第二話 討伐軍進発

 天下に轟くいつ水軍に加えて、駕蒙がもうが率いてきたりん水軍、そして両軍を足した数すら凌ぐげんの大軍が、いつの周辺海域に集結している。その数は大小様々な船舶を合わせて、実に百隻以上に及ぶ。


 海賊を討伐するという名目には過剰な戦力であるが、上紐恕じょうちゅうじょにはもっともな理由があった。


「海賊をいちいち虱潰しにするのは時間も手間も掛かる。それよりは大軍を見せつけて、さっさと降伏させてしまう方が手っ取り早い」


 名目上とはいえ討伐軍の総司令官の座に就いた上紐恕じょうちゅうじょは、事前の作戦会議の場で、居並ぶ列席者に向かってそう説いた。


「その上で賊の跋扈の元凶を取り除く。これが今回の討伐軍の目的である」

「内海最大の賊・右填うてんの一味を討ち滅ぼす、ではないと仰るのですか?」


 主立った面々の中でも最も容貌魁偉な大男、げんの水将・醜楷しゅうかいが、仏頂面を崩さぬままにそう尋ねる。その問いに上紐恕じょうちゅうじょは、何食わぬ顔で頷いた。


右填うてん一味を支援する黒幕が、りょうにいる」


 彼の一言に、その場の空気は一変した。それはつまり、りょうに攻め上ると宣言したようなものである。列席者たちの胸中を代弁するかのように、中でも一番落ち着いていた科恩かおんが、上紐恕じょうちゅうじょに重ねて問う。


「黒幕の名は?」


 科恩かおんの言葉に対して、上紐恕じょうちゅうじょはまるで台本通りとでも言うかのように淀みなく答えてみせた。


びんの宰師・変翔へんしょう


 その名を耳にして色めき立つ諸将の中で、顔色を変えなかったふたりはげん醜楷しゅうかいいつ科恩かおん


 作戦会議のやり取りは、このふたりに上紐恕じょうちゅうじょを加えた三人の台本通りであった。


 りんに貸しを作ることで内海への影響力を増したいげんと、変翔へんしょうの代わりに単陀李たんだりびん中枢に据えて、びんを内から操りたいいつ。両者はそれぞれの思惑を抱えながら、上紐恕じょうちゅうじょの意図に乗ることを事前に了承していたのである。


 ふたりの顔を視線だけで見比べてから、上紐恕じょうちゅうじょは改めて列席者の面々を見回した。


「内海の治安を乱す賊の首魁、変翔へんしょう。奴をびんの宰師の座から追い落としてこそ、今回の討伐軍の目的は達せられる。各々方、気を引き締めて参ろうぞ」


 ***


「だからってお前たちまで一緒についてくることはなかっただろう」


 困り顔のせんに、すいが口を突き出して反論した。


「まさかか弱い女ふたりを、見知らぬ土地に置いてけぼりにするつもりだったの?」


 そう言われるとせんも言葉に詰まる。だが「か弱い」つもりであるならば、海賊討伐軍の旗艦に同乗する方がよほど恐ろしいはずではないか。


「ごめんなさい、セン。でも私もここまで来たら、最後まで見届けたいんです」


 すいの隣りで縋るような目つきのキムに懇願されて、せんは頭上の頭巾をぼりぼりと掻いた。


「まあ、あんたがそう言うんなら、仕方ないかな」

「ちょっとせん、なんでキムが相手だと甘くなるのよ!」


 せんの態度に納得いかないすいが、あからさまに不服そうに口を曲げる。どのみち既に討伐軍は進発して、今さら引き返すのは無理な相談だ。ふたりを前にしてせんは腕を組んでみせた。


「ついてきたもんはしょうがないけど、なるべくこの部屋からは出てくれるなよ。ここなら戦になっても、そう簡単には賊も迫ってこないだろうから」


 すいとキムに割り当てられたのは、旗艦後部の物置代わりの部屋の一画であった。すいにはかつて父の船に忍び込んだときと同じような錯覚を覚えるが、女ふたりが使用するためだけに部屋を割いてくれたのだから文句は言えない。


「やっぱり戦闘になりそうなんですか?」


 不安そうな表情のキムに、せんは安心させるように笑顔を見せた。


「大丈夫さ。島主様の作戦は上手くいってる。この大船団が近づくだけで近隣の海賊たちは怖れを成して、こぞって頭を下げに殺到しているって話だ」


 せんの言う通り、今のところ上紐恕じょうちゅうじょの目論見通りに事態は推移している。むしろ降伏のために訪れる海賊たちが多すぎて、その相手に時間が掛かるという始末であった。


「ただ肝心の右填うてん一味が、そう簡単に降ってくれるか」


 組んだ腕から片手を持ち上げて、せんは顎に手をやった。その腕に巻き付いた包帯を目にして、キムの瑠璃色の瞳が曇る。


 彼の怪我は、キムが書いた『大洋伝』の筋書き通りなのだとは、せんには伝えていない。彼自身だけでなく、飛禄ひろくや仲間が襲われた遠因がキムにあると知れば、せんはどんな顔をするだろう。それがキムには恐ろしくて、とてもではないが口に出来なかった。


右填うてんって、最近は割と上手くやってた相手なんじゃないの」


 すいの言葉にせんは一瞬ぴくりと片眉を跳ね上げたが、やがてふうとため息を吐き出した。


「まあな」

「関銭払う代わりに不戦の約定を結んだって、島主様にも言ってもんね」

「関銭については島主様からの支援もあったし、あいつも上手いこと中から手を回して、むしろ連中が睨みをきかせてたから内海は安全だった」


 その台詞にすいは何か引っかかりを覚えて、軽く眉をひそめた。だがせんは彼女の表情の変化に気づくことなく、しかめ面のまま語り続ける。


「それがいきなりてのひらを返されて、島主様や頭領オヤジよりも、俺が一番驚いてる」

「――なんで?」


 眉根を寄せたまま、すいせんに向かってにじり寄った。


「なんでせんは、海賊のことをそんなに信用してたの?」

「なんでって、そりゃ」


 突然のすいの追及に、せんは当惑する。


「海賊との交渉には俺も頭領オヤジと一緒に立ち会ったりしたからな。何度か交渉した間柄だし、多少なりとも信用もするさ」

「それにしたって海賊でしょう? いつ裏切られてもおかしくないような相手だって、普段のせんならそれぐらい言いそうだよ。それに」


 さらにずいと顔を前に突き出したすいは、露骨に疑わしげな視線をせんの両眼にたっぷりと注ぎ込む。


「さっき、『あいつ』って言ってたよね。『あいつ』って誰よ」


 思わぬすいの詮索に、せんは慌てて口元に手を当てた。


「……俺、そんなこと言ったか?」


 てのひら越しにくぐもったせんの声に、すいは上目遣いのまま首を縦に振る。その目を避けるようにせんは瞳だけを左右に動かすが、再び正面を見ればすいの疑惑に満ちた視線に容赦なく晒される。


 その目に耐えかねてせんはついに諦めたように手を下ろし、やがて大きく肩を落としながら告げた。


がくだよ」


 思いがけない名を耳にして、すいが思わず絶句する。


「――がく?」


 驚愕するすいを目にして、せんは観念したように頷いてみせた。


がく右填うてん一味に潜り込んで、りんと手打ちするよう中から働きかけてたんだ。そのためにあいつは、俺たちの前から姿を消したんだよ」

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