第三話 穴の底
神獣が祀られるという本殿には、ひとつの仕掛けがあると伝わっている。
「書庫に真名を記した本があるって話は、私も聞いたことがある」
幼い頃に祭殿を訪れた
この祭殿には神獣の真名を記した書物が隠されているということ、迂闊に真名を口にすれば、この世界が消えて無くなってしまうかもしれないということ。
その書物を探し出そうという不埒者が後を絶たないから、本殿で間違った真名を唱えようものなら、奈落の底に落ちてしまう仕掛けが施されている――信心深い母からそんな噂を聞かされたのは、それから少ししてからのことだ。
「その話は俺も聞いたことがあるけど、眉唾もんだと思ってたけどなあ」
「本当よ。本殿にはそういう仕掛けがある。宰師――ヘンショー様は
だから彼が真名を知り得たとしても、確信が持てるまでは迂闊に口にしないだろう、というのは
やがて三人は足並み揃えて、本殿の中へと踏み込んだ。
本殿は黒を基調とした造りの古めかしくも厳かな建築物だが、高さはそれほどでもない。太い柱に支えられた天井は高いところにあるとはいえ、地上に聳えるのは一階のみ。
その代わりに地下に掘り下げた階層は五層もある。
奥底にある地底湖で神獣が眠ると伝わる、天然の巨大な縦穴の上に立てられた建築物が、そもそもこの地に祭殿が生まれた由来だ。
地下に降りる各階層にはそれぞれ縦穴を囲むようにして方形に組まれた廊下と、その外側には様々な用途の室が設けられており、階層の間を急な傾斜の階段が繋ぐ。各階層を支える巨大な柱にはそれぞれ燭台が設けられて、本殿の内には等間隔に並ぶいくつもの蝋燭の明かりが揺らめき、一層厳粛な雰囲気が醸し出されている。
幼い頃に
今、祭壇のある舞台には仰々しく飾り付けされた縄で仕切られて、その前で列を成した参拝客たちが順番に手を合わせて頭を下げていた。彼らは縄の向こうの祭壇を通して、そのはるか真下で眠るはずの神獣に向かって、世の安寧や個人の望みやら様々に祈願するのだ。
三人も参拝の列に並ぶと、
「あったって、何が」
「地下に降りる階段よ」
「キム、書庫は地下何層にあるの?」
「地下四層。書庫以外の部屋は無いはずだから、そこまで降りられればいいだけなんだけど」
階段の入口付近には見張り役らしい神官がふたり、両端に控えている。参拝客の列から離れて、反対側の廊下まで向かうのも目立つというのに、あのふたりを突破するのは難事だろう。
だがそこで、
「ひとつ考えがあるの。ふたりとも、ちょっと耳を貸して――」
参拝客の列はゆっくりと、だが着実に進んでいく。やがて三人が舞台の前に立つ順番となった。すると右に
するすると長い頭巾が紐解かれていくのと同時に、丁寧に髪を結われた見事な金髪が顕わになる。そして改めてキムが辺りをゆっくりと見回せば、彼女の鮮やかな瑠璃色な瞳に、周囲の人々の目は一層釘付けになる。
参拝客のみならず神官たちの目も引きつけた瞬間を見計らって、
「これなるは皆も噂には聞き及んでおられましょう、
その言葉に周囲から喚声が湧く。信心深い人たちが集まるこの本殿の中では、キムの金髪碧眼が与える衝撃は町中よりもはるかに大きい。ましてや祭殿に仕える神官ほど感極まって、中にはキムの姿形を目にして跪く者まで現れる始末だ。
「天女様はこの地に眠る神獣を見舞うため、はるばる
まんまと階段を降りることに成功した三人は、地上一層の廊下よりもひと回り小さい方形を成す廊下の一片に降り立った。地下二層へと続く階段は、その反対側の廊下にある。どうやら階段は各階層ごとに交互に取りつけられているらしい。
「お前もよくあんなはったりかますなあ。いつばれるかと冷や冷やもんだったぜ」
声をひそめて話しかける
「島主様のやり方を真似れば、あれぐらいなんてことないわ」
「言われてみれば、島主様にそっくりね」
キムが小さく笑うのを見て、
三人はぎしぎしと軋む床板を歩き続けながら、地下二層、そして三層へと下っていく。地下の階層は一層ごとに方形の廊下の一片が短くなり、穴の底に向かって急傾斜のすり鉢状を成していた。
そして廊下に囲まれた中央を見下ろせば、奥底には微かな明かりに照らし出された地底湖の暗い水面が覗く。
やがて地下三層から四層に降りる階段にまで差し掛かったところで、
「あそこね」
彼女の指先には、閉め切られた重々しい木製の扉が見える。地下四層ともなれば廊下の一辺も随分と短くなって、ほかに扉は見当たらないから間違いようはない。
一行が扉に向かって足を踏み出そうとしたのと、その扉がおもむろに開き出したのは、ほぼ同時のことであった。
よほど古いのであろう、耳障りな音を響かせながら外に開いた扉の陰から、片手に燭台を持って現れたのは、顔中を頭巾でくるんだ長身の男の姿――
「――
思わずその名を口に出した
「お前たちだけか。
すると
「お生憎様。島主様はまだ門前で神官たちと揉めてる最中よ。ここに来たのは私たち三人だけ」
「またお前か。名無しのくせに、こんな場面にまで首を突っ込むとは」
「誰が名無しよ。私には
「悪いがお前は眼中に無い」
少女の存在を露骨に無視した
「どういうつもりだ、キンバリー・ホープ」
本名で名を呼ばれて、驚いたキムが軽く目を見開く。未だに
「作者であるお前が、『大洋伝』の結末をねじ曲げようというのか」
詰問口調の
「ローラン。あなたが読んだ『大洋伝』は、まだ改稿が足りてない。私は『大洋伝』をあるべき姿に正したいの」
「あるべき姿だと」
キムの言葉を聞いた
「物語とは世に出た形が全て。それ以上でも以下でもないということがわからんか。
諭すような言葉と共に
「手伝って、
それまで
たとえ負傷しているとはいっても、長年荒波の中で巨大な帆を上げ下げしてきた
「ええい、離せ!」
「離せと言われて素直に離す馬鹿がいてたまるか!」
そして気合いを入れた
「
書庫は方形の廊下の外側を取り囲むように曲がりくねり、壁にずらりと並ぶ書架を照らす明かりは申し訳程度で薄暗い。
それまでの通路に比べれば広間と呼んでいいほどの一角に、床に腰を下ろして背を丸める小柄な人影がある。
周囲に山のような書物を無造作に散乱させながら、蝋燭のわずかな明かりの下で手にした巻物に視線を落としているのは、かつて王宮で見かけた
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