第三話 穴の底

 神獣が祀られるという本殿には、ひとつの仕掛けがあると伝わっている。


「書庫に真名を記した本があるって話は、私も聞いたことがある」


 幼い頃に祭殿を訪れたすいが告げられた、老神官の言葉を呼び覚ます。


 この祭殿には神獣の真名を記した書物が隠されているということ、迂闊に真名を口にすれば、この世界が消えて無くなってしまうかもしれないということ。


 その書物を探し出そうという不埒者が後を絶たないから、本殿で間違った真名を唱えようものなら、奈落の底に落ちてしまう仕掛けが施されている――信心深い母からそんな噂を聞かされたのは、それから少ししてからのことだ。


「その話は俺も聞いたことがあるけど、眉唾もんだと思ってたけどなあ」


 せんの言葉を、キムは首を振りながら否定した。


「本当よ。本殿にはそういう仕掛けがある。宰師――ヘンショー様は耀ようの神官の子だというから、仕掛けの存在も知っているでしょう」


 だから彼が真名を知り得たとしても、確信が持てるまでは迂闊に口にしないだろう、というのはすいやキムにとっての一縷の望みだ。


 やがて三人は足並み揃えて、本殿の中へと踏み込んだ。


 本殿は黒を基調とした造りの古めかしくも厳かな建築物だが、高さはそれほどでもない。太い柱に支えられた天井は高いところにあるとはいえ、地上に聳えるのは一階のみ。


 その代わりに地下に掘り下げた階層は五層もある。


 奥底にある地底湖で神獣が眠ると伝わる、天然の巨大な縦穴の上に立てられた建築物が、そもそもこの地に祭殿が生まれた由来だ。


 地下に降りる各階層にはそれぞれ縦穴を囲むようにして方形に組まれた廊下と、その外側には様々な用途の室が設けられており、階層の間を急な傾斜の階段が繋ぐ。各階層を支える巨大な柱にはそれぞれ燭台が設けられて、本殿の内には等間隔に並ぶいくつもの蝋燭の明かりが揺らめき、一層厳粛な雰囲気が醸し出されている。


 幼い頃にすいが本殿に足を踏み入れた際には、地上一階の方形の廊下の一辺から穴の中央に向かって迫り出した舞台の上で、神獣に対する祈願の儀式が執り行われた。大きな祭壇が設けられた舞台は十分な広さがあるものの、周囲に設けられた柵の向こうはもう奈落の底だ。七歳になったばかりのすいはその光景が恐ろしくて、父と母に挟まれることでようやく舞台に上がることが出来たことを覚えている。


 今、祭壇のある舞台には仰々しく飾り付けされた縄で仕切られて、その前で列を成した参拝客たちが順番に手を合わせて頭を下げていた。彼らは縄の向こうの祭壇を通して、そのはるか真下で眠るはずの神獣に向かって、世の安寧や個人の望みやら様々に祈願するのだ。


 三人も参拝の列に並ぶと、すいはまるで上京したばかりの田舎者の如く、忙しなく屋内を見渡す。「何をきょろきょろしてるんだ」というせんの言葉も聞き流して、やがてすいは「あった」という言葉と共に動きを止めた。


「あったって、何が」

「地下に降りる階段よ」


 すいの視線は、今彼らが立つ廊下のちょうど向かい、祭殿の陰に隠れた反対側の廊下に向けられている。そこには確かに傾斜がきつそうな階段が、地下に向かって降りていた


「キム、書庫は地下何層にあるの?」


 すいの問いに、キムが『大洋伝』の記述を思い返しながら答える。


「地下四層。書庫以外の部屋は無いはずだから、そこまで降りられればいいだけなんだけど」


 階段の入口付近には見張り役らしい神官がふたり、両端に控えている。参拝客の列から離れて、反対側の廊下まで向かうのも目立つというのに、あのふたりを突破するのは難事だろう。


 だがそこで、すいが声をひそめてキムとせんに囁きかけた。


「ひとつ考えがあるの。ふたりとも、ちょっと耳を貸して――」


 参拝客の列はゆっくりと、だが着実に進んでいく。やがて三人が舞台の前に立つ順番となった。すると右にすい、左にせんを従える格好で、間に挟まれたキムが一歩前に足を踏み出す。頭巾を被ったキムはそれだけでも周囲の目を引いていたが、そこで彼女はおもむろに頭巾の端を引いた。


 するすると長い頭巾が紐解かれていくのと同時に、丁寧に髪を結われた見事な金髪が顕わになる。そして改めてキムが辺りをゆっくりと見回せば、彼女の鮮やかな瑠璃色な瞳に、周囲の人々の目は一層釘付けになる。


 参拝客のみならず神官たちの目も引きつけた瞬間を見計らって、すいは全員の耳に届くように声を張り上げた。


「これなるは皆も噂には聞き及んでおられましょう、りんに舞い降りた神獣の遣い、天女様にあられます!」


 その言葉に周囲から喚声が湧く。信心深い人たちが集まるこの本殿の中では、キムの金髪碧眼が与える衝撃は町中よりもはるかに大きい。ましてや祭殿に仕える神官ほど感極まって、中にはキムの姿形を目にして跪く者まで現れる始末だ。


「天女様はこの地に眠る神獣を見舞うため、はるばるりんより罷り越されました。これより地下に降りますれば、道を開くようお願い申し上げます」


 すいはあくまで堂々とした素振りで歩き出し、その後を微笑を湛えてみせるキムと、若干戸惑い気味のせんが追う。廊下を渡って舞台の反対側の階段の前までたどりついた三人を、恐れおののくふたりの神官が邪魔立てするはずもない。


 まんまと階段を降りることに成功した三人は、地上一層の廊下よりもひと回り小さい方形を成す廊下の一片に降り立った。地下二層へと続く階段は、その反対側の廊下にある。どうやら階段は各階層ごとに交互に取りつけられているらしい。


「お前もよくあんなはったりかますなあ。いつばれるかと冷や冷やもんだったぜ」


 声をひそめて話しかけるせんに対して、すいはこともなげに答えた。


「島主様のやり方を真似れば、あれぐらいなんてことないわ」

「言われてみれば、島主様にそっくりね」


 キムが小さく笑うのを見て、すいも思わず苦笑する。


 三人はぎしぎしと軋む床板を歩き続けながら、地下二層、そして三層へと下っていく。地下の階層は一層ごとに方形の廊下の一片が短くなり、穴の底に向かって急傾斜のすり鉢状を成していた。


 そして廊下に囲まれた中央を見下ろせば、奥底には微かな明かりに照らし出された地底湖の暗い水面が覗く。


 やがて地下三層から四層に降りる階段にまで差し掛かったところで、すいは行く先を指し示した。


「あそこね」


 彼女の指先には、閉め切られた重々しい木製の扉が見える。地下四層ともなれば廊下の一辺も随分と短くなって、ほかに扉は見当たらないから間違いようはない。


 一行が扉に向かって足を踏み出そうとしたのと、その扉がおもむろに開き出したのは、ほぼ同時のことであった。


 よほど古いのであろう、耳障りな音を響かせながら外に開いた扉の陰から、片手に燭台を持って現れたのは、顔中を頭巾でくるんだ長身の男の姿――


「――琅藍ろうらん!」


 思わずその名を口に出したすいに、琅藍ろうらんが口元の頭巾を引き下ろして三人に顔を向ける。目の前にいるのがすいのほかにはキムとせんのふたりであることを確かめると、その黒い顔が訝しげに眉をひそめた。


「お前たちだけか。上紐恕じょうちゅうじょはどうした?」


 するとすいは彼の前に一歩進み出て、挑発的な眼差しを向ける。


「お生憎様。島主様はまだ門前で神官たちと揉めてる最中よ。ここに来たのは私たち三人だけ」


 すいの言い分に、琅藍ろうらんが片眉を上げて睨み返す。


「またお前か。名無しのくせに、こんな場面にまで首を突っ込むとは」

「誰が名無しよ。私にはすいっていう立派な名前があるんだから!」

「悪いがお前は眼中に無い」


 少女の存在を露骨に無視した琅藍ろうらんは、今度はキムに向き直った。


「どういうつもりだ、キンバリー・ホープ」


 本名で名を呼ばれて、驚いたキムが軽く目を見開く。未だにすいが発音出来ない彼女の本名を知るということは、彼がキムの元いた世界である天を知るということは明らかであった。


「作者であるお前が、『大洋伝』の結末をねじ曲げようというのか」


 詰問口調の琅藍ろうらんに、キムは毅然とした態度で言い返す。


「ローラン。あなたが読んだ『大洋伝』は、まだ改稿が足りてない。私は『大洋伝』をあるべき姿に正したいの」

「あるべき姿だと」


 キムの言葉を聞いた琅藍ろうらんの黒い顔が、微妙に歪む。その黒い瞳がすい、キム、そして彼の相貌に目を剥いたままのせんを順番に見比べると、やがてやや厚ぼったい唇の間からふっと小さく息を吐き出した。


「物語とは世に出た形が全て。それ以上でも以下でもないということがわからんか。上紐恕じょうちゅうじょが現れるまで、お前はそこで頭を冷やしていろ」


 諭すような言葉と共に琅藍ろうらんが扉を閉めようとしていることに気づいて、すいは咄嗟に扉の把手に手をかけた。ぎょっとした琅藍ろうらんが慌てて扉を引くよりも早く、すいが振り返って叫ぶ。


「手伝って、せん!」


 それまで琅藍ろうらんの黒々とした顔立ちに目を丸くしていた旋は、すいの声に弾かれたかと思うと、閉じる寸前だった扉の端を両手でがっしりとつかんだ。


 たとえ負傷しているとはいっても、長年荒波の中で巨大な帆を上げ下げしてきたせんの膂力は並大抵では無い。思わぬ抵抗に遭った琅藍ろうらんが、反対側で扉を引きながら怒声を上げる。


「ええい、離せ!」

「離せと言われて素直に離す馬鹿がいてたまるか!」


 そして気合いを入れたせんが、力任せに腕を引く。すると重い扉は勢いよく開け放たれ、つられた琅藍ろうらんは足をもつれさせながら、這いつくばるようにして床板の上に放り出された。


せん、私たちが戻るまで、そいつを抑えてて!」


 すいはそう言いながら、書庫の中へと飛び込んでいく。キムも慌ててその後に続く。「待て、お前たち!」と声を上げる琅藍ろうらんは、だが背後からせんに馬乗りにのしかかられて、ふたりを追いかけることが出来ない。


 書庫は方形の廊下の外側を取り囲むように曲がりくねり、壁にずらりと並ぶ書架を照らす明かりは申し訳程度で薄暗い。すいとキムはぐるりと回る回廊のような書庫を突き進み、やがてその最奥の突き当たりにぽっかりと開いた、書架に囲まれた空間に出た。


 それまでの通路に比べれば広間と呼んでいいほどの一角に、床に腰を下ろして背を丸める小柄な人影がある。


 周囲に山のような書物を無造作に散乱させながら、蝋燭のわずかな明かりの下で手にした巻物に視線を落としているのは、かつて王宮で見かけた変翔へんしょうその人であった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る