【09 警鐘】

 渋滞に差し掛かって三分ほど経つと、岩舞善次郎のブルーバードの車内灯が明滅しはじめる。フロントガラスに仕込まれた偏光繊維が、一瞬だけオレンジ色に輝いた。


「向こう十分は足止めですな」


 車内灯を兼ねた映写機から、フロントガラスに地図が投影される。偏光繊維に反応して、付近一帯の交通状況が赤と黄色のグラデーションで描かれる。

 わかばは、時間よりも車酔いが再発しないか心配だった。


 狭いブルーバードの助手席からあたりを見渡す。片側一車線はエレカの押しくら饅頭だ。目の前には中規模の環状交差点が見えるが、給電パンタグラフで接触事故が起きたのか、ど真ん中でエレカが二、三台煙を吐いて転がっている。その周りでは、岩男の同業者らしき者たちが、まるで踊っているかのような振る舞いの手旗信号で残りの大群を捌いている。悲壮感漂う表情の割に、やや滑稽な光景だとわかばは感じた。

「泣かせるね、まったく」


 ブルーバードの運転を務める、マイゼンこと、岩舞善治郎。

 民警の辣腕刑事は、まるで踊るような動きでエレカの大軍を捌く同業者たちへ、車窓越しに呆れと憐憫の情で見つめている。


 ◇


 長丁場を予感したのか、彼の注目はフロントガラスに移った。

「織部さん、コイツをご存知ですかね」


 映写機から投射された赤点が太い指先に集中し、大雑把な動きに合わせて地図がスクロールする。オレンジ色で埋め尽くされた地図上に、一ヶ所だけ、情報が途切れてぽっかりと空いた穴がある。その周辺域には長期渋滞を示す赤いラインが、まるで敵襲を待ち構える城壁のように二重三重と覆いつくしている。

「【真龍城】――」

 わかばは固唾を呑んだ。


 その名前を知らない者が、この世界にいるだろうか。

 都市の階層構造を何層もぶち抜き、浸水被害が著しい廃棄階層まで続いていると噂される違法増築の集合住宅街。非合法入手した有機結合建材で形作られた灰色の迷宮に、在市華僑の約四割が暮らすと言われているが、実際は出入りが激しすぎて、実数は誰にも把握できていない。

 混沌を極めつつある有様を、かつて彼の地にその名を轟かせた九龍城に準えその名で呼ばれるようになった、S-O-W最大の魔境。


「ここの話題を、テレビで聞かない日は、ありませんでした――」

「歯がゆいもんですなぁ、我々には戒めの言葉に聞こえますよ」

 マイゼンのような民警が顔をしかめるのも当然だ。


 長年にわたり繰り広げられてきた派閥抗争とその都度複雑化する潜規則。入居者の大半が何かしらの関わりを持つと言われている黒組織【中南海】の絶大な影響力。今や民警はおろか、怖いもの知らずの都市弁護士連盟協会、つまり弁連ですら容易に手が出せなくなった、都市最大のグレーゾーン地帯が真龍城なのだ。


 つい七年前までは、とマイゼンは切り出す。

「チャイナタウンに隣接しただけの凡庸なアパート街で、盆や旧正月の時期なんかはお祭りがあってな、俺も芝居小屋にはよく行った――京劇は、見栄の切り方が好い。 覇王別姫なんかは歌も殺陣も迫力あって――おっと、失敬」

 とんだ脇道でしたな、と言っては頃合いを見計らい、マイゼンは緩やかにアクセルを踏んで、ブルーバードを渋滞から解き放った。

 それと同期して、フロントガラスの大半を埋め尽くしていた交通情報はバックミラーの脇に簡易マップとして転写される。

「居所が判明したのはつい先週、俺も寝耳に水でしたよ」

 マイゼンがギア横の端末を叩くと、フロントガラスに該当者の証明写真と経歴が映し出される。


 高い鼻筋、細い顎、眠そうに垂れたまぶた、緩くカールした栗毛。調理次第では美男にもなろうが、写真で見るとやや凡庸。年齢に偽りがなければ、今年で三十四、五。マイゼンとは同い年だ。

「マルコ・ロレンツォ・ボレロ――の輩からは、【マルボロ】で通ってる」


 やっと動き出した道路状況に合わせて、マイゼンはとつとつと語り始める。

「竹馬の友、同じ釜のなんとやら――最も、警官と検事じゃ時に水と油でしたがね、それが何の因果か、弁護士ヤメ検に鞍替えして本当の商売仇になっちまった」

 七年前の話だ。やや言葉に詰まりながらも、マイゼンは続ける。

「件の民営化の前段階として、市警には大規模な改組があったんだが、その折に大量の汚職が各メディアに素っ破抜かれた。奴は、ちょっとしたが得意でな、尻尾掴まれる前に雲隠れだ。 ただの一度の断りもなく、長年それっきりだった。 人伝いに法律関係の仕事をしてることまでは把握できたが、正確な状況が分かったのは、つい最近のことだ――」


 マイゼンは口惜しそうに締めた。

 名残惜しさよりも呆れたような言い方だった。その所在が真龍城のど真ん中にあることには、何の驚きもなさそうだった。


 元からそういう男で、今はそういう仕事をしている、ということなのだ。

 事務所の名前は【Al Capone】。

 タライ回しに重ねて、何とも先行きが不安になる名前だ。


 まあ、海千山千だ、とマイゼンはどこか歯切れ悪そうにそう切り出す。

「煮ても焼いても食えないってのは、アイツみたいな輩を言うんでしょうな。民営化した今でさえ、商売仇の警察官、それも頭が固いだけのこの俺に求人預けるような弁護士ともなりゃ、生き残り方なんざ手取り足取り教えてもらえることでしょう」


 、と聞いてわかばは一瞬身構えた。マイゼンは若干焦り、下手な愛想笑いを浮かべて身の安全は保障することを宣告する。

「奴は、そう――ですから」

 その言葉を発してからしばらくマイゼンは黙った。


 ◇


 ブルーバードが目抜き通りを抜け、真龍城を目指す。道が狭くなるほどに、建物の背は低く、間口は狭く、天網の目も細かくなる。人混みの密度だけは変わらない。

 タイミングを見計らっていたかのように、再びマイゼンが口を割る。

「在郷での暮らしは、そんなに退屈でしたか?」

 唐突に、一見すると不作法に、しかしその実丁寧に選りすぐられて放たれた言の葉が、わかばの心の隙間に何の抵抗もなく潜り込む。

「え?」

 問い返したのはからではなく、からなのかもしれない。だがそうは問屋が卸すまいと、巌とした視線がわかばを射抜く。


「カリキュラムは全て通信限定、短大相当の課程を修了。街一番の電脳少女、ただし就労未経験につき、自治会からの信用値は皆無。 修学、就職、結婚、遺産相続の予定と手続き、なし。 武器になりそうなのは、地方じゃ持て余すだけのタイピスト技能、それも判定はS+」


 淡々と、他者の口を介して吐き出されたわかばの半生は、驚くほど味気なく思えた。こうも簡単に言及されて、納得がいく訳がないが、無闇に噛みつけば、自分のプライドの薄っぺらさを認めることになる。


「その様子だと、いつか寂しくなるんじゃないですかねえ」

 いつの間にかブルーバードの進路には、高い灰色の城壁が広がっている。すでに退路は断たれている。その上で追い打ちをかける。


 ちゃんと探したのか。適当な言い訳をしていないか。

 こんなろくでもないアテにすがりついて、まともな職に就けると思ってるのか。


 語り口の柔らかさ、当たり障りのなとは裏腹に、眼光は鋭い。心のヒビに楔をあてがい、いつでも穿てる状況で嗜める。

 大人だ。

 ずるいやり口だ。


 わかばはこの男が辣腕と呼ばれる理由を、なんとなく理解した。一番聞かれたくないこと、考えたくもないことを、最小限の言葉で思い起こさせる。まるで誘導尋問だが、ここまで来たら子供みたいな安い言い訳はできなくなる。


「後悔は、ありません」


 答えはした。だが、決意ではない。

 試されるような沈黙に耐え切れなかったからだ。


「する予定も、思い返すような人も、私には、もう、いません」


 本心じゃない。絶対にあとで、何かがココロをかき乱す。

 そんな予感がする。それでも虚勢を張らなければならない気がした。


 しばらく黙り込んだ後、マイゼンは静かに、いい心構えだと短く応えた。間もなくブルーバードを路地裏の人気のない道へ進み、駐車場に停めた。

「着きましたぜ、わかばさん」


 幾秒か動かない時が流れたあと、マイゼンはそう切り出した。

 真龍城――魔境の入り口。

 辣腕刑事の視線の先には、さながら孫悟空を圧し潰した五行山の如き、鈍くて古くて巨大な灰色の城壁が構える。異様な雰囲気を放つ異界の門が、道一本向こう側からこちらの世界を圧倒する。


 マイゼンは先に降車し、ドアに背を預けた。

――帰ってきて、このオンボロが空車だったとしても、なにも驚かない。 逃げたって構わないし、俺は追わない」

 マイゼンはわかばに背を向け、そう語る。語るだけで、あとは何もしない。


 室内灯が消え、フロントガラスに駐車と文字が浮かび上がると、バッタの後脚のようなパンタグラフがうなり声を上げ、車体に格納される。


 鍵はまだ、開いている。

 出たとこ勝負の賽の目は、とっくの昔に数え終わっている。


 ◇

 わかばは、無言で静かにブルーバードを降りた。

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