【12 窮地】
◇――――◇――――◇
鉄箸でこめかみを掻くマルコに、わかばはダメ押しでアプローチを仕掛けた。
「ぎ、技能検定の判定はS+です! 他の専門スキルとかはまだですけど、いずれは! し、司法書士も、検定も、是非――ご、ご一考を、おおお、お願いします!」
焦る舌で捲し立てるわかばを軽くたしなめると、マルボロはたった一歩でわかばの眼前まで近づき、わかばの薄い唇にその長い人差し指をあてがい、朗らかな微笑みを浮かべて静かに呟く。
「ちょっと、話さない?」
わかばは凍り付く。
脳裏に、企業面接での惨事がよぎる。
魔女は表情を変えずに
「お砂糖とミルクは自由に使って、たぶん、その辺に埋まってんでしょうから」
そう言って、マルボロはわかばにショットグラスを手渡した。
予想以上の熱さにあたふたするわかばを尻目に、マルボロは山峰の堆積層から端末を発掘し、新人が苦労して四方に寄せたゴミ山を再び均して壁面を露わにする。魔女が指を鳴らしてしばらくすると照明が落ち、スクリーンを兼ねた壁面にはいくつかのグラフが投影された。
マルボロの長い指先が暗闇で赤く輝き、そのうちの一つを指す。
「さる民警のサーバー潜り込んで
わかばは無意識のうちにショットグラスを握りしめた。
さる民警とは恐らく、マイゼンたちのことだろう。
何か気付くことは、と煽るマルボロの声と動きに合わせて、次々と別の資料が映し出される。わかばは、つい一ヶ月前には微々たる値だったラインが、先週に入ってから唐突に右肩上がりしていくことに注目する。
「先月っていうと南区ですか? 湾岸コンビナートのプロパン事故とか、還元酸素中毒とか、アパートメントの手抜き工事が招いた倒壊事件とか――」
「一番お上品な北区、金融街よ――それもたかだかビル一つの中ね」
愕然とするわかばに言葉は畳みかける。
「古株のガラムと新興の中南会が裏取引してね、民警を食わせるために大量の小商いを潰させて、その余波でいろんな企業が人員整理と清算処理に追われてんのよ、今」
コレでも元検事ですから、とマルボロは得意そうに続ける。
「好都合なことに、この手の高給取りはみ~んな高額な保険金が掛かってる――だから、何かしらの事故に巻き込まれたって線で情報を改竄すれば、保険屋との利権が衝突して民警も迂闊に手が出せなくなるわ。 このごろ多いでしょう? 不可解な事故死や病死」
グラフに羅列されたリストの中に、わかばは【フジ=ルネッサンス】の名前を見つけた。上京初日にわかばをワイヤード上で叩き落とした、人材派遣の中堅企業だ。サイトの文言では羽振りの良さそうだったあの企業も、このS-O-Wでは明日をも知れぬ身だったのだ。
「ああコレね、親元のガラムに隠れて、内部留保でちゃっかり溜め込んでたの、横領よ。 報復にアークロイヤルとキングエドワードの二大銀行がインサイダーして、先々週あたりまで虫の息だったんだけど、法人経営保護法の抜け道使ってアタシがチャラにさせたのよ。 そっからの生命保険の受領額見て、すンごいでしょ? これってある意味アタシが殺してない?」
統計学のカリキュラムで受けたことがある。S-O-Wでは、事故や事件かによらず、平均して一時間につき必ず数名の行方不明者が出る。
そのうちの一名は、二度と発見されることがないのだ。
さて、と一息入れて手を叩き、マルボロは仕切り直す。
「シニョーラ・オリベ――街中に通信回線が敷かれ、今や誰もがユビキタスに生きるこの時代、ありとあらゆる情報が力を生むのはご存じのはず。 ならばこのS-O-Wにおいて、個々人の情報を握る弁護士やオルガニストの仕事が、さほど身綺麗なものでもないってことは十分理解できるでしょう?」
「それって、具体的には何をしろと――」
「おトボケはダメよ。 企業間信用値、口座番号、年収、経歴、所在地、プライベート――これら情報の全てが裏の世界じゃ大金になるの。 あわよくばと思って目を光らせた連中がこの都市のそこら中に潜んでるわ。 四角四面な守秘義務も大事だけれど、身の振る舞いは最小にして最効率な防衛術よ」
「それってつまり」
わかばは生唾を呑んだ。
「――法を犯せって言うんですか?」
目の前の相手は、明確には答えなかった。
「言ったでしょう――今や法そのものが杓子定規なのよ」
目を細め、マルボロは詠う。オルガンや端末の機能向上、新アプリの開発と導入。法整備の行き届かない領域で展開される目覚ましい技術進歩に対して、死に体同然の行政府はまるで追いつけていない。
ワイヤード上で繋がりうる全ての情報に、誰もが納得できる線引きをすることなどできない。そんな個人情報を取り扱う以上、一技術者でしかないと思われてきたオルガニストすら、法に触れずに仕事を遂行できる訳もないのだ。
「やっぱり――人を助けるお仕事ってわけじゃ、なさそうなんですね」
わかばは苦し紛れにそう返した。貧弱な握力では保持しきれず、ショットグラスの水面が震える。
「人助け?」
首をかしげ、マルボロは嗤う。
「そうね、基本的には同じよ――悪い人や、悪いことしたと思われちゃった人たちを、常識者気取りの陪審どもや野次馬出歯亀同然の世間サマ相手に、演出、裏工作、舌先三寸の嘘八百まぜこぜで、せめて溜飲の下がる落とし所に持っていく――それがアタシのお仕事よ」
マルボロはそこで熱いエスプレッソを一息に飲み干す。
「十分理に適った人命救助、相応の報酬をいただくトコロまで含めての話だけど」
勝ち誇ったように弁護士は胸を張る。そんなマルボロにわかばは詰め寄る。
「報復とか、バッシングとか――そういうの怖くないんですか?」
「アタシ、完璧主義者なの。 付け入る隙なんて微塵も与えないのがポリシーよ」
そこは信用してほしいわ、とマルボロは締めくくった。
この者に怖いものなど何もない。後悔などするはずがない。言葉の裏で、一体何人の人間たちが消えていったのか。わかばの手は無意識のうちに震えだしていた。
「まあいいわ」
頬をゆがませ、多少不服そうな態度でマルボロは一旦映写機を切る。幾たびか指を鳴らして部屋の照明を自動灯に替える。暗転し、全ての器物の輪郭が闇に溶けておぼろになると、碧い眼光は不思議なくらい輝きを放ち、薄明かりの中に浮かんでいた。
「このアタシだって
マルボロが言い切った。
「よく、評論家気取りの無知な輩が、この都市を無法者の集積場と揶揄してるわ――でもね、人が言葉を得て以来、この世が無法だったことなんて一度もないの。 このS-O-Wも同様よ――どんな組織にも集団にも、
大きな音を立ててソファが軋み、頬杖付いたマルボロが冷たい瞳を輝かせる。
「センスよ」
わかばの胸に、魔女の呪文が重く深く突き刺さった。
「情勢を見極め、そのリズムに合わせて踊れるかどうか――歌に流行り廃りがあるように、世相にも流れがある。 次のアドリブで誰が勝つのか、誰が一番得をするのか、誰がこの話に聞き耳を立てるのか――これらを見極めるセンスなければ、このS-O-Wでハーモニクスは果たせないわ」
マルボロは語る。
目には見えない無数の法を紙一重で切り抜けるのがオルガニスト。一歩間違えれば杓子定規の板挟み。それを手繰り、操り、見破るだけの技量があるのか。
わかばは、無言で汗を握りしめた。
本当は、薄々感づいていた。
どうしようもなく埋め合わせの効かない経験と実績。わかばに示せる奥の手など、精々グレーを装った通常回線の盗聴が関の山。明確な意思を持って法を侵犯したことなどないし、リスクを背負う気概もない。
情勢を読み解けるセンスを問われても、まだ理解のしようがない。完全に二週間前の二の舞だった。それでも負けるまいと戸惑う自分を無理矢理鼓舞し、わかばは必死に言い返した。
そうでもしなければ、また流されてしまう。そう危惧した。
「で、でも――ほかにも会計とか、税金の対策とか――お、オルガニストのスキルはどうにでも使えるじゃないですか! マルボロさんは、そりゃあプロですから、おひとりでできることかもしれませんが、時間さえ掛ければ、いずれは私にだって――」
「お黙ンなさいお嬢ちゃん、余計にボロが目立つわよ」
長い指先に灯っていた赤灯が、消えた。
同時に空調が凪いだ。動作を検知できなくなった機械類が、次々と沈黙してゆく。暗黒の中で時間が止まった錯覚に陥ると、途端に悪寒がわかばの全身を駆け巡る。それはまるで本当の魔法をかけられたように、わかばはその場を動けなくなった。
呪文はまだ続く。
「あのね、見抜いてほしい嘘って、ダレも突っ込まないのよ、めんどくさいから」
動悸が激しくなる。目尻が熱くなる。自身の均衡が崩れはじめる。
突如として押し寄せる焦燥感で、頭の中は真っ白になった。
「オルガニストが潰しの利く職種だと思っていたなら、清く諦めなさい。 業界ごとに扱う情報の傾向が違う以上、特化した専攻を持たない二流が、みんなで安売して今レッドオーシャンなの。 白紙状態から営業がしたいなら、それ位理解してから来るべきね」
心持ちとは裏腹に冴えてゆくわかば瞳には、魔女の輪郭と意地悪そうな視線が暗闇にぼんやりと浮かび上がってくる。
「何社受けた? 何社落ちた? 数なんて気にしなくていいわ、だってアナタ、きっとどこからも必要とされないもの。 考えてもみない? 中途半端なスキルのエンジニアを雇用する側からすれば、リスクを引き受けろって話でしょ? 冗談じゃないわよ、そこんとこ黙らせたかったら、キチンと一人前になってから来るか、マイゼンよりも歳食った上役共のアレ何本も何十本も咥えられるぐらい肝据えてくるかのどっちじゃない?」
滝のごとき言葉の奔流、その一言一言が、わかばの心を確実に蝕んでゆく。
厳重に蓋をしたはずの心の底に、いともたやすく侵入しては、まったく無遠慮に暴きたてる。
シンセイやマイゼンのときのような、歯がゆいオブラートはここにない。
ねえ、とマルボロは柔らかく笑み、そして鋭く呼び続ける。
「どうして
今やマルボロの言葉も、その意味も、わかばには届いていない。
しかし口調が、声色が、呪詛になって心を蝕む。
魔女という語彙が頭に浮かんだ。
口にしてもない真実を言い当て、言葉だけで相手の自由を奪う。
もし本当にいるのなら、こんな者のことを言うのだろうか。
奥底に隠していた、幼稚な自尊心を確実に揺さぶりを仕掛け、時の止まった暗闇の中で、無限に過去の自分と向き合う。この程度でくじける熱意だったのか。その程度の信念だったのか。抱き続けた理想や夢が、嘘と欺瞞に満ちあふれていたことに気付く。だけど受け入れた瞬間、積み重ねてきた人生が、音を立てて崩れてしまう。
そんな不安で心が押しつぶされそうになる。
理性はマルボロの正当性を飲んだ。もはや抵抗も反論も赦されない。肉体は熱と鼓動で扇動するが、ただ震えとなって現れるだけだった。やがて怒ることも泣くこともできぬまま、無力感と焦燥感の板挟みのなか、精神の均衡だけが損なわれ続ける。
わかばは、地獄の牢獄に捕らえられた。誘い込んだのはマルボロだが、その檻も鎖も、最初に仕掛けていたのは自分自身だ。
しかし、看守役のはずの魔女本人が、指先一つでわかばを解き放つ。
「
室内灯が点き、暗闇が晴れる。
眼前にはマルボロが仁王立ち、満面の笑みを浮かべていた。
「じゃあわかばちゃん、ものは試しで、次に実技受けてみましょうか!」
掌を返すように、また真逆の発言。
安堵と同時に困惑がわかばを襲った。
◇――――◇――――◇
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