第五章 妄創輪廻

第一話 名も無き者

 映像でしか見たことのなかった海を舞台に、そこに暮らす活気と逞しさに溢れた人々が繰り広げる物語。それがキムが書き著した『大洋伝』であった。


 太陽の下に照り出された美しい海を行き交う大小様々な船。常に喧噪で沸き返る雑多だが賑やかな町並み。この世のものとも思えぬ壮麗かつ巨大な都。山奥の合間に居を構える神秘的な祭殿。


 そこに登場するのは主人公の上紐恕じょうちゅうじょをはじめとする、一癖も二癖もありそうな個性的な人々。彼らの間に舞い降りた天女の目を通して、それぞれが思惑を抱えながら、やがて物語はひとつの結末に向かって収束していく――


「登場人物はそれぞれの目的のために頑張るんだけど、そんな奮闘も全てが空しく無に還る。それが最初に書いた『大洋伝』の結末」


 キムが告げた『大洋伝』の原型とは、すいにとっては意外な内容であった。


「だから最後は神獣の真名が唱えられて世界が泡と消える、と。でもなんか、それまでの血湧き肉躍る感じが一気にひっくり返されるのね」

「どんでん返しの後に虚無感が漂うところが、そのときにはいいなって思えたんだけど」


 キムはその白い指先で己の額をぴしゃりと叩いた。


「一度完結させた後に冷静になってから読み返してみると、我ながら独りよがりだなあって。それで今度はもっと大団円の結末に書き直したのよ」


 物語を書き殴っている最中は傑作と思えた内容が、頭を冷やしてから見直せばどうしてそこまで自画自賛出来たのか不思議で仕方ない。そんな経験はすいにもある。だからキムの感覚はよくわかるのだが――


「書き直した後なら、何も問題ないじゃない」


 この世が消し去られてしまうかもしれない、というのがキムの懸念だったはずだ。それがとっくに修正済みだというなら、後は『大洋伝』の通りに進むことを見守っていれば良い。それこそ琅藍ろうらんの如く。


「それがねえ。一度書き直しはしたんだけど、まだ完全には満足いかなくて」


 額に当てた指をそのままに、キムはまるで頭痛持ちのように顔をしかめた。


「まだ前の原稿に差し替えしてないんだよねえ」

「差し替えって、どういうこと? もう書き直しはしたんだよね?」

「なんて言えばいいのかな。『大洋伝』は初稿のまま一度世間に公表されてるのよ。それを後から改稿して、もう一回公表し直す前の状態で、私はこの世界に落っこちてきちゃった」

「後から改稿して公表し直すってどういうことか、いまいちよくわからないけど」


 すいにとってそこは重要ではない。確かめなければいけないのは、もっと核心の部分である。


「つまりこの世は初稿版なのか改稿版なのか、どっちなの?」


 まなじりを上げて問い詰めるすいに、キムは少々情けない顔で答えた。


「わかんない」

「そんなあ!」


 すいが両手で頭を抱えて、あからさまに落胆の声を上げる。キムは心底申し訳なさそうな顔を見せながら、しどろもどろに釈明した。


「だって書き直したのって、本当に物語の終盤の辺りなの。宰師様が耀ように逃げ込むところまでは、初稿版も改稿版もほとんど変わりないのよ」

「でもそれじゃ、耀ように行ってみないとわからないってことだよね」


 大きなため息を吐き出しながら目に見えて肩を落とすすいに向かって、キムにもひとつだけ断言できることがあった。


「はっきり言えるのは、ローランが読んだのは初稿版ってこと」


 世間に公表されたのは初稿版だけということならば、琅藍ろうらんが目にした『大洋伝』も当然初稿版ということになる。そんな彼が『大洋伝』の行く末を楽しみにしているということは――


「あいつはこの世界が破滅するのを楽しみにしてるってことよ!」


 思い返しても腹立たしい。しかもりょうで交わした会話から察するに、そのために琅藍ろうらん自身が色々と動き回っているらしい。すいにしてみれば余計なお世話もいいところである。


「だからって琅藍ろうらんの思う通りにはさせないよ。あいつが『大洋伝』を頼りに先回りするつもりでも、こっちにはあいつを出し抜く武器がある」

「武器って、そんなのあった?」


 心当たりのないキムが驚き、尋ね返す。するとすいは右手の親指を立てて己の顔を勢いよく指し示し、「私よ、私!」と言い放った。


「『大洋伝』に一行も書かれていない私のことは、いくら琅藍ろうらんでもわからない。つまり私ならあいつの裏を掻けるってこと!」


 ***


 変翔へんしょう耀ように逃げ込んだのは、彼が耀よう人であることを考えれば当然のことであった。耀ようは彼にとって馴染みの土地であり、それ以上に耀ようという国の特性が、亡命先としてはうってつけなのである。


耀よう変翔へんしょうの引き渡しを拒んできました」


 上紐恕じょうちゅうじょの仮の執務室とした王宮の一室で、駕蒙がもうが苦々しげにそう報告した。報告を受ける上紐恕じょうちゅうじょの顔も、大きな唇の端を歪めるばかりである。


「やはり儂が自ら乗り込むしかないか」


 そう口にした上紐恕じょうちゅうじょの逞しい指先が、執務卓を苛立たしげに叩く。


 耀ようはこの世界の創造主とされる、神獣の眠りを守る神聖な土地である。かつてこの世界を隅々まで統べていたとされる国力は今や見る影もないが、その権威は未だ人々の間に根強い。たとえ今はびんに庇護される立場とはいえ、武力を背景に変翔へんしょうを引き渡すよう恫喝したら、ここまで味方してきたいつげんも一斉に敵に回るだろう。


「どのみちいつげんも、両軍共に帰国の準備を進めております。これ以上は頼りになりますまい」


 討伐軍はりょうに攻め上り、海賊を扇動した主犯の変翔へんしょうを宰師の座から追い落とすことに成功した。名実共に討伐軍の目的は達せられたため、いつげんももはや上紐恕じょうちゅうじょに付き合う義理はない。むしろこれ以上他国の水軍が紅河にとどまり続ける方が、外聞もよろしくない。


 既に科恩かおん醜楷しゅうかいには十分に謝意を示し、後日改めて礼を尽くしに伺う旨を伝えてある。ここから先は上紐恕じょうちゅうじょだけで対応しなくてはならなかった。


「やむを得ん。駕蒙がもう、儂が耀ように赴く間、りょうはお前に任せる」

「畏まりました。ですが単陀李たんだり様はいかがしましょう?」


 変翔へんしょうが失脚した宮中で、単陀李たんだりは早速王に近づいて復権を働きかけていた。変翔へんしょうは彼以外の実力者をことごとく排除していたため、単陀李たんだりの暴走を止める者もいない。遠からず彼が宮中で実権を取り戻すことは、誰の目にも明らかであった。


「放っておけ」


 駕蒙がもうの伺いに対して、上紐恕じょうちゅうじょの回答はにべもない。実のところ彼は、りょうの実権掌握には興味は無かった。今回だって変翔へんしょうという降りかかり続ける火の粉を排除するために、兵を起こしたに過ぎない。全てのけりがつけば、兵を引き上げてりんに戻るつもりでいる。


 その後のりょう単陀李たんだりの、引いてはその裏で糸を引くいつの手に落ちようとも、彼にとっては関心外なのだ。


 逆に言えば変翔へんしょうは放っておくわけにはいかなかった。上紐恕じょうちゅうじょのあずかり知らぬままに耀ようへの亡命を許していては、いつ復活してまたりんに火の粉を撒き散らすかわからない。


「せめて何らかの保証を得ない限りは、りんに引き返すわけにもいかん。いっそ変翔へんしょうと直接語らうことが出来れば……」


 ここまでびんを強国として保ってきた変翔へんしょうの辣腕は、上紐恕じょうちゅうじょも認めるところだ。彼としては耀ようというよりも変翔へんしょう自身と話し合う方が、まだ交渉の余地があると考えている。


「近日中に耀ようへ行く。護衛も含めて伴をする者を選び出せ。祭殿への付け届けも忘れぬようにな」


 上紐恕じょうちゅうじょの指示に駕蒙がもうは頷きながら、ひとつ確かめるように尋ね返す。


「早急に手配します。それで、今回もやはり天女様を伴われるのですか?」

「当然だろう」


 部下の問いに対して、上紐恕じょうちゅうじょは当たり前といった顔でうそぶいてみせた。


「儂はただ、天女の思し召しに従ってここまで来たまでよ。その彼女を連れて行かない道理はあるまい」

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