思う?」

 カラン、真琴の持つ紙コップから氷のかち合う音が聞こえた。


 俺は自問自答する。

 なぜ雪奈は俺に惚れたんだ?

 彼女との関係は同じ講義を受けているという程度だ。同じ空間にいても、顔を合わせない、会話もしない。接点がないのだ。

 ……わからない。理由が見当たらない。


「な、わかっただろ。おめえは、あのお嬢様に遊ばれてるだけなんだよ」

「……違う。それは、違う……」

 俺は呻くように、繰り返した。真琴は不思議そうな目を向けてくる。

「わからないヤツだな。どうしてそこまで本月を信用しようとする?」

「……前は、こうじゃなかったからだ」

「はぁ?」


 ……真琴にはどう説明したところで、理解できないだろう。

 幻の6月。

 失われた同じ時間の1ヶ月。

 そこでは、本月は俺に声すらかけてこなかったのだ。


   ●


 いつものカフェで、俺はコーヒーを飲んでいた。

 銘柄は覚えていない。味は苦いだけで、香りは焦げ臭く感じるだけだ。

 美味いはずなのだ。この店は豆から抽出まで、全てにおいてこだわっている。そんじょそこらのチェーン店とは違う。

 だけど今ばかりは、それを味わう余裕が俺にはなかった。


「お待たせ」

 いつもなら心躍る声が頭上から聞こえてくる。

「本月……」

「どうしたの? 元気ないじゃない」

 最近になってよく見るようになった柔らかい笑顔を本月は浮かべていた。端整な顔立ちということもあって、それは女神の微笑みと見紛いそうだった。

「いや、ちょっとな……」

「そう?」


 本月はそれ以上は突っ込んでこず、マスターにアンブレを頼んでいた。

 腰を下ろし彼女が一息ついたところで、俺は口を開いた。

「わざわざ来てもらってすまないな」

「たまたま近くにいたから、気にしないで」

 この近くに本屋や図書館はあったか……。疑念が浮かび上がり、胸中に靄(もや)が生まれてしまう。


「昨日ね、面白い本を読んだのよ」

「……あ、ああ」

「ファンタジー小説でね。その世界では、羊が空を飛んでいて――」

 俺が黙っていると、本月の方から話し始めた。

 いつも通りのたわいない会話。

 このまま何もかも忘れて、彼女と会話を膨らませることに楽しみを覚える。

 悪くない。むしろそうすべきなのかもしれない。

 しかしそれで真実が曖昧模糊となり、全てが終わり一人取り残されると想像すると耐えがたい虚無感に襲われた。

ゆえに俺の取り得る選択肢は一つしかなかった。


「転入学するんだって?」

 俺の声は鋭く尖った刃を床に落とした時のような響きを伴った。

 本月の顔が、真冬の湖のごとく凍り付く。


「どこでそれを……」

 空気の明度が失われていく。

 それは日没というごく当たり前の理由だけでは説明できない気がした。


「どこで、というのは重要じゃない。少なくとも俺にとっては」

 そしておそらく本月にとっても、と心の中で付け加えた。


「嘘偽りなく教えてほしい。どうして本月はそのことを俺に教えてくれなかったんだ?」

「……それは、その……」

 本月は口ごもって俯いてしまう。

 その沈黙は俺の心を異様に苛立たせた。


 心を落ち着かせるべく、俺はカップに口をつけた。冷めたブラウンの液体は頭の熱を取り去るのにうってつけだった。

 努めて声を和らげて、俺は本月に言った。

「なあ、本月。俺は別に怒っているわけじゃない。ただ正直に話してほしいだけなんだ。お互いの胸の内を素直に打ち明ける。……どうかな?」

「……ごめんなさい」

 本月はそう言って頭(こうべ)を垂れた。

 どうして彼女は謝ってるんだ?

 なぜ声を詰まらせて、泣き出した?

 ……どうして、なぜ、どうして……。


 疑問の渦に飲まれ、俺の理性と感情はぐちゃぐちゃになっていく。

 気が付いたら俺は一人で夜の街を歩いていた。


 空を仰ぎ、俺は溜息を吐いた。

 何やってんだろうな、俺……。

 視界に広がる薄い闇を湛えた空。星はぼんやりしたものが見えるだけで、まるでただのシミのようだった。

 ただまあ、梅雨の時期に晴れているだけでもラッキーだったのかもしれない。


 俺は苦笑いをして、目線を街へと戻していった。


「……は?」


 眼前の光景に、心臓が一瞬止まりかけた。

 行き交う人混みの中に、俺の目がある一人の姿を捉えた。

 見慣れた制服。左右に結わいた三つ編み。それに小柄な体格……。

 ふと足を止めたその子が、肩越しに見せた横顔は……。

――雪奈!?


 いや、そんなはずはない。雪奈は今も、家の自室にいるはず……。

 だが眼前の少女が見せた顔は、見紛うはずもなく雪奈のものだった。


 目の前を人が横切って一瞬景色が断たれ、再び元の視界に戻った時には雪奈の姿はそこにはなかった。


 ……夢でも見ていたのだろうか?

 きっとそうだと自分に言い聞かせて、俺は帰路についた。


   ●


 家に帰って俺はすぐ、普段は開かないシューズボックスの中を見やった。

 そこには冠婚葬祭などのフォーマルな場で履く靴がしまってある。だが真琴が言っていたように小金持ちなうちはやたら靴が多く、雪奈の制服用のローファーがどこにしまっているか知らないのもあってか、見つけられなかった。


 それから二階へ上がり、自分の部屋の前を素通りし、雪奈の部屋の前に立った。

 自分の身長よりやや高い一枚のドア。今はその板がやたら大きく見える。

 灯りは漏れていない……だけど寝ているだけかもしれない。

 拳を胸の高さまで上げる。

 ぎゅっと握りしめようとしても、あまり力が入らない。心なしか掌が湿っているように感じる。

 鼓動の音がやかましい。耳元で太鼓でも叩かれているかのようだ。


 一度深く息を吸って、大きく吐き出す。

 ……よし。


 覚悟を決めた俺は、ドアに向かって拳を打ち付けようとした。

その時。


「あっ、お兄ちゃん!」

 廊下の向こうからの声。

 予想だにしなかった出来事に、身体の内が真空になって電気を通されたかのように肌が震えた。

 見やると、制服姿の雪奈がこちらを見ていた。

「どうしたの? そんなところで」

「あ、いや……」

 俺はごまかし笑いを浮かべて拳を下げた。

 きょとんとした顔の雪奈が、やがて悪戯っぽい笑みを浮かべて。

「あー、もしかして……」

「なっ、なんだよ?」

「別に。さぁ、用件をどうぞ。なんとなく雪奈は察しがついてるけどね」

 やけに嬉しそうに雪奈は先を促す。


 察しがついてる……?

 まさか俺が見ていたことに気付いていたのだろうか。

 思い返せば、見失う前に彼女と目が合っていたような気もするが……。


 ……訊いてみよう。

 俺はそう決意して、雪奈に質問を向けてみた。


「なあ、雪奈。お前、一人で外に出たか?」


 雪奈はポカンとした顔で俺の顔を見やり、目をパチパチさせた。

「雪奈が、外に?」

「……出て、ないよな」

「うん。出てないよ、一歩も」

「そうか……」

「用事はそれだけ?」

「ああ」


 俺がうなずくと、雪奈は小首を傾げて人差し指を頬にやり。

「……そっか、そうだよね。だって、あと一日……」

「雪奈?」

「あ、なんでもないよ。こっちの話」

「そうか……」

「そろそろ、ツユバライの時間だね。準備しなきゃ」

 そう言って部屋の中に入っていった。


 言われてスマホを見ると、確かにもうそろそろ向こうの世界に行く時間だった。

 俺は玄関に行き、サヤに行く用の靴を取りに行くことにした。

 プロスポーツ選手も練習に使っている、動きやすいスニーカー。しかし残念ながら俺の運動神経ではその真価を発揮することは難しい。

 まあ、靴には運が悪かったと思って諦めてもらうしかない。来世では陸上選手とかと巡り合えるよう祈ってるぞ。


 ふと俺はさっき見たシューズボックスを何気なくもう一度開いた。

 別に特別な糸があったわけじゃない。ただの思い付きの行動だ。

 しかしなんの運命のいたずらか。

 それはそこにあった。

 下から四段目の、一番左端。

 さっきまで何もなかったそこに、雪奈のローファーがそろえて置いてあった……。

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