第四章 洋上克敵

第一話 乙に寄る

 宮殿を辛うじて脱出した上紐恕じょうちゅうじょたち一行は、りょうの川港を目指すことはなかった。りょうの川港のみならず紅河一帯には、既に変翔へんしょうの追っ手が回っている可能性が高い。またりんの島主であれば当然船を使うものという読みの裏を掻いて、彼らは陸路をひた走りりょうよりさらに河口を下った、内海に面したびん北岸の町まで向かったのである。


 島育ちのすいにとっては、陸路の逃避行は宮殿脱出以上の苦行であった。


「もう二度と馬車なんか乗らない」


 上紐恕じょうちゅうじょが町に待機させていた快速船に乗り込んで、すいは狭い船室で尻に手を当てながら横になっていた。


「貴人の乗り物だって聞いてたのに、あんなに乗り心地が最悪なんて。これじゃしばらく椅子にも座れない」


 涙目になりながら尻をさするすいの横で、キムも盛大に足を崩して船室の壁にしなだれかかっている。


「実際に体験すると、自分の想像力不足を痛感するわ。文章だったら『事前に用意してあった馬車に飛び乗り、北岸の町まで逃げ切った』の一言で済むのに」


 彼女もまた馬車という乗り物は初めてで、しかもろくに舗装されていない路面を高速で走るものだから、道中で散々に腰を痛めて立ち上がれないでいた。ふたりとも船に乗り込んでからは、未だに一度も床に尻を下ろしていない。


「それでスイ、馬車の中じゃ途中でそれどころじゃ無くなっちゃったから、もう一度訊くわ。あの男、本当にローランって名乗ったのね?」


 腰を押さえながら身体全体を傾けたまま尋ねるキムに、すいは横たわったまま頷いた。


「聞き間違いじゃない。琅藍ろうらんって言ってた。キムとはまた違う、見たこともない黒い顔してた」

「黒い顔……」


 キムは顎先に指を当てて思案顔を見せる。


「そういう黒い肌の人って、私が元いた世界にはたくさんいたわ。私も特に気にしないで、一緒に生活してた」


 その発言はすいには初耳である。というよりもキムが自ら元いた世界のことを語ったのは、これが初めてのことであった。


「キム、もしかして元の世界のことも思い出したの?」


 片肘を突いて上体だけ起こしながらすいが尋ねると、今度はキムが頷いた。


「全部ってわけじゃないけど、だいぶ思い出せたと思う。あの本を読んだせいよ」

「あの本って……」

「ローランが書いたっていう『天覧記』」


 そこで再び琅藍ろうらんの名前が飛び出して、すいの口元が無意識に歪む。いったいあの黒い肌の男が『天覧記』を書いたのか。だとしたら彼はどうして、キムがかつて暮らしていたという『天』の様子を知っているのか。


 そもそもなぜ――


「つくづく謎めいた存在ね、ローランって」


 ただキムの疑問は、すいのそれとは微妙に異なるところにあった。


「スイには前に言ったでしょう。『大洋伝』にスイに当たる登場人物は出てこないって」

「ああ、うん。私にしてみたら不本意だけど」

「ローランも同じなのよ。そんな人物、『大洋伝』にはいない」


 キムは顎先に当てていた右手を口元まで這い上がらせながら、自身の疑問を一言一言確かめるように口にする。


「私が『びょう遊紀』の作者ローランを知らなかったのは、本当の作者であるスイを知らなかったんだから納得いったわ。でも『天覧記』が都で人気を博しただけならまだしも、その後宰師の側近になるなんて。そんな人物がいたら『大洋伝』で触れないわけがない」

「ねえ、それって」


 何かに思い当たったようにすいはがばと身を起こして――次の瞬間に声にならない叫びを上げて悶絶していた。急に姿勢を崩したせいで、裾子スカート越しに尻が床に触れてしまったのである。激痛のあまり無言でのたうち回るすいに代わって、彼女の考えを察したキムが口を開いた。


「もしかしたらローランは、私と同じ世界の出身なのかも」

「……それだったらある程度、筋は通るんだけど」


 目尻に涙を浮かべながらもキムの言葉を肯定しつつ、だがすいには今ひとつ大きな疑問が残る。

 ではなぜ彼は、よりにもよって琅藍ろうらんを名乗っているのだろう?


 ***


 すいたちを乗せた快速船は、程なくしていつの港にたどりついた。


 内海最大の島でもあるいつでは上紐恕じょうちゅうじょの部下・駕蒙がもうたちが、秘かにりんを進発させていた水軍と共に、島主の合流を今かと待ちわびていた。


 そしてすいも安心出来る顔との再会を果たす。


せん、なんであなたがここに?」


 驚くすいを見て、せんは誇らしげに白い歯を見せた。


「忘れたのか。賊討伐には是非お供させてくれって頼んだろう。駕蒙がもう様があの言葉を覚えていてくれて、現地の先導役に呼ばれたんだ」


 そう言ってせんが拳を握る左腕には、三角巾は取れたものの未だ包帯が巻きついている。その腕を目にしたキムは心配そうに眉をひそめた。


「でもまだ傷も癒えてないみたいなのに、大丈夫なんですか?」

「なんてことないさ、この程度、ほら!」


 キムの心配を払拭しようとして、せんは四方八方に左腕を振り回し――途中で全身を強張らせるように固まってしまった。どうやら万全には程遠いらしいせんの顔を見て、キムはますます不安げに表情を曇らせる。


「やっぱり。あまり無理すると後に響きますよ」

「いや、大丈夫、大丈夫」


 せんは脂汗をかきながらも、今さら討伐軍から離脱するつもりは微塵も無いようだ。彼の中では己の左腕の負傷よりも、飛禄ひろくや仲間たちを傷つけた賊への怒りが勝るのだろう。


 ただ次に彼が発した一言に、すいは思わずせんの顔を見返した。


「今回ばかりは、俺自身が乗り込まなきゃいけねえんだ」


 そう語るせんの両眼には復讐以上の、余人には窺い知れぬ思い詰めた表情が宿っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る