水深1.2Mの保健室

夏野けい

遠くでホイッスル

 時間割にあわせて参考書を開く私を、ひろか先生は笑ったことも褒めたこともない。

 高校はぜったいに偏差値高いところに行く。この学校からはなかなか行けないようなところに。ふつう、が出来る子たちに負けたくなくて意地になっている。だから触れられないのはありがたかった。


 教室では息ができない。深いプールでひとり溺れているような気分になる。当たり前の顔でみんなが泳ぐなか、静かに沈んでいくしかない。

 たとえるなら保健室は水深1.2M、背の低い私でも足が立つ。

 窓際のベッドからはグラウンドが見える。砂埃が入らないように細く開けたところから、乾いた土を踏む足音が聞こえはじめる。高い声のお喋り、じゃれあい、誰かの名前が呼ばれる。腕を伸ばして仕切りのカーテンをきっちりと閉めた。

 休み時間は緊張する。保健室に入ってくる子が多いから。英語の例文集を閉じて、胸に抱いたまま横になる。

 生成色のカーテンは光をあまり遮らない。瞑った目に血の色がうるさかった。

 私のクラスの六時間目は体育。サッカーだから外だ。ろくに教室に来ない陰気な女子のことなんて忘れられているはずなのに、指を差されるんじゃないかと想像してしまう。

 うっすらと覚えのある声が切れ切れに耳へ届く。頭の芯が熱くなった。窓を閉めたいのに手足に力が入らない。


 枕に顔を押しつけているうちに微睡んでしまっていた。外がざわざわしている。切迫した、不安で不穏な声が波をたてる。

 保健室という単語が聞こえて心臓がぎゅっと縮んだ。怪我、したのかな。グラウンドからここまでは二、三分かかる。深く息を吐いて胸を押さえる。誰かの指がカーテンにかかる妄想が消えてくれなかった。手首の動脈に触れてみる。速くてよけい怖くなった。

 ドアがひらく。決まり悪そうに入ってきたのは男の子の声だ。中性的で透明な音色に覚えがあった。

 派手なグループの女子がイケメンって囁きあっていたあの人。私にも気兼ねなく挨拶してくれていた、たぶん唯一の男の子。人気者は余裕があるなぁって、ちょっとだけ僻んでいた。

「突き指してしまって」

 話し方は落ち着いている。ひろか先生がする質問に短く答えていく。処置が終わったらみんなのところに戻るのだろう。女の子たちはこぞって心配して、男の子たちも集まってきて口々になにか言うに違いない。


 彼は美しい魚だった。教室という深いプールを悠々と泳ぐ。私は遠くから見ているだけ。あんなふうに生きられたらどんなに素敵だろう。

 彼が認めてくれたなら、手を取って泳いでくれたなら、私も溺れずに済むかもしれないな。……だめだ、いけない。そんな失礼で身の程知らずの期待。不格好な自分を見られたくないのに、気づいてほしい。ここにいるって叫びたい。明確な言葉で許してほしい。意味がわからなくて泣きそうだった。

 息ができない。指先が痺れてくる。

 彼がいなくなるまでは耐えようと思ったのに、限界だった。


「せん、せ……」


 白衣の擦れる音がした。少し待っていて、と彼に言い置いてひろか先生は私を助けに来てくれる。カーテンの隙間を器用にするりと抜けて微笑む。

 手を握られて、背中をさすられて、大丈夫だからと優しく瞳を覗き込まれる。

「ゆっくり息吐いて……そう、上手」

 リズムを取り戻しつつある呼吸の下で私は祈る。先生、名前を呼ばないで。お願いだから。私の存在を彼に聞かせないで。


 遠くでホイッスルが鳴る。彼が抜けたって、外の世界は深々ときらめく水の中。私はきっと泳げない。

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水深1.2Mの保健室 夏野けい @ginkgoBiloba

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