雪を溶く熱

無月弟(無月蒼)

雪を溶く熱

 「はあ!? 今、何て言ったの?」


 耳にした言葉が信じられなくて、思わず聞き返してしまった。

 彼はそんな私の目をじっと見つめながら、もう一度静かに口を開く。


「だからね美冬ちゃん。僕、旅立つことにしたんだ。ここを離れて、憧れだったあの場所に」

「どこよあの場所って? まさか……」

「うん、北海道だよ。緑がたくさんあって暖かい、素敵な所さ」


 遠く離れた、自然豊かな大地を思い浮かべているコイツの名前は、秋人。

 たぶん私の人生の中で最も付き合いの長い、幼馴染の男の子だ。


 といっても、最近はお互い忙しくて、あまり会う機会がなかったんだけどね。

 でも、雪降る晩に突然訪ねてきたと思ったら、いきなりこんな突拍子も無いことを言い出した。

 北海道に行きたいって、バカなの? 


「行ってどうするの? アンタみたいなのが一人で、やっていけるわけないでしょ!」

「そうと決まったわけじゃ……」

「いいや、絶対にそう! 泣き虫で弱虫なアンタのことだもの。どうせすぐに、ピーピー泣きながら帰ってくるに決まってるよ!」


 気弱で、昔はよく私の後ろをくっついて歩いてた秋人。今だってちょっと言ってやっただけなのに、白い顔をさらに白くしながら、焦っている様子。


 こんなやつが見知らぬ土地で、一人で生活なんてできるはずがない。

 弱くてバカなやつだけど、私にとってはかわいい弟分だ。おかしな考えは、絶対に止めさせてやる。


「どうせ寒がりなアンタのことだから、少しでも暖かい所に行きたい。なんて思ったんでしょ」

「まあ、それもあるけど……でも聞いて。僕だって、軽い気持ちで言ってるわけじゃないんだよ」


 いきなり両肩を掴んできて、熱のこもった目で見つめられる。

 何よ、離しなさいよ!


 だけど振りほどこうと体を揺らしても、がっしりと掴む手は離れない。

 何これ? コイツ、こんなに力強かったっけ?


「美冬ちゃん。僕はずっと、夢見てきたんだ。緑の大地に憧れて、大きくなったら絶対に北海道に行くんだって心に決めて、今まで生きてきた。その事は、美冬ちゃんが一番よく知ってるだろ?」


 そ、そりゃあね。子供の頃から秋人の北海道愛は強くて、いつか行ってみたいって、耳にタコができるくらい、うるさかったもん。だけどさ。


「夢を見るだけなら良いよ。けど、現実を見なさい。私達、なんだよ! 北海道なんかで、やっていけるわけないでしょ!」


 シロクマはシロクマらしく、ここ北極で生きていけば良い。


 北海道に行ったはいいけど、ヒグマによそ者扱いされて、村八分にされたらどうするのさ?

 わざわざそんな遠くに行って、慣れない生活をしたいだなんて、どうかしている。


「考え直しなさいよ。寒いのが嫌なら、くっついて暖まれば良いじゃない。ここならキツネやカモメにいじめられても、私が守ってあげられるから」

「キツネやカモメって、何年前の話をしてるの? もういじめられたりしないよ」

「うるさーい! 兎に角、いじめられっ子で弱虫のアンタを、一人でそんな所に行かせられないわ!」


 私は、アンタのために言ってやってるの!

 これだけ言えば、きっと秋人も分かってくれるはず。そう思ったけど……。


 秋人はそっと目を細めて、ニッコリと笑った。


「ありがとう、心配してくれるんだね。でも大丈夫。僕、強くなったんだから」


 力強い大きな手で、ぽんぽんと頭を撫でられる。

 それは私の知っている、小さくて弱い手じゃなかった。秋人のやつ、いつの間にこんなに大きくなったの?


 いや、そんなのわかりきっている。

 前は私に守られてばかりの秋人だったけど、いつからか一人で狩りをするようになったし、体も鍛えだした。そんなことしなくても、獲物なら私が狩ってあげるのに。


 だけど今ならわかる。きっと秋人は、一人でも生きていけるよう、努力したんだ。結果、しばらくの間疎遠になっていたけど、見ないうちにたくましくなっちゃって。

 だけどゴメン。本当ならそれは、喜ぶべきことなんだけど、私にはそれができない。


 何だか秋人をすごく遠くに感じて、胸の奥が締め付けられる。

 行くな、行くんじゃないバカ秋人! 本当に、手がかかる奴なんだから!


 だけどそんな私の心の叫びは、彼に届いてはくれない。


「明日は早いから、もう行くね。美冬ちゃん、今までありがとう。大好きだよ」


 そっと鼻を擦り付けてくる秋人。その鼻ごしに、雪を溶かすくらいの、熱くて強い決意が伝わってくる。

 その熱を感じながら、きっと何を言っても、もう秋人を止めることはできないと悟った。


 ゆっくりと背を向けて、四本の足でのっしのっしと歩いて行く秋人。

 大好きって何よ。それなら遠くになんて行かないで、ずっとここにいなさいよ!


 何か言わなきゃいけないのに、足が動かないし、胸が張り裂けそうで、声を出すこともできない。

 私は何もできないまま、秋人の大きな背中を、静かに見送った……。






 翌日、雪の降る中、海辺にある大きな流氷の上に立つ秋人を、私は遠くから眺めていた。

 あいつめ、あんな流氷イカダで、北海道まで行く気か? 途中で海に落ちて、ガタガタ震えちゃうんじゃないの?


 あ、漕ぎ出した。

 少しずつ氷の大地を離れて、冷たい海の上を進んで行く流氷イカダ。

 本当に行く気なんだね、北海道に。


 ん、あれは?

 ああー、カモメが数羽、秋人に向かって飛んでいってる! 

 大変、秋人ってばカモメに泣かされるような弱虫なんだから、守ってあげないと!


 だけど駆け出してすぐに、足を止める。

 ちょっかいをかけてきたカモメ達を、秋人は手をブンブンと振り回しながら、追い払っているのだ。

 うそ、あの弱虫で、喧嘩なんてしたことのない秋人が!?


 僕はこんな所で止まらない。そんな強い彼の意思が、遠くからでもひしひしと伝わってくる。

 あ、今度はセイウチがイカダに乗ってきたけど、これまた難なく凪ぎ払ってるや。


 秋人……。いじめられるたびに、ピーピー泣きながら、後ろをついてきてた秋人。

 狩りをするのも下手で、よく私が狩ったセイウチの肉を、分けてあげてたっけ。

 だけど、そんな弱虫で泣き虫だった彼は、もういない。


 流氷イカダは徐々に小さくなっていって、その姿が完全に見えなくなった頃、頬に一筋の涙がこぼれた。


『美冬ちゃん、僕大きくなったら、北海道に行くんだ』


 無邪気に夢を語っていた、幼い日の秋人。

 周りのシロクマ達は皆、叶わない夢だって言って笑ってて、私も本気になんてしていなかった。


 だけど彼は今、誰もが笑ったその夢に向かって、進み始めたのだ。

 一人じゃなんにもできない、手のかかる弟みたいだった、あの秋人が……。


「秋人、秋人ー!」


 止めどなく涙がボロボロと溢れてくる。

 本当は分かってた。秋人を止めたかったのは、心配だったからじゃない。当たり前のように側にいたあの子が、遠くへ行ってしまうのが、どうしようもなく寂しかったんだ。


 泣き虫はどっちだ。私が勝手にお姉ちゃんぶっている間に、アイツは強くなっていったんだ。自分の夢を、叶えるために。


 前足でゴシゴシと、涙を拭う。

 泣いてなんかいられない。痩せても枯れても、私はあの子のお姉ちゃんなんだ。

 弟の旅立ちを、しっかり見送ってやらないと。


「行けー秋人ー! アンタならできる、北海道でも、しっかり生きなさーい!」


 既に姿が見えなくなった秋人に、声が届いたかどうかはわからない。

 けど、あいつならきっと大丈夫。私の自慢の、弟分なんだから。


 アンタはすごいよ。皆が笑った夢に、たった一人で挑もうとしてるんだからさ。


 負けるな秋人! 頑張れ秋人!

 ヒグマに意地悪されても、毅然とした態度で立ち向かえ! 北海道にはアザラシやセイウチがいないから、鮭を取れ鮭を!

 冷たい雪に震えるなら、心に火を灯して、その雪を溶かせーっ!


 ……時々は私の事も思い出してよね。離れていても私は、ずっとアンタの味方なんだから!



 おしまいʕ ·ᴥ·ʔ

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