Dis:

汚れた希望 -affection-

 また朝が来た。

 これで何度目の朝日を見たのか分からないが、目の前で嬉しそうに笑う顔を見るのは、三日目だとはっきりと分かった。

「おはよう、那岐」

 疲れる様子の無い声が聞こえる。動くたびに短めのスカートが揺れ、視界がぶれる。

「おーい、おはよう」

 覗きこまれた顔が近く、思わず体ごと後ろへ逸らす。

「もう避けないでよ」

「悪い、おはよう」

「うん、おはよう!」

 次の依頼も上手く進むことを祈って起き上がる。まあ、こういう祈りは大抵叶うことはないのだが。

 睡眠不足を感じない体になっても気を抜くと欠伸は出るようで、大きく開いた口から声が漏れる。それでも自分のするべきことは体が覚えているから、公園に向かって動き出す。

「今日の依頼はどこへ行けばいいの?」

「この近くにある公園。忘れ物探しだ」

 結雨の言葉に答えながらオフィス街の喧騒を横目に、歩道に沿って歩みを進める。高層ビルの最上階、ガラス張りの一角は朝日を反射し、冷たく無機質に輝いていた。


 目的の公園を外から覗くと、真っ赤な滑り台やブランコ、砂場などを、子供たちが走り回り、思い思いの遊びをしているのが見えた。舞い上がる土煙と笑顔や歓声が溢れ出す楽しそうな空気の中、一人俯きながら佇む女性。真っ黒なワンピースに身を包む姿は、明らかに周囲に溶け込んでは無く、無理をしてそこに立っているように見える。

 今回の依頼人だろう。

「二階堂さんですか。依頼を受けてきました」

「はい。二階堂綾乃です、よろしくお願いします」

「忘れ物探しって話ですが、詳しい内容は?」

「二か月くらい前、廃墟に手紙を落としてきてしまって……それを探して欲しいのです」

「那岐、近くに廃墟ってあった?」

 普段見ようとしないだけで、廃墟と言われれば山の方へ行けばいくらでもあるし、何ならすぐ近くにでも見渡せば見つかる。それでも、廃墟と言われて思い当たる場所は何一つない。

 名前がなくなり、廃墟という大きな括りになった場所を、俺たちは思い出せないでいる。

「この街を横切る線路に沿って西へ進むと、昔、土牢として使われていた横穴があります。その近くの廃墟となった病院跡です」

「その病院跡って場所から忘れ物を拾ってくれば良いんだな」

「お願いします。見つけたら海岸線へ十五時に来て下さい。赤い封筒で、表には私の名前が書いてあるのですぐに分かると思います。中身は恥ずかしいので見ないでもらえると嬉しいです」

「分かった。それが依頼内容なら」

 依頼内容を確認した俺たちは、二階堂さんから背を向け公園の出口へと向かう。目の前を水鉄砲を持った子供が走り抜ける。

 宙を舞った水飛沫が虹を作り、青空に溶けていった。

 消えた夏のプリズムは、誰かの記憶に留まっているのだろうか。たぶん俺は、いつかこの記憶も忘れる日が来るのだろう。蝉の声と共に過ごした夏は、数十回しか経験できないはずなのに、皆、それすらも全てを覚えていられない。

 出口で、公園の方を振り返る。

 二階堂さんは、どこか遠くを見つめている。その視線の先は、オフィス街の高層ビルを見ているようだが、本当のところは俺には分からない。

 ゆっくりと首が動き、視線がこちらへと向く。

 虚空を見つめるような真っ黒な瞳。

 見つめ続けると、その瞳の奥の感情へ吸い込まれそうな気がして、そっと視線を下ろす。くっきりと残った小さな靴跡だけが視界に焼き付く。

「那岐、どうしたの」

「なんでもない」

 背中に視線を感じながら、結雨と一緒に歩き出した。


 錆びたレールと枕木がどこまでも伸びる。緩やかにカーブを描いた線路は、山へと吸い込まれていくようだった。

 手を広げてレールの上を歩く結雨の横を、枕木を踏みながら進む。砂利の間から生えたエノコログサが、結雨と一緒に風に揺れる。

「悔いの無い人生って幸せなのかな」

 空を見上げた結雨が、ぽつりと漏らす。

「結雨は何か後悔が?」

「どうだろう。うーん、やっぱり残してきた皆のことは心配かな。家族も友達も」

「会いたい?」

「いや、もう区切りは付けたよ。死んだ私が、そんなに現世に囚われ続けるのは良くないよね。家族も大丈夫だって信じてるし、なにより親友に怒られちゃいそう」

 分岐することなく伸びるレールは、迷うことなく前へ、未来へと続いていく。レールの上を自分の意志で歩き、前を向ける結雨の迷わない考え方が羨ましいと思った。

「親友か、大切だったのか」

「そうだね。あの子、可愛くて優しくて、でも変なところだけ気が強いんだよね。間違ってると思ったことは、曲げなくてさ。そういうことが好きだったな。もしかしたら前世は姉妹だったかもね、なんて言うくらいには気が合って」

 何気ない一言が心の奥に降り積もって、声にならない痛みが走る。

 残される方は、そう簡単には割り切れないだろう。「どうして」と「もし」を繰り返しながら、自分を呪って生きていく。違うのかな、でもなぜだかそんな気がした。

 徐々に景色が緑へと変わり、そよ風に身を任せる草木が音を奏でる。


 遠くから金属の擦れる音が聞こえる。心地よいリズムで跳ねる音が、徐々に近づいてきて、突風が背中から吹き抜けた。

 舞い上がった夏草に、俺たちは振り返る。目に前に迫った電車。日光を反射した車両は止まることなく、俺たちを抜き去って地平線の向こうへと姿を消す。生温かな風を残して。

 ぎゅっと目を閉じていた結雨が、僅かに片目を開きながらあたりを見渡す。

「私たち、無事だったの?」

「もともと死んでるからな、二度は死なないさ。それに、そうでなきゃ、線路の上なんて歩かない」

「そうだった。っていうか、ここ廃線だと思ってたよ」

 照れたように笑いながら歩みを進める。

 どれほど歩いたのか、いつの間に土の香りが立ち込める、人気のない寂しげな場所へと景色が移ろう。視界の端に映った黒い影に顔を上る。

 山が口を開けたような穴の前に、ぽつんと小さな石碑が佇んでいた。奥が見えない真っ暗な穴は、絶え間なく現世の光を飲み込んでいるようで、古びた石碑と相まって、周囲の気温が僅かに下がっているような錯覚に陥る。

 視線を逸らす。指先の震え。手首の痛み。

 そんなものは感じないはずなのに。

 読み取れない石碑の文字はもう見ないことにする。

「洞窟の隣。廃墟っぽいのが見えるよ」

 鬱蒼とした木々の奥に、朽ちた灰色の建物の輪郭がうっすらと浮かぶ。

 線路から外れ、廃墟へと足を向けた。

 崩れたコンクリートから這い出るような鉄筋が、空を求めるようにうねっている。天井から滴る水の音。錆びた地下への階段。舞い上がる砂埃。

 建物全体から漂う負の空気。早くこの場から出たいと、辺りを見回すが依頼された封筒が見つからない。

「もしかして地下にあるんじゃないかな」

「行くしかないか。ここで待っていて良いからな」

「私も行くよ。一人は嫌だ」

 二人で一緒に地下へと降りる。そこには地上よりも淀んだ空間が広がっていた。

 投げ捨てられた鎖、鋸や刃物。染みの付いた壁に、真っ黒な水たまり。明らかに人が居て良い空間ではない。病院としても機能していないし、肝試しするには流石に度が過ぎている。

 汚れた手術台のようなものの下に赤い封筒が一通。

 ゆっくりと手を伸ばし、実体化と共に封筒を拾い上げる。僅かに硬い触感。

 そして実体化と共に、突然すえた臭いに襲われる。何かが腐ったような臭いや、錆びた香りがぐちゃぐちゃに混ざたような悪臭に、思わず口元を覆う。

 だめだ、これは正気ではない。これは死の香りだ。

 一番馴染みのある臭い。

 体が反応している。

 原因を探せと。

 臭いに魅入られるなと。

 排除しろと。

 無意識に部屋の奥へと進みそうになる足を踏み止める。

 結雨へ視線を送り、急いで地下から駆け上がった。踏みしめる度に、錆びた階段が悲鳴を上げる。それが耳障りで頭にきた。

 這い出るように、空気を求めるように線路まで戻る。

「大丈夫?」

 体にまとわりついた空気をすべて消すために、思いっきり息を吐く。手に持った封筒だけが不気味に光を反射している。

「もう大丈夫。それよりも封筒は手に入れた、あとは届けるだけだ」

 横書きの封筒の表には、細く繊細そうな字で『二階堂 綾乃様』と書かれている。裏返すと小さく『小鳥遊 絵梨』の文字。

 二階堂さんは何をしにここまで来たのだろうか。

「あまり汚れてなくて良かったね。今から届けに行くの?」

「明日だな。今日中に届けるには厳しい」

 重く感じる封筒を片手に線路を歩く。公園近くへ戻る頃には、空には月が浮かんでいた。

「今日は大変だったね。明日はどこで待ち合わせ?」

「今朝の場所で」

 街の灯りが波のように広がり月明かりが霞む。

 煌々と光る大きなビルを見上げる。真っ暗な地下と正反対の無色無臭の景色に、安心と不安が入り混じっていた。

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