【11 羨望】

 わかばは、オルガニストになりたかった。


 ◇――――◇――――◇


 モノクロームの鍵盤や、ペダルの感触。眼前には大きなブラウン管と、束ねられた大小様々な真空管。箱の中には敷き詰められた演算回路と複雑な配線。それらが演奏に合わせて熱を孕むときの感動は、どう表現すればいいだろう。うなり声を上げて無機の器官が連動したとき、まるで血を受けたかのように暖かい息吹を上げて、何かが生まれる。


 この世に新しい価値を創造する、神にのみ許された所業だ。

 ただ椅子に座り、言われたとおり入力するだけのタイピストなどは目ではなかった。しかし結婚と出産と家督相続以外に法的イベントが存在しない地方には、そのタイピストすら仕事がなかった。オルガンとタイプライターの違いにすら疎い田舎者たちは、わかばの熱意にただ首をかしげるだけだった。


 知的で、創造的で、洗練された技量を要し、労働価格も高単価。

 おまけに体力も、煩わしい愛想も不要。まさにわかばにとっては理想の職業だ。

 だがそれ故に競争も激しい。


 開発事業の他に保守点検や設備の維持管理、etc.。

 必要とされる知識はべらぼうに多く、さらに七年来の法人認可制度による締め上げが希望者たちを地の底に叩きつける。年々増加するクラッカーへの対処能力、タイピストたちとの差別化と既得権益保護のための厳しい査定。志願者たちは種々多様で、時に理不尽な理由で足きりを受けてきた。

 今では医師や弁護士同様、個人の身元所在と確固たる経歴を公開し、その上で採用側からゴーサインが出なければ名乗ることすら許されないのだ。


 すでに今日のオルガニストは、言うほど華やかな職種では無くなりつつある。

 それでもわかばが憧れを捨てきれなかったのは、彼女自身の楽観思考と、経験則だけを頼りにした根拠の無い自信と、神様が道を用意してくれるというシスターの言葉を信じていたからだ。


 わかばは、奇跡的に正規の移住証を得ていた。後は住まいの問題が片付けば、身元証明の関門は突破できると思っている。それゆえに、残る認可とキャリアさえ手の内に納めれば、晴れてオルガニストとして開業することも出来るのだ。

 活かすも捨てるも自分次第だった。だから、半ば賭けであっても、マルボロから提示された就労条件は、幸先の良い傾向なのだと思うようにした。


 たとえそれが、どんなに悲惨な労働環境だとしても

 わかばはオルガニストになりたかった。


 ◇――――◇――――◇


 法律事務所【Al・Capone】が求めていた人材は、システム工学にある程度理解のあるオルガニストにして、電算整備士その他多種多様な資格を保有し、各種情報法にも明るい司法書士、簿記や会計なども兼任し、マルボロの秘書業務すら一人でこなす、言わば完全無欠な雑用係だ。


「今度の立法決議で裁決される見込みの改正法ね、弁護士当人による情報管理の兼業は、書類偽装を懸念して認可されなくなるのよ。 危うく外部業者委託の常設が義務化するところだったけど、それじゃ個人情報法の守秘義務に抵触するじゃない? だから、内部の人材で代理を立てればいいって線でにするつもりよ」


 まじまじと弁護士バッジを確認するわかばに、マルボロは長々と経緯を添えた。


「全部取るのに時間は掛かるでしょうから、現段階で特に期限は設けないわ。 しばらくは外注と知り合いで対処するから、今のところお勉強に励んでちょうだい」


 マルボロは憐憫の情も含みつつ、さも仕方なさそうに笑顔をふりまくと、わかばは口ごもりながら応えた。

「あ、ありがとうございます、頑張ります」

 言い終える間もなく、わかばの手中に収まったバッジを、白く長い手が掠めとる。

いいわBene、その代わり教育は徹底するから覚悟なさい」

 偽の碧眼が放つ冷たい眼光は、わかばの気を引き締めるのに十分な効果があった。 


 端から見れば、明らかにオーバーワークを前提とした超々ブラック業務だ。だが同時にわかばは安堵と昂揚をも感じた――チャンスだと思った。

 丸暗記力には自信がある、そういう勉強ならいくらでもできる。つらい肉体労働でなければ、どんな苦境でも乗り越えられる。だって憧れのオルガニストなんだ。わかばは息巻いてそう意気込んだ。

「――来るなら来い。 そう簡単に音を上げるもんですか」 

 しかし鼻息も荒く沸き立つ闘志とは裏腹に、現実は非情で厳しかった。


 ◇――――◇――――◇


 マルボロは玄関で軽く挨拶を交わしながら二、三の経歴を確認すると、廊下で手短に先の就労条件要項を説明。Benvenutoようこそと朗らかに叫んでは、次の瞬間早急にその場を後にしてリビングの清掃を押し付けたのだ。

「ベタ置きしてるモノは捨ててちょうだい――ただし、一ミリでも床から浮いてるものはダメよ? コード類が邪魔でしょうけど、絶対抜かずに工夫してね」


 わかばは、オルガニストになりたかった。

 そしてオルガニスト志望者のわかばが初めて任された仕事は、ゴミ屋敷から床を発掘する考古学のアルバイトだ。

 森の奥地に潜む魔女の屋敷妖精。それが今のわかばに割り振られた役柄だった。


「いくら何でも、この量――」


 気が急いていた分、やることの次元の落差に戸惑っていた。事務所の応接間には、腰の低いテーブルを挟んで大きなカウチソファが二つ対列しており、テーブルの上には端末や各種拡張機器が広がる。床面には何かしらの酒瓶や空き缶が散らばり、部屋の端では空の箱がうずたかく積まれている。それらが今にも崩れそうな絶妙なバランスを保ちながらギリギリの山嶺を維持していて、何から手を出すべきかまるで見当がつかない。

 長年孤児院と教会での共同生活を過ごし、それなりに厳しい躾の中で育ったわかばの感覚からすれば、なかば生理的な嫌悪感すら覚えた。


 けれども、簡単に断る訳には行かない。弁護士という仕事の関係上、電算機オルガンで行う作業には個人情報の機密も関与する。そんじょそこらじゃ扱わないような仕事だってある。事務のイロハすら教示されていないあいだは、目の前の雑務に駆り出されることは当然なんだと、わかばは自身を納得させた。


 ◇

 

 作業が手元にあるあいだは、無心を装って黙ることもできる。エアコンフィルターの埃もマスク代わりのブラのパッドも、何ら気に留められずにいられる。妙に育ちのいい観葉植物に空いた酒瓶で水をやりながら、わかばはあることに気がつく。 

 オルガンが遠い。

 タイプも映写モニターもフォログラファー瓶もパンチカードプリンターも。

 わかばは、オルガニストになりたかった。

 すぐ目の前に機材はあるのに、足下のゴミ袋が邪魔になって近寄れない。肝心のオルガンは扉の向こう。雇用者であるマルボロは事務所の電算室にこもって以来、ロクに出てこない。時折聞こえてくるシャウトは、彼女(ないし彼)が本来荒っぽい性格であることを告げており、近寄りがたさを助長させる。


 ブラインドから西日が差し込む。

 万年曇天のS-O-Wで唯二つしかない日の光が、散乱した室内を黄色に染め上げる。


 わかばはソファにアルコールスプレーと消臭剤をたっぷり浴びせて腰掛けた。一時間かそこらだろうか、無心で働き続けた甲斐あってひとまずゴミ屋敷も片づいた。少なくとも床面積はある程度確保した。だが、ほんの少しでも手透きになれば、あの不安と焦燥感が再び押し寄せる。


 泥のような徒労感から、身体がみるみるソファに沈む。ブラインド越しに射す光を浴びてうたた寝しかけると、不意にほんの少しの涼しい風が頬をなでた。それが電算室からマルボロが出てきたことに気付くのは、彼もしくは彼女の怒声を耳にしたときだ。


「あーん、もう、バぁ~っカ、バカしぃ! ぃやンなるわぁ?!」


 突然の大声に驚いて、ソファから転げ落ちたわかばが肘をつく。電算室の中から飛び出た魔女は、発掘された床面や足下のゴミ袋の山には何一つ目もくれず、一目散にカウンター奥の業務用冷蔵庫へと向かう。


「弁連のヤツら、あんな安いクローラーの始末に手間取るなんて。 あり得ないわ、絶対故意よ、それもコッチのが品薄な時に――やらしい手ェ使いやがって」


 魔女が一歩を踏み出すごとに、景気よく破裂音を立てながらゴミ袋が弾け飛ぶ。わかばの努力も虚しく、飛散した中身は瞬く間に部屋中に散乱し、エントロピーの法則に従って無秩序は活性化する。賽の河原に君臨する栗毛の鬼は、紅海を割った預言者のごとく尊大に冷蔵庫を開けた。


「嘘、もう切らしてんの? あーヤダ、ホントやってられない」

 マルボロは大きく一息吐くと、隣のワインラックから好みの一本を取り出す。ブルゴーニュ某という、やたらと古いラベルが目についた。

 預言者、もといマルボロはシンクの前に立つと、偶像崇拝の有象無象が散乱させた地獄絵図へ無造作に手をつっこむ。取り出した鉄箸を逆手に取ると勢いよくコルクに突き立て、器用に捻って栓を抜く。コルクが景気よく音を立てると、間髪入れずにラッパ飲み。


 中身が三分の一ほどなくなってから、げっぷと再び独り言。

「外注先は吟味しないとダメね、カズペックの口の堅さを甘く見てたわ」


 冷蔵庫とわかばの口は、虚しく開いたまま閉じることはなかった。足下にどことなくひんやりとした空気が漂ったところで、魔女はやっとわかばの存在に気がついた。

「あ、お仕事お疲れさま。まぁ~前よりずう~っとスッキリしたんじゃない?」

「あ――はい!」

 コンマゼロ単位で切り替わる、マルボロの営業スマイル。弓なりになったまぶたの奥で、カラコンの碧い瞳がギラギラと輝く。


 だめだ。この目に呑まれては行けない。

 真意を伝え損なえば、また流されてしまう。わかばは、これまでになく焦った。

 これが最後だ、もう後はないんだ。


「あ、あの」

「いいのよ、元々期待してないから。むしろこのゴミタメ相手に善戦してる方だと思うわ、誇りなさいな、清掃業にも転職できるわよアナタ」

「その、そっちじゃなくって――あのその、えっと」

 怪訝そうに首をかしげるマルコに、わかば勇気を振り絞って、言った。


「――わ、私は、オルガニストのお仕事がしたいんです!」

 呆然と放念がマルコに、戦慄と焦燥がわかばに、そして冷蔵庫の開閉アラームが室内に充満した。


 ◇――――◇――――◇

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