第二十五話 そして、新たな一日へ

 翌日、土曜。

 陽一が目を覚ましたのは七時半頃。ぼけっとした目でベッドサイドの時計に目をやった彼は、起きるか二度寝するか、数秒思い悩んだ。

 だが結論を出すより早く、すぐ隣に横たわる何かの気配に気づいた。掛布団の下に隠れていて姿は見えないが、人物大の何かであるのは分かった。

「…………」

 半ば以上正体を確信しながらも、陽一は確認のために布団をめくり上げる。

 案の定、星奈がいた。

「……んぅ? あ、よーいち、おはよ……」

 光が当たったためか、ちょうど目を覚ましたらしい。眠たげに目を半開きにしながら、甘えた声で星奈が言う。

 陽一は痛みを堪えるような渋面でこめかみを押さえ、小さくも重々しい声を絞り出した。

「お前……そういうことはするなって言っただろーが」

「やらないなんて言ってない」

「この野郎……」

 しゃあしゃあと言ってのける星奈に、陽一が忌々しげに吐き捨てる。勿論、星奈は陽一の反応などお構いなしに、身体を起こして伸びをしていた。大あくびをしては目元を擦るその姿は、あたかも自分のベッドの上にいるかのような図々しさだった。

 言いたいことは尽きないが、結局陽一はそのほとんどを諦めて噛み潰した。朝から疲労が堆積する心地だ。

「ホントさぁ、ちょっとくらい俺の頼み聞いてくれてもよくない?」

 泣き言のごとく漏らす陽一を一瞥した星奈は、小さく頬を膨らます。それでもすぐに、楽しそうな薄笑みを浮かべた彼女は、

「本気で怒るようなことはやらないよ」

「怒らせたいのか?」

「そんなことないよ。怒らないって知ってるだけ」

 脅すように言ってみても、返ってくるのは見透かしたような反応だ。それ以上は言い募る言葉もなく、嘆息とともに陽一は口を噤んだ。気をよくした星奈が、そんな彼に並んで身体をすり寄せながら喉を鳴らす。

 そんな彼女の頭に、陽一はそっと手を置いた。突き放すのではなく、逆に引き寄せるようにして、星奈の頭を自分の肩に乗せる。意外な行動に、星奈が丸くした目で陽一を見た。

「星奈。お前は、俺をどうしたい?」

 構わず問いかける。昨晩の父から投げかけられたのと同じような、少し違う問いを口にしながら、陽一は星奈の方を見ないまま、何度もその髪を撫でる。

 最初、星奈は戸惑っているようだった。何も答えず、ただ陽一の横顔を見上げながら、薄く口を開いて黙っていた。それでも、彼女は不意にクスッと笑いを漏らし、次いで囁く。

「前から言ってる通り。変わってないよ、私の望みは」

 そう言うと、星奈はいつものように、陽一の腕にそっと自分の腕を絡めた。彼の手に自分の手を重ね、柔らかく握る。少しだけ目を細めた彼女は、秘めるような小声で続きを口にした。

「ずっと一緒にいたい。ずっと一緒にいて欲しい。お兄ちゃんじゃなくて、陽一に」

 体重を預けた陽一の肩に頬ずりをして、星奈は言葉とともに安らいだ息を漏らす。

 陽一は何も言わなかった。彼女の言葉を否定も肯定もせず、ただ握られた手に指を絡め返す。隣から小さく笑みを零す声が聞こえたが、それにも敢えて反応しない。

 握った手が、そっと引かれる。

「ね、私にも教えて」

「うん?」

 小鳥のさえずりのように軽やかに、星奈が尋ねかける。相槌のように聞き返した陽一の耳元に、星奈は唇を寄せて囁いた。

「陽一は……」

「……?」

「ううん、何でもない」

 いや、問いは形を成す前に解け、結局星奈は首を振りながら、改めて陽一の肩に頭を預けた。

 沈黙の時間。しかし、それも長くはなかった。陽一は幾分荒っぽく星奈の髪を撫でまわす。隣から不満げな呻きが聞こえるのを無視して、

「――好きだよ。俺は、星奈のこと」

「……ふぇっ?」

 動転した声を上げて、星奈が陽一の顔を凝視した。まるで図ったかのように、まったく同時に陽一も星奈の方を見た。ぴたりと視線を重ね、薄く微笑む。

 星奈の瞳が揺れる。咄嗟に目を逸らした彼女の頭を、陽一の手が撫で繰りまわした。

「何驚いてんだよ。当然だろ、大切な妹なんだから」

 笑いを含めた声音で嘯くと、星奈は恨めしげに横目で陽一を一瞥し、すぐにまた目を逸らす。心なしか赤らんだ顔で、

「……誤解を招く言い方しないで」

「滅多にないけど、お前が照れてるとこ見るの、結構楽しくてな」

「趣味悪いっ」

「ぁあ? お前が言うかぁ?」

 思いっきり渋く表情を歪めて吐き捨てる星奈と、苦笑でいがみ合う陽一。しばし顔を見交わしていた二人は、やがてどちらからともなく、堪え切れなくなった笑いを噴き出した。

 途切れ途切れに息を詰まらせながら、陽一は軽く星奈の頭を上向かせる。もう一度彼女の双眸に焦点を合わせ、彼は語りかけた。

「つーかいつまでベッドに入ってんだ。そろそろ降りろ」

「ちょ、脚蹴らないでよ」

 同時に布団の下で脚を小突く彼に、文句を言いつつ星奈も従った。床に足を下ろした彼女は、それでも名残惜しそうにもたくさと立ち上がる。

「……んなッ!?」

――かと思えば、直後に振り返って、陽一の方に腕を広げて飛びついてきた。予期せぬ行動に、陽一が度肝を抜かれた呻きを漏らしつつ、星奈の身体を受け止める。首に腕を回され、否応なく押し倒された陽一は、戸惑いと苛立ちが等分に混ざった声で、

「星奈お前、いい加減にしろよ……」

 言いながら彼女の頭を掴んで押しのけようとしたが、それが実を結ぶより早く、彼の耳元に唇を寄せた星奈が囁く。

「前に陽一、言ってたよね。私のお兄ちゃんであることも、私と一緒にいることも、どっちも諦めないって」

「は? まぁ、何かそんなようなこと言ったな」

 吐息が耳を擽る感触にぞくりとしつつ、陽一は曖昧に応える。星奈の意図も、彼女の言わんとすることが分からなかった。

 抵抗の緩んだ陽一に、さらに深く抱きつきながら、星奈は続けざまに彼の耳に言葉を吹き込む。

「私ね……今は、陽一にそれを諦めさせたいな、って思ってる」

 なお意味深な言葉に、陽一が目を剥いた。力の抜けていた手に活を入れ直し、星奈を引き剥がそうとするが、今度はそれより先に、星奈が顔を少しだけ離した。

 陽一の耳元にあった顔が、今度は彼の目の前に。柔らかく、そしてどこか蠱惑的に微笑んだ星奈は、ぎょっとして身を竦ませた陽一の頬に指で触れる。

 そして、


「私のお兄ちゃんであるために、陽一がしてる我慢、やめさせてやりたいって思ってる」


 ちゅ

 告げられた直後。星奈の唇が触れた。

 陽一の唇の、すぐ隣。頬を少しだけ濡らして、すぐに温かい感触が離れる。魂の抜けた表情で凍りついた陽一へと向けられた星奈の笑みは、三日月のように細く妖艶で、それでいて幼稚にすら感じる悪戯っぽさをも匂わせた。

「本気でいくから。我慢、できるといいね」

 幾分挑発的な言葉を残して、星奈は颯爽と部屋を去っていった。一人ベッドの上に取り残された陽一は、呼吸すら忘れて固まっていた。

 その彼の手が、唐突に星奈にキスされたあたりに触れる。次いで自分の頬を摘まみ、思いっきり捩じった。痛い。

 困ったことに夢ではなかった。

「……マジかぁ」

 現実感のないまま、抑揚のない声が口を突いて出る。思い出したように大きく息を吸って、吐き、それからようやく、ほんの僅かに表情を動かすことができた。

「あぁ~……マジかよ、とんでもねぇなぁ……」

 苦い笑みで、そんなロクに意味を成さない言葉を繰り返し零す。両手で顔を覆い項垂うなだれて、ぼやき続けていた彼は、人形の糸が切れたかの如くばったりとベッドに倒れ伏す。

 陰々と響く笑い声は、それでも、一片の清々しさを滲ませていた。

「……はぁぁぁ」

 大きく溜息を吐き出す。

 指の隙間から天井を見上げた陽一は、刻んだ笑みをさらに少し深く曲げて、

「困ったな。手強いなぁ……」

 困窮以外の感情を含んだ声で、一人呟いた。

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春日兄妹は仲が良過ぎる えどわーど @Edwordsparrow

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