第二十三話 帰宅後のひととき

 一時期より、星奈が落ち着きを取り戻したことは間違いない。それでも、少しだけ家の扉が重く感じてしまうのは、決して全てが元通りになったわけではないからだ。

「……ただいまー」

 意を決して玄関の扉を開け、靴を脱ぎながら声をかける。ややあって、ぱたぱたと足音を立てて、小走りで星奈が姿を現した。

「お帰り、陽一」

「おう、ただいま」

 もう一度言って、陽一が星奈に歩み寄る。そんな彼に、星奈もまた自ら陽一の方へ近寄っていった。ぎょっと足を止める兄に構わず、星奈は触れ合いそうなほど近くで陽一の顔を覗き込み、

「お疲れ様。ご飯にする? お風呂にする?」

 邪気のない、しかしどこかわざとらしく可愛らしい声で問われ、陽一が顔を顰めた。彼の表情の変化に当然気づきつつ、星奈はさらに熱っぽく潤ませた瞳を、半ば閉じた瞼で隠しながら続ける。

「そ・れ・と――」

「ご飯で頼む」

 みなまで言わせぬとばかりに、固い口調で陽一が遮った。憮然と睨み返された星奈だが、彼女は気落ちする様子も見せず、軽やかな足取りで踵を返す。陽一に背を向けたまま、肩越しに振り返った星奈は、からかうような笑みを浮かべて告げた。

「分かった。じゃあお風呂掃除してくるから、晩ご飯の支度はお願いね」

「……え?」

 途端、目を点にして陽一が呻いた。彼を置き去ってリビングに戻ろうとする星奈を慌てて追いかけ、肩を掴んで歩みを止める。

「ちょ、ちょっと待てっ。家事の分担の話だったのか今の?」

「そーだよ。何だと思ったの?」

「……いや、普通にどっちを先にするかって話だとばかり」

「ご飯よりお風呂が先だったことなんて一度もないでしょ。聞かないよそんなこと」

 尋ね返す星奈に、はぐらかすように答える陽一だったが、返ってくる視線はちくちくと痛い。への字口で目を逸らした彼の横顔を、星奈は追い立てる眼差しで容赦なく睨んだ。

 そんな彼女だが、不意に大きく息を吐くと、

「じゃあ、もう一個選択肢をあげる」

「何だ? いや、つーか風呂掃除でいいんだけど……」

 安堵の一方、なおも言いたいことがありそうに口を開いた陽一には耳を貸さず、星奈はリビングの方を指さして一言。

「お父さんの相手しててくれない?」

「お帰り陽一。ところで星奈、まるで父さんが厄介者みたいな言い方やめない?」

「えっ、何で帰ってきてんの?」

 まるでその言葉を待っていたかのように、ひょっこりとリビングから父親が顔を出す。思わず陽一の顔が、心底嫌そうに引き歪んだ。

「何かね、お母さんが週末泊りで同窓会なんだって」

「あー……で、一人じゃ寂しくなって帰ってきたと。親父らしいなぁ」

 父の言葉を待たずに説明する星奈と、それに腕を組んで頷く陽一。兄妹のやり取りを見やりながら、父は年甲斐もなく頬を膨らませて唸る。絵面が割と気持ち悪い。

 彼は陽一たちの方に近づきながら、不満げに唇を尖らせ、

「何だよー。ゴールデンウィーク帰ってこれなかった分顔見せに来たってのもあるんだぞ~。お前たちだって寂しかっただろ?」

『全然』

「薄情者っ!」

 声を揃えた兄妹に、父が噛みつくように吠えた。心なしか涙目にも見えたが、悲しきかな、陽一と星奈が同時に感じたのは、申し訳なさではなく鬱陶しさだった。

 そのまま父は、自分の腕で目元を覆って泣き声のようなものを漏らし始めた。星奈が呆れ顔になりながら陽一を見る。「どうにかして」と、声に出すまでもなく強く訴えかけていた。

「……面倒くせぇ……星奈、買い物は?」

 陽一もまた胸中を隠す気配もなく、溜息とともに星奈に語りかける。問いかけに、星奈は首を左右に振って平然と答えた。

「行くには行ったけど、お父さんがいるのは計算外だったから、もう一回行かないと三人分作るには不便かな」

「今日中に使わなきゃまずいものは?」

「それは特に……ああ、なるほど、確かに」

「そういうこった……親父」

 やり取りの中で陽一の意図を悟った星奈が、得心したように頷く。薄笑みでそれに応えてから、陽一は父に水を向ける。

 父は即座に顔を上げ、

「おう、どしたー?」

「元気じゃねぇか……」

 彼のあっけらかんとした反応に小声でぼやいた陽一は、続いて後ろ頭を軽く掻きながら言った。

「晩飯、どっか食いに行こうぜ。親父の奢りな」

「えー。星奈の料理食べたかったな~」

 親に対する態度としては、陽一のそれはかなり不遜だったが、父は父でけろっとしたものだ。怒る様子はまったくなく、ただ渋るように肩を落とす父だったが、陽一は鼻を鳴らして言ってのける。

「先に帰ってくるって言っておかない親父が悪い。外に食いに行くか、俺の作るクソマズい飯を食うか、どっちか選べ」

「よーしどこがいい? 父さん久々に中華がいいな」

 予定調和的な掌返しだ。無言で視線を見交わす陽一と星奈は、同時に短く苦笑を漏らす。

「私はいいよ。陽一と二人だと行かないもんね」

「商店街のあそこだろ? ちょっと高いからな。まぁそもそも外食自体あんまりしねぇけど」

「そーかそーか。まあそれくらいは任せなさい。父親の甲斐性を見せてやる」

 星奈と陽一が口々に応えると、父もニヤリと笑って首肯した。

 会話が一段落したところで、やおら陽一は手に持ったままだった鞄を揺らして、

「ひとまず、荷物置いてくる。飯も風呂掃除してからでいいだろ」

「うん。任せていい?」

「おう」

 小さく首を傾げた星奈の頭を、陽一はそっと撫でた。嬉しそうに喉を鳴らす彼女の髪に幾度か指を潜らせた陽一は、次いでリビングを見渡してから、父の方を振り返る。二人のやり取りを見て微笑んでいた彼が、その視線に気づいて眉を跳ね上げた。

「何だ、どうかしたか陽一?」

 呑気な声で尋ねてくる父に対し、陽一は妙に白けた眼差しを向けて、

「ところで土産は?」

「……あっ」

 声を漏らした瞬間、父に注がれる冷めた視線が二組に増えた。特に、直下から失望の吐息とともに見上げる星奈の視線が、瞬く間に彼の心を削ぎ落してく。

「……陽一。学校疲れただろ。風呂掃除は俺がやっとくから、お前は出かけるまで休んでろ?」

「そうか? じゃあお言葉に甘えるかな」

 有り難がるような言葉とは裏腹に、底冷えするような声で陽一が応じると、父は星奈の眼差しから逃げるように駆け足で風呂場に向かった。

 それを見送り、しばらくしてから、不意に星奈がクスリと笑う。

「意地悪」

 短く、さぞ楽しそうに零した彼女に目をやって、陽一もまたニヒルにほくそ笑んだ。

「あそこまで思い通りになるとは思ってなかったけどな。自分の親父ながら、ちょっと心配にはなるが」

「春日家の男はちょろいんだね」

「一緒にすんなよ、心外だ」

 小声で応酬を繰り広げる二人。陽一は払うように手を振ってぼやくと、そこで会話を打ち切って、自室に向かった。

 二階の部屋に辿り着いた彼は、ベッド脇に鞄を放り出すと、制服を脱いでハンガーにかけた。手早く普段着に着替える。そして、早々にリビングに戻ろうとドアに手を掛けた――ところで、彼が動かすより早く勝手にドアが開いた。

「陽一」

 ひょこっと星奈が顔を覗かせる。驚いて一瞬足を止めた隙に、星奈は陽一の脇をすり抜けて部屋の中へと入っていた。

「ちょ、おま、勝手に入ってくるなよ」

「別にいいじゃない。陽一がいないときに忍び込んだりはしないよ、流石に」

「当たり前だ」

 迷惑そうに顔を顰める陽一だが、星奈はどこ吹く風で言ってのけた。ますます陽一の表情が曇る。

「いいから出ろよ。俺ももう下に戻るから」

 そう告げて促すものの、星奈は何故かそこから動こうとしなかった。陽一のすぐ傍で佇んだまま、少しだけ陰のある上目遣いで彼の顔を見つめている。

 何となく察して、陽一は渋面のままさらに呟いた。

「言っとくけど、いくら何でも今日は一人で寝ろよ。親父もいるんだから」

 抑えた声だが、決して譲らぬ強い口調で言い聞かせると、星奈は口答えせず小さく頷く。ただ、直後に再び顔を上げた彼女は、さらに一歩陽一に近づくと、彼が反応する前に腰に腕を回して抱きついた。

「分かってる。だからその分、今、こうさせて」

 制止する間もなく抱きつかれた陽一が、身動きもできず息を呑んだ。そんな彼の胸に顔を埋めて、星奈は頬ずりする。

 呆れか諦めか、気の抜けた吐息が星奈の頭上から降り注いだ。

「ったく……最近はすっかり甘えん坊だな。いつまで続くんだ?」

「だって、こうしてると落ち着くから」

 苦笑とともに語りかけるも、星奈は一向に離れる気配はない。陽一の顔には目もくれないまま、

「ホントのこと言うと、今はもう、離れてても寂しいわけじゃないの」

 言葉とともに、星奈は片手を陽一の背中に回した。よりしっかりと彼に密着しながら続ける。

「でも、陽一との距離が近ければ近いほど落ち着く。それに……なんか、幸せ。理由とかなく、こうしていたいの」

 自分でも確信し切れていないような、どこか曖昧な口ぶりだ。それでいて、陽一から離れる気配はまるでない。

 やれやれと首を振り、陽一は壁に掛けた時計の方へ目をやった。変わらぬトーンで、一方的に告げる。

「あと二分な」

「短いね。じゃあその分もっとくっつかないと」

 星奈の方も、あっさりそう言った次の瞬間には、腕に込めた力を一層強めていた。否が応にも、彼女の身体の柔らかさを意識せずにはいられない。脚まで絡めるようにしながら密着の度合いを高めてくる彼女に、陽一は焦る気持ちを堪えて、嫌そうな声でぼやいた。

「暑苦しい、ついでに痛ぇよ。鯖折りにする気か」

「それくらい我慢。自分で二分って言ったんだから、その間くらい好きにさせて」

 陽一の文句にも、取りつく島もなく応じる星奈。彼女は抵抗できない陽一を容赦なく抱きしめ続ける。

 極めつけに居心地が悪そうに、言葉にならない声で唸る陽一に囁きかけるように、星奈の口から小さな声が滑り落ちた。

「好きだよ、陽一」

「はいはい。分かった分かった」

 出来得る限り投げやりに、極力まともに取り合わないようにと、取るべき態度を選んで返事をする陽一を、全て見透かしたような楽しげな目で見やり、星奈がまたも小さく笑いを零す。

 彼女は陽一の身体に顔を押し付けながら、蚊の鳴くような声で。陽一には聞こえないように、まるで自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「本当に、好き。大好き――」

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